「江戸時代は『性におおらか』な時代だった」とかいうデマ、および映画『春画先生』に対する1万字超の怒り

突然ですが!

これから「江戸時代までの日本は『性におおらかな社会』だったが、西洋的/キリスト教的価値観の輸入がそれを潰した」とかいうなぜか世間にはびこる謎幻想、およびその手の害毒史観のもとで作られた『春画先生』という映画の問題点についてキッチリ語らせていただきます。
……つーかとっくに上映終了している映画について今さらウダウダ指摘するのもなんだと思ったけど、やっぱ今年のムカつきは今年のうちに全部吐き出しておかねば気が済まぬ。
かなり長くなるだろうけど、しばしお付き合いいただければ幸い。



そもそも。

「おおらか論」に与する人たちってのは、当時に春画・春本の類が何の制約もなく出版され、大衆がそれを白昼堂々と買うことができたと思ってるんだろうか? 
例えば明和年間に京都の書店組合が発行した『禁書目録』には好色本が多く掲載されているし、為永春水ほどの才気ある戯作者も、たかが『春色梅児誉美』程度のハーレムものラブコメを書いただけで刑事罰を受けて筆命を絶たれた。
そんな息苦しさがずっと続いていた世の中の、いったいどこらへんが「おおらか」だったというのか。

戦前・戦中はもとより、戦後に至ってなお日本では「サド事件」「四畳半襖の下張事件」、それに「国貞事件」だの「松文館事件」だのといった無粋極まる「猥褻物」規制が繰り返されてきたわけですが、それは文化の西洋ナイズドが進んだ維新後に限った話では全くない。
今現在まで残り、我々の目を楽しませてくれる大江戸エロコンテンツのほとんどは、こそこそと人目につかぬようなルートで流通し、厳しい規制の網をかいくぐって何とか幾星霜を生き延びてきたものでしょうがよ。
大前提として、まずそれを覚えておいていただかなくては話にならぬ。



ま、それは一旦さておき。

江戸中期の作と目される性道指南書・『艶道日夜女宝記』には「自行安味法」、つまり「自慰のやり方」について説く章があります。それに曰く……

「初心の女はまづ枕絵を求めて、心をうるほし、このもしく気ざしたるときくぢり、杯にてそろそろ道をあくれば、しぜんと其気いたりて、にゐ枕にくつうなし」

ここから伺えることは、婚前の女性でも望むなら「枕絵」を入手できるルートがあって、しかもそれを使って自慰をすることは別に罪悪視されていなかった……どころか、むしろ推奨する説すらあったということですね。
なるほど確かに当時の市井には、男女分け隔てなくエロ絵を楽しむことのできる気風があったらしい。「おおらか」論者の中には、それをもって自説の礎とする向きもあるようで。

が、ここで別の『懐宝秘伝真情指南』を見てみましょうかい。これは江戸後期を代表する春画の名手・渓斎英泉の筆によるもの。

「男ハ妻におくれても再縁ことあり。ただ子孫長久の為なり。されども女は一生に嫁入すること一度なれば、たとへ去られても二たび夫を持たず。一期の間、両夫にまミゆるの法なく、我心を一ツにしておつとを大切にし、操をまもることを女の道といふ」

……云々。
ふーん。

また有名な川柳集の『誹風柳多留』第七編には

「不承知な娘 額にしわを寄せ」

という句があり、下ネタ川柳ばかり載ってる『誹風末摘花』の第三編には

「娘の股へ結納の錠がおり」

という作がある。
さて、これらから透けて見える「江戸時代」の性倫理観とは、いったいどういうものだったと考えられますでしょうか。

「川柳」ってのは「ギャグ」です。上掲二句で詠まれている「娘」たちは、どちらも「恋愛ないしセックスの自由を求めようとする姿」を(自由恋愛が基本である21世紀日本人から見れば首をかしげたくなるような酷薄さをもって)笑いものにされている。
つまり昔の「女」とは、親が決めた結婚相手であれば誰であろうと唯々諾々と嫁ぐのが「常識」とされていて、それに逆らう姿は奇怪視あるいは滑稽視されてたってこってすよね。



