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活性フィクションとは何か

はじめに

私の特撮論・TVドラマ論・映画論の記事・マガジンには現在、以下のものがあります。

『ひとりぼっちの宇宙人 ウルトラセブン視聴記』
『ウルトラマン第一話の形態学《光の授受の挿話》』
「シンウルトラマン ─オマージュの宝箱」
「シン・仮面ライダー ─オマージュのコラージュの愉しみ─」
「ハカイダーの悲劇」
「山田太一ドラマ 私の十選」

これらすべての中で繰り返し触れている通り、私は特撮論・TVドラマ論・映画論を「活性フィクション」という独自の概念を軸にして展開しております。といっても、その「活性フィクション」についてきちんとした定義や体系づけは成しえていないままでした。本稿においてようやく、簡潔明瞭とは行かないまでも、「活性フィクションとは何か」という問いへの現時点での答えとして、一通りの記述をすることはできたかなと考えます。


活性フィクションとは何か

1. 長めの“定義的説明”/伏線と活性フィクション

活性フィクションとは、「初発の諸設定」すなわち「主として作品世界を決定づけ開始するための最初の段階における、マクロなプロットおよびミクロな詳細設定を合わせた諸設定」が、まさにそれがそう設定されたことによって、「このような諸設定であれば一つの必然として……ということになっていく」という在り方・仕方で「……」の部分において優れたドラマが生まれてくる様子、また、そのようであると読み取れる台詞・場面のことを指します。

注1…「プロット」とのみ言ってもいいのかもしれませんが、「プロット」の語から標準的和訳の「筋」「構想」等が想起されるだけだとマクロな意味合いの方に偏りそうなので、マクロ─ミクロを問わず様々なものを広範囲に捉えるため「諸設定」としました。例えば『ウルトラセブン』において「ウルトラアイ」という道具は、(プロットの一つと捉えるにしても)「全体の構想」というよりは「ミクロな設え」に当たります。が、この《ウルトラアイ》は、『ウルトラセブン』の作品世界において欠かすことのできない、活性フィクション表出のための重要な発生源の一つとなっています。

あるいは別記事「《ダン=セブンの二重性》および「ウルトラセブン全挿話分類」の中では次のように書いています(一部表現を変えてあります)。

作品世界を形作る際に成される様々なフィクション設定のうち、その設定があることによって、あるいはその設定が真に活かされる形で、当の作品世界が自らその作品自体のいわば“本来の”姿を獲得していき、自ずと必然性を帯びた感動を伴う物語/場面の展開となっていく…ような諸様相が認められる場合、それを「活性フィクション」と呼んでいます。また、文脈によっては、そうした諸様相の発生源となったその諸設定自体や、その諸様相を深く豊かに備えているような作品自体・挿話自体のことも含め、広く「活性フィクション」と称して記述することもあります。

この「活性フィクション」は(どうやら?)私独自の概念(のよう)です。これと全く対照的に、一般にもよく知られ通用している物語の手法に「伏線」と呼ばれるものがあります。次にこの両者を比較してみることにします。メジャーな「伏線」概念と対比させることによって、マイナーな「活性フィクション」概念の受容と理解を促せれば…と考えました。

──あるものを活性フィクションやその発生源として捉えて扱いたい場合に、しばしばそれを《 》で囲んで表しています。──

2. 伏線と活性フィクション

伏線(とその回収)とは、一種の「仕込み」です。必ず「作者(主に脚本家)がそれ自体を構想・思考し練り上げていく」という面を持ちます。また、伏線とは、通常、作品世界の初発の諸設定がどのようなものであるかに関わりなく、いつでもどのようにでも仕込んでいけるものでもあり、そうであってこそのものという面を持ちます。

「伏線」が、あくまでも「先に想定しておいた結末へ向かう過程をどう描くか」という線で注力されるものであるのに対し、「活性フィクション」は主に、「諸設定がそう成されているその作品世界ならば、そこでの物語は必然的にそうなっていく/それをそう描いてこそその作品世界を描いたことになる」…という在り方の中に表れるもの、といえます。

また、伏線は、たいていその回収場面の方に山場があります。その山場をいかにうまく生じさせるか。むしろ、張られた当の場面視聴時には視聴者になるべくそうとは気づかれないように作られることも多く、しばしば、気づかれなかったものほど優れた伏線と評価されるようなものでもあります。「あれってそういうことだったのか」「あんな細かなところも伏線だったのか」という驚嘆・賞賛のされ方になります。こうした“回収の妙”は、伏線にとって必須のものともいえます。

対する「活性フィクション」は、「表出があるかないか」だけが重要で、むしろ、その表出がその場面視聴時に直に視聴者に広く多く気づかれ味わわれるほど、その意義も価値も大きいようなものといえます。あるいは、「活性フィクションの表出それ自体が、作品世界の諸設定を回収していく」という言い方もできるかもしれません。

