ネミアナの侵襲 1

「ネミアナって、知ってる?」
   by.水無月透子

 夕凪さなぎは破壊が嫌いだ。だから友人を作るのをやめた。一条みつきは甘えんぼ。だから二人は一緒にいる。
 北極の氷も南極の氷も殆ど全部溶けてしまってたくさんの島々が水底に沈んだある日のこと。地表に残った人々はそんなものにはわれ関せずとばかりにそれぞれの日常を送っている。ある国では首都機能が麻痺し、ある国では主要産業たる農業が壊滅的な被害にあい、ある国ではどこぞの熱帯から溢れ出してきた猛毒のウイルスにやられて一切の魚が食べられなくなってしまったから、今にも水に沈みそうで苦しんでる人々に優しさを割く余裕なんてみんななくなってしまった。国連も機能しない。国連はそもそもが結局は自分の国の利権をかけて争い合う仮面舞踏会だったわけなんだけれど、国って総体があんましちゃんと機能しなくなっったらその上部組織である国連ももちのろんで崩壊しちゃって、みんな自分とか自分の大切な誰かとかギリギリ一人が抱え込める物を守るので必死だった。国家って総体がちゃんとしてた頃より治安の悪化した地域もあればその逆もしかり。なんとあんなに争ってた武力組織同士が気候の危機に対抗するために長同士の会談で和解して紛争が収まっちゃうなんてどこの誰が考えたものだろう。話し合いで解決するなら最初っからそうしてれば良かったのにね。でもそうは上手いこといかないのがこの世らしい。だって、争ってた地域ではもう農作物が育たなくなっちゃったし水もないし石油が出ても今はもうソーラー発電のほうがよっぽど効率良いくらい毎日毎日かんかん照りで需要ないし、確かに争う必要なくなったかもしれないんだけどさ。思想信条宗教的信ずるものの違いで対立してたって古代書籍には書いてあった。その物資の面の問題がなくならなければやっぱり話し合いだけじゃ解決できなかったってつまりそういうことなんだろな。
 とにかくそんな世界である日のこと、かろうじて一命を取り留め残っていたひとかけらの最後の氷がついについに解けちゃった。ペンギンはもういない。いない、というか、もはや違う生物になっている。なんとペンギンが空を飛んだのだ! 身にまとっていた暖かな白と黒の毛皮は年々薄くなって、ついにはほぼ裸のような個体が生き残るようになっていった。ついでに言うと泳ぐ機能も失っていない。ペンギンは、なんたる遺伝子のなせる技か、保護色として空の青さと海の透明さをブレンドしたような古代の人間には想像もつかないであろう姿になって地球を跳ね回っている。空を悠々と羽ばたいて気持ちよさそうに太陽の下弧を描いて海へドブン! クジラをよけてすいすいすいと。それは美しい宝石のよう。
 氷解したひとかけらの透明にはネミアナが閉じ込められていた。それも生きたまま! 古代歴2018年にすでに一個事例があるんだけど、永久凍土には結構たくさん生きたまんま原生代の生き物たちが閉じ込められていたんだよ。そのあと、原生代を探るような利益に直結しない研究プロジェクト達は次々に閉鎖されて、しかもそれどころじゃなくなっちゃって手つかずになっていた。手つかずの永久じゃなくなった永久凍土からは人間が誰も気づかなかっただけで数百種類の原生種が復活を遂げていたんだけど、どうも気候に合わなかったり水がだめだったり現代のウイルスに抗体がなかったり寿命が短すぎたりして、数千万から数億年ぶりくらいに復活した生き物たちはそのまますぐに死んでしまった。やっとちゃんと死ねたって言った方がいいのかな?
 ところがどっこいネミアナは違った。ネミアナは原生代エディアカラン紀の海中から一気に約六億二千万年ぶりに目を覚まして、おや、ここはどこだろう?と思った。でももう氷は全部全部溶けてしまっていたからやっぱり目を覚ましても海の中。なんか昼寝でもしてたかなっとばかりにネミアナはふわふわと海の中を漂いだした。
 エディアカラン紀の生物、俗に言うエディアカラン生物群の生物体は全てが軟組織からできていて、骨も外殻も堅い骨格は一個もない。だから、ネミアナも例に漏れずクラゲのような形をしていた。クラゲのようなネミアナは太陽を見上げながら(どうも昔より照りつけるようだな。だんだん暑くもなってきた)なんて考える。でも一応多細胞生物ながら超原始的生命体のためそんなに多く思考はできない。あー、なんだかぼんやりしてきたなあ、あついなあ、およよ~、とふわふわしている。うあー、なんとなくぐあいがわるいなあー、と思うが今きた方に引き返そうとはしない。そう、一応わずかばかりの氷と緯度のおかげでちょっと涼しかったところから、ネミアナはどんどん赤道に向かって流されてその温かさに適応できずにいたのです。ネミアナはしかし、超原始的生命体のためふよふよしつつも生きることにはがめつい。っていうか、感情の有無ではなくとりあえず子孫残しとこ、死にたくないってやつは生物の条件反射である。古代に一世を風靡し人間を恐怖に陥れたというGなんとかって生命体だって危険を察知するとたちどころに産卵しその性質により余計人間たちに憎まれたというじゃないか。なんかそんなかんじでネミアナも増えた。ネミアナは無性生殖の生き物なのだ。プラナリアと一緒。ふよふよ~っとしながらほよほよほよと知らぬ間に増えて、最後のひとかけらの氷からでてきた最初の個体は子孫を残してそのまま何もわからないままで死んだ。
 さて、ネミアナの生命力は伊達じゃなかった。さすが永久凍土の中で六億二千万年もの気が遠くなるような長い間命を保ち続けていただけのことはある。ネミアナは進化もうまかった。分裂するたびに気候に合わせてわずかずつ遺伝子のつくりを変えていき、人間がついぞ適応しきれなかった死ぬほど暑い気温五十度の世界に適応してしまった。そして、ちょっとだけ残った、全盛期に比べたらやっぱりひとかけらくらいしかない人類の生きる場所にたどり着いた。