いやもちろん、江戸時代にだって離婚・再婚は頻繁に発生していましたが。

かつて 参議院調査局がまとめた報告書 では、陸奥国の一部における離婚率がかなり高かったこと、および国内での再婚の例は決して少なくなかったことが述べられてます(於94ページ)。
それに歌舞伎の世話物になるような不義密通だって、そりゃもう全国津々浦々で常時勃発してたでしょうよ。でもそんな実情の一方で(むしろそういう現実があったからこそ『従順で家庭的な女性像』がかえって強く求められたのかもしれませんが)、ゴリゴリに固定化され、かつ不平等な男女の性役割論に囚われた人間が一般社会に大勢存在していたんです。

憂世を忘れて淫猥かつ自由な妄想に耽る、密やかなひと時……それを庶民に提供してくれる春画絵師の大物ですら、「女が一度嫁いだからには、イエのことだけ考えて残りの余生を過ごせ!」なんて高圧的な説教を当然のごとく語って恥じない。

再度聞きますけど、そうした大衆的な性意識のどこらへんが「おおらか」だったんですか?

つまり徳川260年の歴史の内で、「性の自由」などという極めて近代的な理念が達成されていた瞬間など1ナノ秒とて存在しちゃいねーんですよ。江戸期日本は確かに性的画文の一大産地ではあったものの、それに対する弾圧だって厳しかった。同時にジェンダーロールのおしつけもキツい社会で、そこらへんの事情は大昔から西欧/キリスト教文化圏をはじめ他の諸外国とそれほど変わりなかったはずなのです。

「性愛」の表現を白日下に発表することは捕縛の危険性と隣り合わせだったし、加えて身分、出自、そして「性別」を理由とする抑圧や差別は厳として存在していた。
現代的な目線から見て好ましいとされる細かな美点のみが強調されることで、やはり現代人にとっては本来「お、これは問題ですわ」としか映らないはずの大きな背景が見えなくなり、結果として「ああ昔は良かったなあ」などという単純能天気で歪んだ感想が「歴史的事実」として広まってしまう……
「おおらか」という思考停止的な言葉の問題点は、そこにあります。

一をもって十を語るな。
「歴史」に向き合う上で、それは決して正しい態度ではない。



ついでに付け加えると、海外との交流が盛んになって「キリスト教的価値観」とやらに染まったとされる日本人が、以降は大いに反省して下半身コンテンツの生産をパタッと止めたのか?

……と言えばそんなことは全然ないわけで。

そこらへんは20年以上も前から有名な 「閑話究題 XX文学の館」様 をぜひご参照いただきたいです。明治~昭和前半における「地下本」「発禁本」の一大コレクションおよび解説サイトですゆえ!

ただ残念なことに(恐らくはウェブスペース貸出上の利用規約によって)、はっきりとした性描写のある図版は掲載されていません。近代日本の性交イラストが具体的にどんなものであったか気になる方は、本朝きってのエロ本コレクターである松沢呉一氏が著した 『エロスの原風景』(ポット出版)  に『バルカン戦争』ものの実例などがちょっとだけ載ってますので、本屋でそっちも探してみていただきたく。
また、いわゆる 「壇ノ浦」もの なんかは、江戸時代から近現代にかけて何度も版元や文体を変えて繰り返し繰り返し闇流通し続けてきた超ロングセラーなわけで、そこには時代を超えて大衆が「性」にかけてきた執念みたいなものが感じられますねー。


これら「地下本」が物語っているように……幕府も新政府も「公序良俗」とやらに反する出版物に対して実に冷酷であったことで共通していたものの、対する国民の側だってしぶとく「需要と供給」のサイクルを継続していました。
確かに「浮世絵」という描画形式は19世紀末頃からどんどん姿を消していったわけですが、それは別に「性的表現」そのものの壊滅、および「国民の性欲求の消沈下」と同義ではありません。ただ、代わってより近代的なタッチのイラスト、および新興メディアであるところの「写真」が地下でハバを効かせていったというだけの話です。



