現代日本人の全体主義的思想から見る「あるある」理解の分類と、その三つの形態
急啓
読んだ空気に人生まで飲まれるな
日常生活の中で良く体験される事柄や万人が共通して持つ感覚、特定の条件下でのみ高い確率で起こる事象を日本では「あるある」と称し、令和の世の中においてそれは完全に一つのユーモアカテゴリとして確立されている。
良く挙げられるあるあるの例として、以下のようなものがある。
確かにこれらは日常生活に即した瑣末な事柄で、且つ人々の多くが体験してきた出来事であろう。しかし、私はこのあるあるに敢えて疑問を呈していきたい。
そのあるある、お前マジで体験したことあんのか?
例えば、眼科検査で良く見る「砂漠の一本道の先に気球が見える写真」。このあるあるは人生で数回聞いたことがあり、その度に私は「あるある」と相槌を打ってきた。
しかし、私はアレをあるあると捉えてはいるものの、実のところ一度も見たことがない。そもそも大学2年生までは日常生活に支障がないほど視力が良かったし、眼鏡屋に初めて行ったのも大学3年生になってから。その時の視力検査ではその「砂漠気球」ではなく、健康診断と同じ四方のいずれかが欠けた丸を見せられるタイプであった。
そう、私はそもそも眼科医にかかったことすらない。あの気球は正直ググって認識した。私の中の「砂漠気球」は、あるある世界にしか存在しないのである。
でもさ、こういうのってみんなあるんじゃない?
小中高とヒステリックな教員に当たったことがない人。
クレカ持ったこともクレカ対応の店の店員をしたこともない人。
お母さんが一番機械に詳しい家庭で育った人。
お父さんがキャッチボールなんかに全然興味なかった人。
一人暮らししたけど炒飯を作ろうと思ったことすらない人。
夢の中で段差から落ちた衝撃で起きたことがない人。
Tポイントカードを面倒くさがらず毎回律儀に出す人。
授業中は真面目に板書取ってたから教室に入ってくるテロリストに想いを馳せたことなんか一度もない人。
そして、眼科医にかかったことがない人。
そんな人で割と溢れているんじゃないの、この世は。
思うに、あるあるにおける「理解する万人」とは、「その情景を問題なく想像できない人」が限りなく0に近い状態なのではないかと思う。だって人には想像力が備わっていて、未体験のことでも突拍子のない事以外は割と頭の中で体験を補完できてしまうから。
AT限定の人でも「教習中路上でエンストした時の焦りハンパない」という普遍性の高い体験であれば理解できるだろう。逆に都会育ちの人が「駅前ラーメン激戦区がち」とか言われても、「それはお前が杉並区荻窪周辺ですくすくと生まれ育っただけやろがい」となって、理解されない。
つまり、あるあるなんてのは「普遍性の担保」さえ満たせば、その場の半分くらいの人が体験していれば成立してしまう、割とハードルの低いものなのではないか。その場の半分が体験していて、残りの3割が想像力を働かせ、残りの2割が「正直わからんけど話の腰を折るほどのことでもないから愛想笑いしとこ」と考えるという状況を作り出してしまえば、それは全員にウケるあるあるになってしまう。
あるあるとは言わば、その場の人々に
「共感」
「能動的デジャヴ」
「社会人的対応」
のどれかを起こさせることができれば、成立してしまう、簡易的ユーモアなのである。誰もが体験していなくとも、その体験を場当たり的に納得させ、共有することさえ叶うのであればそれは「ある」ことになってしまうのだ。
そう、会話において、話の腰を折ってまで他人のあるあるを否定する必要性は皆無なのである。これは実に合理的で全体主義的な、日本人的価値観である。それ自体が悪いことだとは思わないし、私だってこれからも、身に覚えのない他人のあるあるを場当たり的にどんどん成立させていってやろうと思う。
しかし、忘れないでほしい。「能動的デジャヴ」と「社会人的対応」をしている君たちは、一歩間違えれば人のあるあるを体験してしまったと思い込み、自分の記憶を改変してしまうリスクがあることを。
思い込みの力は時に想像を絶する。人のあるあるを肯定しこそすれ、人のあるあるに飲まれるな。お前の体験はお前だけがしている。言葉の上だけでなく、感覚や記憶まで全体主義的になる必要はない。
俺たちは俺たちの人生を胸張って生きて、人の人生も笑って許容してやる。そんなデッケエ生き方でいこうぜ。
なぁ?
草々不一