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3月31日

社会に出ればいろんな声が聞こえてくる。
自分の本音がかき消されてしまうことも多い。

少し前から、こういった文を書く機会は減った。
めんどくさいし、わざわざ書く必要もないことだってあるし。

ただどうしても生きづらい自分のような人が、どんな風に世界を見ているのか。

それを知ってほしいために書いているときはある。

仕事を離れてから、時間はゆっくり流れるようになった。
そんな自分でも、もう3月が終わるのかと思う。

周りの同年代は、社会人4年目になるらしい。
若手というレッテルはもう無くなる感じだ。

比較しなくていいと言われながらも、やはりその同年代とかの目は気にする。
置いていかれてないか?まともな生き方じゃないのではないか?休んでていいのか?という気持ちだ。

もう同じレールで争っても勝てる気はしない。

でもマイナスの感情に支配された状態でする意思決定で、ろくなことはないことをすでに知っている。

焦って何かをして、うまく行ったことはない。

社会…自分以外の外野は調子のいいことをたくさん言ってくる。
今の時代、AIの進歩でいくらでもそれらしいことは言えるようになってしまった。
どこの誰かも知らない変な奴の情報に踊らされてしまうことだって珍しくないわけだ。

簡単に「信用」「信頼」と口にしすぎた気がする。
そんなにハードルが低いものじゃないだろうと。

立派な考え方を発信しても、行動が伴ってないと口だけと言われて信用をなくして周りから人はいなくなる。

自分はとりあえず、ろくでもない大人になりたくなかっただけだ。これまで生きてきて、ひどすぎる人を何度も見てきたし、関わってきてしまったからだ。

強烈なNOがないと、自分を守ることはできない。
傷つけてくる人を無意識に受け入れてはいけないのだ。

そして、自分から勝手に傷つく選択をしてもいけない。

キラキラしたイメージだけで動けるほど、甘いものじゃないと思う年代にもなってしまったと思う。

今は肯定ブーム(むしろ〇〇ハラスメントが多すぎるせい)だから、なんでも「いいよ」と口にする。
そのせいで、疑うことを忘れるのだ。

健全に考える思考を奪っている気がして、モヤモヤする。

考えることを停止させる危険な風潮だなとすら思ってしまう。

人との繋がりは確かに大事だけど、関われば関わるほどリスクは増す。
でも繋がらないと面白さはない。

ちゃんと見る目を養わないといけないと感じた。

それは数年前の自分に言いたいことでもある。



それでも自分は何かにチャレンジしていたい気持ちだってある。
そこに自分の気持ちがあるならば。だけど。

もっと「やりたいこと」という言葉のハードルは下げたい。
ちょっと好きでもいいじゃん、って思う。
なぜ、そこまで好きです!って強い度合いを求めてくるのか分からない。
求めてなくても、その言葉には力が込められている気がしてしまう。

本当にちょっとの気持ちからスタートしていけるような自分でいたい。

あと、気持ちを込めすぎるとダメージを受けたときの痛みが大きすぎる。
それも注意してやりたいと思うな。

今ぼんやりと思うのは、やはり自分のような人が見ている世界は特殊だということだ。
ぜんっぜん分かってもらえないことが多い。

変わり者だって何度も言われた。それがキツかった。普通に生きてるのに否定されるのなんて酷すぎるだろうと。

でも、本当に分からないらしいから、仕方ないというのも寂しい。

どうにか、うまく伝えられる方法はないのか?
生きづらい人が少しでも心地よく過ごせる方法はないのか?と探しているところだ。

そんなことを思った3月でした。

4年目は無理せず、バランスよくやりたいなと思います。



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