以上つらつらと見てきた史実上の資料群から明らかなように、「西洋化が古き良き『性におおらかな日本』を変えてしまった」神話ってのは、ほんと頭から尻尾まで不正確で、んなもん口走ったが最後、斯道に関する調査・研究を微塵もやったことのないド素人だとみなされても仕方がない戯言なんですよ本来は。

……にも関わらず。

例えば元・法政大学総長の田中優子氏みたいな重い肩書を持つ専門家ですら「江戸時代はダイバーシティに満ちあふれていた社会で……」だとか何とか世間のトレンドに乗っかったような曲学阿世しぐさを繰り返しまくりで一向に反省しないし、ゲイリヴやフェミニズムの界隈にはその類を無批判に信じて己の活動の正当化に利用しようとする者が後を絶たないし、あと二次元のオタクたちが「SHUNGAすげー! 俺たちの祖先はこんなにもHENTAIだった!」みたいな騒ぎ方をする際にはだいたい「おおらか論」もセットで付いて回って無邪気に称揚される。

(……ちょっとでも自分が詳しい分野で調査・考証が半端な出版物が出回ると、すーぐ「『ゲームの歴史』出版停止ざまあ!」とか「『平成少年ダン』は平成エアプ!」とか言って叩きまくる癖に、その手のヨタ話には諸手を挙げて飛びつくんだよな……)


いやもう、なんなん?

どうしてこんな世の中になってしまったのか。

愚考するに。
ここ20年ぐらいの間で「一昔前の時代劇のごとき『圧政に苦しめられる町人! 重い年貢と飢饉で死にまくる農民!』的な江戸時代観ばかり語るのではなく、もうちょっと当時の『良かった探し』もしていこうぜ」みたいな動きが盛り上がって、そんな感じのテーマの一般向け新書がどんどん出るようになったわけですが、そういう過去の「江戸暗黒論への反動」がかえって行き過ぎてしまってる感じなのかなあ……

とかぼんやり思ってるんですけど、きちんとリサーチした上で得られた結論などではないので所詮は推察に過ぎないです。
まあその根源の究明、および「おおらか論」を無責任に吹聴してきた各種文化人の皆様への個別の批判は今後の課題として……

とにかくそんな塵世の潮流の中で生まれ、またそれを現在進行形で加速させやがった非っっっっ常に不届千番ド迷惑な映像作品が『春画先生』であったわけですよ(やっと本テーマにたどり着いた!!!!!)。



2023年の11月初頭。
「どうせペラい映画なんだろうな……」と薄々感じつつも、そろそろ公開終了らしいし、それに一応は関心あるジャンルのお話っぽいし一回ぐらいは観ておくか……と映画館の入口を潜ったが運の尽き、同じドアから外に出る頃にゃ不肖当方、それはもう見事な阿修羅の形相と化しておりましたね。
 

そうそう、ここから先は『春画先生』本編のストーリーについてある程度のネタバレが混じりますので、未見なれどいつかレンタル円盤なりネット配信なりで同作を鑑賞する予定のある方はちょいとご注意願いたく。




この映画の主人公は、タイトル通り「春画先生」とあだ名される春画の研究者です。
彼は過去、病気で愛妻に先立たれており、それからはずっと女っ気を遠ざけ、さらには大学とケンカしてアカデミズムからも距離を置いた上で、孤独に暮らしています。
そのため近隣からは「変人」扱いされている彼ですが、ある日、ひょんな事から喫茶店で働いていたある若い女性を気に入り、マンツーマンで春画の歴史とか鑑賞法とかを教授することになって……

てのが、大まかな筋書きです。
春画先生は同好の士たちによる春画鑑賞会にも頻繁に呼ばれており、この道ではかなり高名な人物として尊敬を集めているご様子。また、そんな先生にはすげーイヤミな性格の編集者(男性)が心酔しつつもつきまとっているんですけど、彼の目的は先生に「春画の歴史の全てをまとめた『春画大全』を執筆させること」なんだとか。

つーわけで、作中ではめちゃくちゃ春画に詳しい「権威」として持ち上げられまくりの春画大先生でありますが、そんな彼が我々銀幕の前の見物衆一同を前に堂々ご講釈あそばされるのが……