けれども、「伏線と活性フィクション」は「水と油」とは違い、完全に分類分離対立してしまう概念ではありません。以下に少し追加説明を述べます。

伏線─回収の内容の中に活性フィクションが表出されることがもちろんありえます。反対に、活性フィクションによる場面展開が為される中で一つの手法として伏線が張られる、ということもありえます。より深くは、「その伏線と回収が為されること自体が、その作品世界における優れた活性フィクションの表出となる」場合がありえます。

ただ、次のことは言えます。

「伏線─回収」と「活性フィクション」の最も顕著な違いは、前者が必ず作者の予めの意図による創作であるのに対し、後者は作者の意図から独立して表出される可能性を含むことでしょう。

「諸設定」によって、登場人物や物語がオートポイエーシス的に“一人歩き”を始め、「諸設定」を与えた当の作者自身もその時点では意図しなかった/予期しえなかった──と視聴上は判断できる──ことでありながら、作品世界としての本質が新たに生み出されていく、といったこともありえます。
ただし、上記で「視聴上」の「判断」によるとしました。つまり、上述のような見え方を含めて実は作者が周到に予定構築した、という場合も含めてよいと思っています。判然としなくてよいのです。つまり逆に、作者の意図なのかどうかは重視しない、とも言えます(むしろ作者の意図ではないからこそすごいと言える場合もあるのです)。あくまで作品自体の視聴によって「そのように在ると見えること」を捉えたい、ということです。

「作者の意図は全く無かったにも関わらず、ある複数場面の対応が伏線─回収とみなせてしまう」ようなことは、さすがに通常は極めて起こりにくいでしょう。起こるとすれば、まさに何らかの稀有なる活性フィクションがそこに働いたからこそかもしれません。

3. 活性フィクションの例

活性フィクションの具体例として、ここでは次の8つを挙げておきます。倒叙形式推理ドラマの『刑事コロンボ』の例(例5)を含め、いわゆる“ネタバレ大あり”のものもあるという点をご了承の上お読み頂きますよう(推理小説からの例である例3、4についてだけはさすがに直のタネあかしになってしまわないよう気をつけて書いたつもりですが…)

それぞれ、体言止めにしてある文の文末の名詞がその例の作品の活性フィクション(またはその発生源)の例であり、その後ろに、それによって表出する活性フィクションの様子の説明を書きました。

例1 『シェフは名探偵』

主人公・三舟が優れたシェフであること。シェフとしての知識や観点を持っているからこその名推理を展開していきます。

例2 『居酒屋新幹線』

「仕事帰りの車内で『居酒屋新幹線』を平日毎夜開店する」ことを密かな愉しみとする主人公・高宮進。彼は

内部監査を仕事とし、毎日日帰りで新幹線に乗車・出張し“社内の嫌われ役”を黙々とこなし、明日も出張のため呑み歩きもままならない…

という人物です。『居酒屋新幹線』の主人公ならば彼のような人物であろうし、逆に、彼のような人物こそが「居酒屋新幹線」を開店するでしょう。この必然性に誰もが納得できます。

例3 『Yの悲劇』(エラリー・クイーン)

殺害動機、凶器、証言、真犯人…。『Yの悲劇』は、推理小説として当然「伏線─回収の構造体」となっていますが、同時に、ミクロにもマクロにも、まるごと驚異の“活性フィクション体”となってもいます。荒唐無稽な架空の物語なればこその、まことに戦慄的な“作品世界内のリアリティー”を獲得しています。

例4 『レーン最後の事件』(エラリー・クイーン)

「ドルリー・レーン四部作」の第4作。主人公の探偵ドルリー・レーンの元の職業やハンディキャップ。前作『Zの悲劇』に登場する、サム警視の娘でレーンの名助手として活躍するペイシェンス・サム。事件自体の特異性、犯行動機、真犯人、真相解明の成され方。それらすべてが有機的に繋がった活性フィクションとなって表出します。特に「犯行現場における犯人の行動」の章など、この物語のこの登場人物たちのこのような事件であれば、このような展開・結末を迎える…ということにおいて、第2作『Yの悲劇』以上の必然性を備えています。

例5 『刑事コロンボ』第19話「別れのワイン」

ワインの権威である犯人・エイドリアンと対峙するため、コロンボが自らワインを勉強すること。これを発生源として、終盤、味わい深い活性フィクションの泉が溢れ出ます。コロンボがエイドリアンに、彼自らが犯行トリックの重大ミスに気づくよう仕掛ける、レストランでの会食のシーン。ワインを愛するエイドリアン、その心境を今や誰よりも深く理解するコロンボが彼のグラスにワインを注ぎ乾杯を促すラストシーン。…実に見事な、“泣ける”倒叙形式推理劇です。

例6 『ウルトラセブン』

作品世界内において、主人公モロボシ・ダンが元から宇宙人(=ウルトラセブン)であること。だからこそダンは、例えば第26話「超兵器R1号」において、超兵器の保持の是非を巡って他の隊員たちと意見が対立したり、自分だけがその実験を阻止し得たのに阻止できなかった…と悔いたりします。同一型ウルトラマンならではの活性フィクションです。──この『ウルトラセブン』の活性フィクションの詳細を追った論稿をマガジン『ひとりぼっちの宇宙人』にまとめております。

