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ひとりぼっちの宇宙人─ウルトラセブン視聴記─ セブン暗殺計画

ひとりぼっちの宇宙人 
─シューチョの『ウルトラセブン』視聴記─
第39・40話「セブン暗殺計画」


作品世界の系とそれを取り巻く小宇宙

 怪獣アロンのモノクロ写真のスピード回転とショック効果音的な管楽器のトリル。「セブン暗殺計画」と銘打った本編にふさわしい緊張感ある映像と音楽。スロー再生とおぼしき効果によるガッツ星人の声も、一度聞いたら忘れないインパクトを与えます。昔、筆者も友人と「セブン」をネタにして遊ぶときは、よくこのガッツ星人の「セ、ブ、ン、は、」という台詞をまねしたものです。

『セブン』は、まずは「SF特撮変身ヒーロー物」である以上、子どもが見てわかる、子どもがおもしろいと思える要素があって初めて作品として成り立ちます。「現役の子ども」としては、『ウルトラセブン』といえば、「どのカプセル怪獣が好きか」とか、「滝をくぐるホーク3号がしぶい」とか、「何たってキングジョーはつよい」「いやいや、やっぱりガッツ星人だろう」とか、キャラクターやアイテム中心に据えた興味の向け方がメインでしょうし、私ももちろんそうでした。しかし、それは今こうして「大人の鑑賞」の目線で『セブン』論を展開していることと分離しているわけではありません。すぐれたエンターテインメントは、もはやそうしたことを超越するというか包括するというか、すべてあってのそれで、プロット、シナリオ、演出、キャスト、キャラクター、アイテム等々、どのような視点からの興味にも応ずる力を備え、なおかつ、それらが「それぞれよい」「何をとってもよい」という意味合いだけに留まらず、全体として有機的につながっているのです。世界、あるいは世界観ができあがるのですね。そしてそれは、当の「現役の子ども」たちにも某か伝わるものです。「子どもだまし」では子どもはだませない、と思います。

 そのような世界・世界観の存続は、作り手側の努力と作業だけによるのではなく、それを鑑賞するわれわれもその「世界」に参加していると考えます。鑑賞者の感想・批評・視点というのも、作品と接触して広がって行く「世界」の一部となっているはずだと。総称としての“われらがウルトラマン”は、能動的な鑑賞に向けて開かれた、広大深遠な世界観(の可能性)を確かに持っています。ささやかながら、私も本稿を『ウルトラセブン』の世界に薄皮一枚分ほど上塗りすることで「世界観の発見/付加」を行おうとして書いています。

第39話「セブン暗殺計画(前編)」[A]

豪力怪獣アロンをダン=セブンに仕掛け、アロンとセブンの戦闘を映像に収め、セブンの能力を徹底的に研究、その映像を見ながら話し合う二体のガッツ星人。

「われわれの狙うセブンは、実はウルトラ警備隊のダン隊員なのだ」
「だったらダンを倒してしまえば簡単ではないか」
「いや、セブンを倒さなくてはわれわれの目的は成功しない。セブンを倒せば、人類はたちまち降伏するに違いないからだ」

変身前のダンをゼロワンに襲わせようとしたチブル星人とはまさに好対照、さすが「いかなる戦いにも負けたことのない」「無敵」と自称するだけのことはあります。ソガ、フルハシ、アマギが出動したときは何も起こさず、ダンの出動を待って現れ、カプセル怪獣ウィンダムを一発で仕留めると巨大化し、ダンに迫るガッツ星人。ポケットのウルトラアイに手をかけるも、躊躇するダン。

「おかしい。何かおかしい。罠かもしれない」

 ダンは誘いには乗らず、ホーク1号の救出を待ちます。

「ソガ隊員がパトロールに出たときも異常はなかった。フルハシ・アマギ隊員が出て行ったときも、何ら変化はなかった。それなのに、アロンに襲われたのも、ガッツに狙われたのも、僕が出て行ったときだった。だとすると、敵の狙いは僕だ。しかし何のために僕を狙うんだ」

 次の出動で、ポインターで走る目の前の橋をガッツ星人に破壊され、変身をしぶっていたダンもついに変身。ガッツ星人とセブンとの対決現場は、高く切り立った丘のような場所であり、対決シーンはそれをふもとから見上げるアングルで撮られています。対決シーンがこのような視点で捉えられるのは「サイボーグ作戦」以来二度目でしょうか、ここでは、そのアングルによってガッツ星人の強敵ぶりやただならぬ雰囲気までもが伝わってくるかのようです。セブンは、ガッツ星人の幻影・分身術に翻弄され、やがて二体の星人に両側から光線の縄で縛られ、十字架にかけられてしまいます。途中、ワイドショットをいつになく長い間放つ場面によってセブンのエネルギーの大きな消耗も表現されます。