ええ、ええ、本稿にてさんざん批判してきたような、まさにド真ン中の「江戸時代までの日本は『性におおらかな社会』だったが、西洋的/キリスト教的価値観の輸入がそれを潰した」論だったわけですよええ。

いや、覚悟はしていた。
だいたいそんなこったろうと思ってた。
しかし、やっぱり……うんざり、したよね。

「大権威」であるはずの春画先生が噴飯モノのご高説を披露するのは一度のみじゃなくて、他にも

「かの『日本書紀』には、国生みの祖であるイザナギ・イザナミは鳥のセキレイから交尾のやり方を学んだ……と記されている。つまり『正常位』という西洋人によるネーミングが輸入されるまでは、そうした動物的な体位こそが日本的な性交の本道だったのではないか?」

的な持論(流石にセリフの細部まではいちいち覚えてないんですが、大意としては間違ってないはず)を語るシーンがあるんですけど、いやーもし自分が作中にてその場に居合わせてたなら、ボディに最低でも3発は入れていたところです。

え、え、何?
江戸時代の性文化の専門家でありながら、「正常位」という呼称が一般化される遥か以前から同体勢が「本手」と呼ばれていたことをご存じない?
用例としては、さっきも紹介した『艶道日夜女宝記』に

「交合に女をもつぱらに、よろこばせはやくやらせんと思ハバ、本手にかまへしとき、男わが身を、はハせたるやうにさしこミ」

……云々と書かれてます。

あと、またしても『末摘花』の初編から引用するけど、

「うしろから しなとはよほど 月迫し」

なんて川柳だってありますな。
年末も年末、十二月の終わりが差し迫るめちゃくちゃ忙しい最中なので、「うしろから」ササッと手早く済ませざるを得ないという……
これを裏返せば、すなわち「うしろから」とは本来的なじっくりとした愛の育み方ではない! という意識が、当時の庶民間にあったということじゃないんですかね多分。



……とまあ。
春画先生を師と仰ぐ件の編集者氏には残念なことながら、自分みたいな一介の古典オタクすら知ってる程度の情報すら持ち合わせない人物に『大全』なんぞを書かせたところで、どうせ紙資源の無駄。
中身もたかが知れてるし、がんばって製作したところで所詮はサツマイモを焼くか風呂の焚きつけにするか程度の価値しかないんじゃないですかねー……

と意地の悪いことを思ったり。



こういう感じで何かしらの創作物をチクチク批判すると、「老害オタクの知識マウント!」だの「この作品を通じて江戸文化に興味を持つ人が増えるなら、それは喜ばしいことだろ! 門戸を狭めるな!」だの「フィクションなんだから史実と違っていても構わないだろ!」だのとアツく反論してくる人たちがどっかから湧いてくるんだけど、まあそういう向きはひとまず落ち着いて、「文意を汲む訓練」を小学校あたりからやり直してきて下さい。

自分は江戸下半身カルチャーについて多少の知識を持っていると自負はしているものの、それでもまだまだ勉強中の身で、世に己よりすごい人はいくらもいるってこともまた自覚してます。その上、ここ2、3年はコロナ禍とかで生活が色々と大変になって、斯道に耽溺する余裕はほぼ失われていました。

ですが、そんな発展途上者がさらに弱体化したような状態でなお、一見して即座に指摘できるような(だからマウントなんかしたって何の自慢にもならない)程度の誤りが含まれ、しかも修正されないまま社会に拡散しているからこその大問題なんだよ! ……って、そう主張してるんです。

あと初心者の入門編になりそうなコンテンツだからこそ、その記念すべき第一歩でいきなりつまずいたり、信じ込んで後から恥をかいたりしないよう、内容はキッチリ精査しておかねばならないんじゃないですかね。
小学生向けの学習用漫画であれば、「豊臣秀吉は1185年に室町幕府を開いた」なんて大間違いを書いてもいい……ってことにはならないでしょう。