例7 『ウルトラマン』

作品世界内において、元は別人のハヤタとウルトラマンが「ほんとうに/実際に」一心同体となっているという“事実”。この“事実”があるからこそ、最終話「さらばウルトラマン」でのウルトラマンの「私の体は私一人のものではない」という言葉が“単なる比喩ではない真のリアリティー”を伴って響くのです。こちらは不同型だからこそ“実現”した活性フィクションといえます。

例8 『獅子の時代』

TVドラマの金字塔。二人の主人公、苅谷嘉顕と平沼銑次がともに架空の人物であること。重要な表出を一つずつ挙げておきます。

自ら起草した憲法の巻物を携えて鹿鳴館に向かう嘉顕。その悲劇的結末。

最終話の結尾直前、銑次についての伝聞を語るナレーション(→注)。

どちらの内容も、彼らが架空の人物であればこそ成り立つものです。これらによって「活性フィクション自体が伏線となって、それらが、これ以上望めないほど必然的かつ感動的な形で帰結─回収された」と言えます。圧巻の作劇。激動の時代を、名も知れずしかし確かに、嘉顕のように生ききった/銑次のように生き抜いた人々がきっといたに違いない…という想像─確信が、視る者すべての内面に深く染み渡るのです。

注…「(追悼)山田太一ドラマ 私の十選」参照。

4. 一般的なフィクション不活性について

「活性フィクション」の否定─反対の概念を指す用語としては「フィクション不活性」という語句を主に用いることにします。フィクション不活性については、具体例の列挙ではなく、一般化して述べることにします。用語の説明のためだけに特定の作品を肴にして貶すのも気が進みませんので…。あるいは、一般論でも十分伝わるほどにあちこちで数多く見られる現象だということでもあります…。

(すべてではもちろんないにせよ)“スポーツ青春物”の多くは、競技によって異なる本質の描写に注力するよりも、「仲間」「恋愛」「対立」「苦難」「成長」「みんなで力を合わせる」「最後に勝つ」「自分に勝つ」等々に主眼が置かれるため、物語や感動の様相や質が似たり寄ったりとなり、かつ“通り一遍”になります。競技の種類自体は何でもよいことになり、その具体性はほとんど活かされません。つまり不活性ということです。同種の不活性は、スポーツもの以外の、特撮/アニメーションの「ヒーロー物」「格闘・戦闘物」にも多く見られます。上述のキーワードに加え「ピンチ」「信じる」「圧倒的な強敵」「絶望の一歩手前」「叫び」「圧倒的強敵を超える超圧倒的パワー」等々の流れで大袈裟な台詞と肥大化した演出でこれでもか!という具合に見せていき、やはり「最後に勝つ」…。

また、フィクション作劇とは直接関係ありませんが、高校生のクラブ活動の成果発揮の様々な場を「〇〇部の甲子園」(最近では少しぼやかし「アオハル」などとも。中身は変わらないかと…)とかすぐに言って賑やかすこともこれに通じるでしょう。〇〇がスポーツですらないこともあり、本来は野球とその〇〇とが 似て非なる/まったく異なる ものであるという事実の方が本質的で重要なはずです。野球とは違う〇〇の具体性の方を十分に伝えてこそ、(野球よりもマイナーな)〇〇を採り上げる意味が出てくるのではないでしょうか。それを、「仲間」「対立」「苦難」「成長」「みんなで力を合わせる」「最後に勝つ」「自分に勝つ」等は同じだ、一緒なんだと粗雑に一括りにし、転倒してしまう…。


むすび

前節において、活性フィクションの例やフィクション不活性の在り方をみてきました。「活性フィクション」って、別に取り立てて難解な概念ではないということはわかってもらえたかと思います。ただ、平易なことである分、却って、(知る限りでは)明確には名付けられもせず対象化されても来なかったのだろうか、という想像もできます…。あるいは「わからなくはないが、それはなにもそう大層に論じることではなかろう」と返されるのかもしれませんが…。

これまで、TVドラマ・映画・小説・漫画等々、広くフィクション作品から受け取ってきた感興、何だかうまく言葉にできなかったが良かった/すごい…と思えた場面や台詞について、「活性フィクション」と呼べる何らかのものが働いていたのだ、と思い当たることがきっとあります。それらをこの「活性フィクション」の一語で表された概念で捉えていくことは、──フィクション不活性作品が“粗雑に括る”のとはもちろん異なって──鑑賞・味読の行為に縁取りを与え、良質なフィクションの多様・豊潤な世界を見る解像度を上げていくことにつながるはずです。

また、活性フィクションという観点は、それまで別に気にも留めなかった作品やその特定の場面についても、「おや、これって実はこんなにおもしろかったのか」という発見と感動の手助けになると信じるものです。

演劇論・映画論・TVドラマ論に詳しい方へ。私のこの「活性フィクション」に該当する類似の概念・用語が既にあるぞ、など何かご存知でしたらぜひともご教示頂きたく、どうぞよろしくお願いします。

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