 「さぁなぁちゃあぁぁあん」
 ガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャ、と鍵のかかったドアノブを回そうとし続ける一条みつきに夕凪さなぎは「あーもう、五月蠅いっ!」と叫んだ。みつきとさなぎは一つ屋根の下に住む仲である──といっても、他にあと四十人ほど同じ屋根の下に住んでいるのだが。
 みつきとさなぎが暮らすのはおそらく地上でも結構最新鋭の共同住居だった。たて穴式住居とか洞窟住居とか村落共同体としての集合住居とか人間は古代期からいろんな形で集まって暮らしてきたわけなんだけど、半分水中に作られたこの共同住居は古代のよくわからない科学技術の結晶とやらでできていた。設計した科学者だか技術者だか組立屋だかはとっくに死んでしまっていて、今のところ大丈夫だけれど壊れたらたぶん直せない。半水中なので窓が割れたら一大事である。だから子どもは決して窓のある部屋で暮らせないし、大人が暮らす窓のある部屋でも絶対に間違って割ってしまうことがないように棒と棒の隙間が殆どない厳重な鉄格子で防御されている。子ども達の楽しみは、大人の部屋に入らせてもらったときに何か重大な秘密でも覗くかのように鉄格子のギリギリの隙間から目を忍ばせて一面水色をした外の世界を見ることだった。
 みつきとさなぎは生まれた時からもうずっとこの建物の中。外の世界へ出たことも両手の指で数えるほど。だから、どうやら白いひげを蓄えたよぼよぼの前住居長は知っているらしいこのピリカ共同住居以外の住居やその周りに広がる得体の知れない景色なんてものには全然想像も及ばないのだった。断片的には知っている。「みなぎるしんりょくのやまやま」「ずっとむこうまでつづくまるでうみのようなみずうみ」「たいようがしずみあたりがまっくらになったときこそうつくしくかがやくぶんめいとしのきらめき」「そこへしんしんとふりつもるアイスみたいにつめたくてしろくてさわったらきえてしまうはかないゆきのかけら」。みつきやさなぎのような子ども達には何の実感も伴わない言葉の羅列が、大人たちの間では郷愁の念を込めてよくやりとりされているのだった。
 「五月蠅いっ!」と怒鳴ったのにもかかわらず諦めていないらしい一条みつきは恨みの念を込めて扉を小さな音でノックし続けるという地味な嫌がらせ攻撃に出ていた。さなぎはち、、と思う。人なつこく天真爛漫なみつきはいくらでも他に友達がいるだろうに、なぜか妙に私と一緒にいたがるのである。あんまり部屋に入れるといつまでも会話したがるから自分の好きなことをする時間がとれなくなってしまう。けれどご覧の通りみつきはめちゃくちゃしつこいので放っておいたら放っておいたで鬱陶しいのだ。夕凪さなぎは押しに弱い。
 どうしたの……と諦め半分に扉を開けるやいなやさなぎいいいいっと飛びつかれる。ドアを開いて五回に一回は抱きつかれるのでもういい加減なれても良さそうに思うが、この飛びついてくるときと飛びついてこないときがあるというのがくせ者で毎度毎度少し吃驚してしまう。
 「お、おぉ」と声を出して考える、いや違うな。未だにどう反応していいかわからないからこうなるのかも。だってどうすればいい? もろ手を挙げて私も「みつきー!」と抱きつきに行くのか? おかしいだろ……。そんなわけで今日も今日とて少し面倒くさい思考回路をこねくり回してフリーズしているさなぎだったが、みつきの抱えてきた話の方は今日はちょっと事情が異なった。
 「さなぎ!わたしたち、外に出られるのよ!」

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