それとフィクション云々については、まあ全部が全部「ツクリバナシ」だって前提のもとなら何をやってもらっても構わないです。
能や歌舞伎、それに時代劇や歴史小説などが多少「考証」からズレていたとしても、けっきょく面白けりゃあ正義よ! ……というのが私の基本的スタンスですゆえ。
が、春画先生が作中で語っている「江戸時代」ってのはあくまで我々が生きる三次元実在世界に関するもので、その脚本上のセリフはスクリーンに向かう我々リアル観衆を啓蒙すべく書かれているものでしょうがよ。
前述のセキレイと神代の逸話がどうのこうのに関しては、一応スタッフロールの途中に「本作における『日本書紀』解釈はあくまで独自の創作です」みたいな小賢しい予防線の一文が差し挟まれてはいたんですが、この中途半端さがまた我のカンに触りましたね。

それを言うなら、そもそも「本作で言及される『江戸時代』とは、『がんばれゴエモン』シリーズや『ニンジャスレイヤー』作中に出てくるのと完全に同レベルな、どこまでも幻想に過ぎない性のユートピアです」ってお断りをまず真っ先に入れておいて下さいよ。

もし劇中のどこかで、ただその一言を一瞬でも掲示してもらえてたなら、自分がこうして長々しく文句をぶつけることもなかった。



『春画先生』のウザいところは、まだある。

「春画は単なるポルノとは違う!! 世界に誇るべきアート!!!」とか「当時は『笑い絵』とも呼ばれていて、朗らかな雰囲気のもとで大っぴらに鑑賞されていた!!!!」とかのメッセージを矢鱈に強調していたのが、たいそう鼻につきました。
この種の「アート目線論」もまた、「おおらか論」と並んで昔からよく耳にしてきたところでありますが……

……いや、ポルノはポルノでしょ。
それは基本的に庶民が日常生活の一環として密かに生産し、同じ庶民がやはり日常生活の一環として密かに消費してきたものでしょ。
腕前の優れた画工がそのスキルとアイデアを尽くして描き、また超絶技巧を誇る彫師が精魂込めて作成した絵であっても、その本来的な機能と目的は「観る者の淫心を高揚させること」であって、それ以上でもそれ以下でもないでしょ。

あからさまなギャグとして描かれた珍妙なシチュエーションの艶画だってあることにはあるし、本稿で何度か挙げている『艶道日夜女宝記』に至っては、同時期に広く読まれていた『医道日用重宝記』という真面目な医学書のパロディであります。
でも、そういうのは春画・春本全体の比率から見ればあくまで「一部」でしょう。
「春画は縁起物の一種としても尊ばれていた」なる説もありますが、今に残る作品の多くはやはりエロティックな雰囲気の漂う「男女の交接図」ですし、また先に引用した『艶道日夜女宝記』の一文などからも、それらが密やかな自慰目的にだって思いっきり使われまくっていたことは明白です。

限られた上映時間内で「春画」の実態を語りたいなら、別にその主要な使用法を紹介するだけでも別に充分じゃないですか。
それをなんで、わざわざメインストリートから外れて「いや、こっちの横道こそが主要!」みたいな紹介の仕方をするわけ?

例えば……片や土岐家だの狩野派だのの名人が、大名なり公卿なりのパトロンを得て描いた豪奢な屏風絵。
片や、庶民が同じ庶民の野粗な欲望に奉仕するために作成した、薄い紙一枚の刷画。
その両者を並び立てた際、後者にもまた前者とは違った味わいのセンスや美点などが感じられるなら、それらの価値に優劣をつけるのは全くの無意味で、どっちも同等に称賛されるべきです。それが、真に「芸術」を語る上での公平なスタンスってものだと私は考えます。

ある美術作品を評価する上では、それが作成された目的や背景なんて二の次三の次もいいところ!



事実、かつてイギリス・日本それぞれで開催された「春画展」に関わった人たちを取材した、『春画と日本人』(2019)という優れたドキュメンタリー映画がありまして。
観たのがかなり前なのでやや記憶が朧気ですが、そちらの冒頭では確か、大英博物館の学芸員が「春画とは、男性の欲望に供するために描かれてきたもの」だとはっきり説明してましたね、ええ。
そして続いて登場してくる日本の江戸好色文化研究者各氏の中にも、とってつけたような「おおらか論」や「アート論」を大上段から語る人物なんざひとりもいなかったはずです。

いやー潔い! 