 「セブン暗殺」のタイトルから想像する通りの緊迫した展開ですが、ここで本話前後編の重要な特徴に気づきます。前編の後半でセブンに変身して以後、ダンが次に現れるのは、何と後編の最後の残り1分弱。草場に寝転がっているところを隊員たちに発見され、隊員たちはダンをボールに見立てたキャッチボールのようにして戯れ、平和の訪れたことが表現され、エンディングとなります。主人公モロボシダンは、前編の変身直後から計ると、のべ約30分間、挿話一つ分を優に超える長時間にわたって姿を見せません。本話は、モロボシダンのいない『ウルトラセブン』なのです。ダンのいないところにダン=セブンの二重性は表出し得ず、かといって、SF性・ドラマ性(E類・C類)の要素があるかというと、それらにも乏しい…。他の佳作の挿話群と比較したときの、「セブン暗殺計画」の特に後編に対する不足感・違和感、その最も大きな要因がこの《ダンの不在》であることは明らかでしょう。後編については筋書きや演出の多少のまずさもよく指摘されるようです。肝心要のダンがいなくては、ドラマのキレがわるくもなろう、と本稿からは指摘できます。

第40話「セブン暗殺計画(後編)」[A]

「ねえ、さっきからセブンのことばかり言ってるけど、ダンはどうなるの。敵に連れて行かれたのよ。」

 アンヌも嘆く《ダンの不在》、これが本話後編の本質です。その代わりにそこでは、地球人(の代表であるウルトラ警備隊員やタケナカ参謀)とウルトラセブンとの交流がメインに描かれました。このことは、『ウルトラセブン』においては実はイレギュラーなことです。確かに、鑑賞者─特に現役の子ども─にとっては、セブンは常に主たる興味対象の一つですし、敵対宇宙人が“セブンの方を向いて”くる話は他にもあります。が、本話では、登場人物であるウルトラ警備隊および地球防衛軍が“セブンの方を向いて”いる。「ウルトラマン(総称)と地球人(の代表としての隊員たち)が団結・協力して悪に立ち向かう」あるいは「ウルトラマンのために隊員たちが一致団結する」というプロットは、実は、第1期シリーズの『ウルトラマン』『ウルトラセブン』においては、少なくとも基本的だとは言えません。そういう筋立てで書かれた挿話もあるにはありますが、あくまで「そういうのもある」という程度の数に過ぎず、『セブン』においてはこの「セブン暗殺計画」がその数少ない例です。これが本話(特に後編)の意義です。

 マグネリウムエネルギーの合成に成功し、「みんな!いいな。破滅の道を選ぶのは地球人かガッツか。これがわれわれの最後の作戦だ」というタケナカの言葉に見送られ、ウルトラホーク1号でセブンの浮かぶ空へと向かうウルトラ警備隊。ガッツ円盤の攻撃に遭い、機体を損傷させられつつも、黒煙を上げたまま飛行を何度も立て直して機首をセブンに向けるキリヤマ、セブンのビームランプへマグネリウムエネルギーを何度も命中させるソガ。どちらもぎりぎりの難度の技であることが、軽妙なカットによる演出によってよく伝わります。実はこのときのセブンは幻影だったという展開にはなるも、この空中シーンは、後の岩壁にもたれかかった本物のセブンのいる現場へマグマライザーで急行してセブンをついに復活させるシーンと合わせ、皆がセブン復活を信じて必死の思いで己の身を投じていることがよく表現されています。隊員みんなが“セブンの方を向いて”いるという、『セブン』としては珍しい画面に、見ているわれわれも引き込まれ、同じように“セブンの方を向いて”しまうのである。珍しいからこそ、後発ウルトラマンで定番となった“協力場面”(例えば『ウルトラマンエース』で竜隊長が「よし、エースを援護するぞ」と毎度のように言う)よりは温度の高い、“熱い”視聴者感情というものが働きますね。

 「第1期においては“ウルトラマンと隊員の団結・協力”・“ウルトラマンのために一致団結する隊員たち”というプロットは少ない」と書きました。『セブン』の場合、普段はそのような「お決まりの展開」に描かなくても、「ダン=セブンの二重性」「SFプロットの秀逸性」などの活性フィクションによる必然的展開があれば、それだけで面白いものになってきたわけです。ところが本話では、フィクションの要であるモロボシダンが不在であるため、“典型的なストーリー展開”というものが必要になったということでしょう。そうして生まれたのが上記のシーンです。それは、“豪華”前後編であるはずの本話において、“ダンの不在”という欠点を補完する役割を果たしたといえます。

 もう一つ。「ダン=セブンの二重性」の4つの側面である「ダンのセブン性」「セブンのダン性」「ダンのダン性」「セブンのセブン性」のうち、「セブンのセブン性」は、通常、セブンの登場シーン自体にごく当然に表出されるに過ぎない、最も内容的に薄い側面です。が、ここではこのように、「セブンのために一致団結する隊員たち」を描くことで、特にこの側面に光が当たり、内容的意味を伴って表出されました。しかもこの空中シーンは、最終話「史上最大の侵略 後編」の類似シーンとパラレルです。さらに、パラレルでありながら、両シーンは、二重性の表出においては決定的に相違しています…(詳しくは最終話の項で)。こういった対比も、『ウルトラセブン』の作品世界を鑑賞する醍醐味となります。


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