自分の嫌悪するような俗論がいつ飛び出すか……とやや身構えながらこの映画を観ていたのですが、おかげで心安らかに劇場を後にできたことをよく覚えています。

ところが一方で、「春画はどうして世に生まれたのか」の根源的な理由を説明すべき局面でいちいち言葉を濁し、わざわざ「高尚なアート」扱いして無理にハクをつけるとか、「笑い絵」云々とかいうエクスキューズを用意しないことには画面に絵を出せないなんつー弱腰映画が存在するなら、そういう態度こそがまさに「西洋的(笑)」で「キリスト教的(笑)」な価値観とやらに蝕まれているんじゃないんですかねぇ。

その矛盾に気づけていない、ってのがまた『春画先生』の残念なところです。



あとはですね、「せっかく編集者を両刀設定にしておきながら、女色絵ばかりで男色絵を一枚も出さなかったのは勿体なさすぎる」とか「京都の秘密クラブ的鑑賞会に春画先生が行くってんで、どんなレアな絵が出てくるのかちょっと期待したが、誰でも知ってる北斎の蛸海女図で腰が砕けた」とかもあるんですけど、そろそろ長文を書くのに疲れてきたし読む方もいいかげん眠くなってきたと思うので、細かいことは省いてそう、あと一点! 
これは今までツラツラ書いてきたような客観的「検証」ではなく、個人的・主観的な「感想」になってしまうのですが、とにかくあと一点! 

……だけ、文句を吐き出させて下さい。



春画先生宅に通う内に、元・喫茶店員だった女子もまた春画というジャンルの大ファンになり、さらには先生に対して激しい恋心を抱きます。
それどころか、彼女はまた編集者の男性ともついうっかり関係を持ってしまいます。
で、その後、病死した春画先生の前妻には双子の妹が存在していたことが判明し、色々あって「その妹が見ている前で、春画先生と彼に恋する女子とが、かなり特殊なシチュエーションでセックスするシーン」が本作最大のクライマックスとなっています。

作中の主要キャラたちの性倫理観は、現代日本人が持つ平均的なそれに比べてかなり放埓なものとして描かれており、まあ端的に言っちまえばどいつもこいつも最終的にゃ「淫乱」「変態」に成り下がるわけですよ。
で、編集者氏はこの流れを「春画先生に関わった奴は、みんな性欲のタガが外れちまう」みたいなセリフで説明します。

自分はそこで、本当に本当に本当に心の底の底の底からムカついた。
さらに映画の後半、春画先生はレアな組物(シリーズものの絵)を手に入れるためにものすごくクズな行動に出るのですが、それもまた瞋恚の炎に油を注いでくれやがりました。

マイナーな二次元のスケベコンテンツにドハマリしているような奴は、三次元の生身の人間に対しても平気で「タガが外れた」性的ふるまいをするようになる? 
社会道徳も倫理観も投げ捨てたクズになっちまう?
んなもん、ただの偏見だろうが。

じゃあ病原菌の研究をしている医学者は、自分もまた誰かを病気で苦しめたいと思ってるからその職に就いたのか?
格闘ゲームで瞬時に相手をぶっ倒せるコンボを探求するプロゲーマーは、現実でも暴力的な人間なのか?

つーかそもそも、「春画の求道者」であるキャラをただそれだけで「変人」とイコールで結ぶという概念自体、いったい何十年前の専門家ステレオタイプなん?

……ってな話ですよ。



江戸期においては、多種多様な猥画淫本の数々が確かに生産されていました。しかし維新はもちろん二度の大戦すら遥か昔となった令和の今において、それらのレトロでヴィンテージなエロ本の存在は(師宣・北斎ら一部の巨匠の超有名作を除いて)ほぼ忘れられています。
本稿で少しだけ触れた『懐宝秘伝真情指南』や『艶道日夜女宝記』なども、恐らくは日本の全人口のうち9.5割ぐらいは実際に観ることなく……つーかその題名すら知ることなく生きて、そのままつつがなく天寿を全うしていくことでしょう。

この文章を書いている者は、そうした放っておけば歴史の闇に消えてしまうような資料の数々に、限りない愛着を覚えるオタクです。これまでの生涯で、そのようなものを己の目で読むためにばかり大量の金銭と時間を費やしてきました。しかしそのような方向の興味・関心のあり方は、どうも現代社会においてかなりの少数派のようで、そうなると周囲からはやたら奇異の目で見られがちなんですな。

「変態」だとか「頭がおかしい」だとか、そういう類の不快な言葉を直接投げかけられたり、あるいは陰口を叩かれて気味悪がられたりしたことは一度や二度の話ではなかったり。
……別にこの趣味のせいで誰かに迷惑がかかってるわけでもなく、実際にセクハラだの不倫だのに及んで誰かを傷つけるような真似とも無縁であるにも関わらず。



そんな苦々しい思い出どもがフッと蘇りまくってくるもんで、こうしてマイノリティーなキャラクターを軽々しく「世間の枠組みから外れた、変態の色情狂」扱いするような創作物には、怒りと嫌悪以外の感情を一切覚えません。

無論、春画先生を始めとするキャラたちは特定の実在人物のモデルを持たない「架空」の存在なわけで、彼らがどのような人物に仕立て上げられようとそれは表現の自由の範囲内、当方個人から見ていささか偏見・差別的な意味合いが感じられたからってすぐさま挙国一致で槍玉に挙げろ! ……なんてことまでは申しませんよ(それが通るなら、『サウスパーク』や『埼玉は最高!』など自分にとっての「名作」たちも即座に発禁に処さねばならなくりますしね)。

しかし同様に、そういうものを見せつけられた個人がどのような印象を抱いたかを発露することもまた余裕で言論の自由の枠内でありますゆえ、改めまして率直な感想を申し上げさせていただきますと、




マジで褒めるところが微塵もねえなこの映画?




えー最後の最後に、『春画先生』を観た人、およびこれから観ようと思ってる人へお願いです。

何度もしつこく繰り返してきたように、作中で熱弁される「性におおらか論」とは史実上の江戸時代を歪曲しているものなので、どうかそのメッセージをスルッと素直に受け入れようとはしないで下さい。
もしこれを機に「自分も、もっと春画を観てみたい!」という素晴らしい知的好奇心に駆られたなら、まず現代人的な目線による「春画とはこういうものだろうさ」という先入観をひとまず捨て、虚心坦懐にその歴史に触れるよう心がけていただけますと幸いです。

一方、春画先生ら性根のねじくれた者どもの織り成すストレンジなドタバタ劇を観てゲラゲラ笑うとか、またはクライマックスにある種の「美しさ」を感じて涙することがあったとしても、それは個々人の感性の問題ですので「まぁ、しゃーないな」と思います。

ですがもし、貴方の周囲にリアルで過去の好色文化を愛好する何者かが現れた(もしくは、すでにそういう人物が知己の内にいる)なら、どうか作中キャラに抱いたような印象を勝手に重ね合わせるようなことだけは決してしないで下さい。
彼or彼女はきっと、貴方とまったく変わらない「ごく普通の人間」であるはずです。


以上、マジお頼み申す。
製作者の実際の意図はどうあれ、『春画先生』とは何処から何処までも「フィクション」だけで組み上げられている作品なのですから。


参考文献

『近世京都出版資料』 宗政五十緒/若林正治・編 日本古書通信社, 1965
『覆刻 徳川性典大鑑』 高橋鉄・編 日本精神分析学会/日本生活心理学会,1989
『日文研所蔵近世艶本資料集成5 月岡雪鼎2』 早川聞多・編集/翻刻 国際日本文化研究センター, 2010
『秘本 江戸文学選7 末摘花講釈』 大村沙華・著 日輪閣,1978
『エロスの原風景』 松沢呉一・著 ポット出版, 2009

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