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現在地

最近の不調について少し文章にしたいと思いました。2ヶ月以上まともに絵が描けない日々を送っていて、何かあったのかな?と少し心配してくれる方がいらっしゃるのであれば、それはそれで僕がまだ誰かの頭の中にいるということなので、悪い気はしません。

絵を描くことや、立体作品をつくることは当然僕にとって大きなウエイトを占めているのは確かなことです。しかし、それ以上に僕には克服しなければならないことがあります。

今まで生きてきて、自分が安心して居られる場所が何処にもありません。いつも孤独感が横たわっていて、離れてくれないのです。
それが、制作の妨げになっています。

2ヶ月以上絵を描けていないのは別に珍しいことではなくて、僕は立体作品を制作していた頃も半年くらい手が動かなかった時期もありました。
たまに会いに来てくれる人がいても、僕はどうせ独りだと思うと、制作することなんて取るに足らないことのように思えてしまうのです。

このどうしようもない孤独感は一体何処から来るのか。それについて、僕の幼少期のことを此処に少し記そうと思います。

僕には物心つく前から父親がいませんでした。母親も精神的な病で、入退院を繰り返していました。入院中はいつ家に戻ってくるのかいつも心待ちにしてお見舞いに行っていました。だけど、家にやっと帰ってきたと思ったらまたヒステリックになり、病院に入院するような母親で、幼い自分は恐れと不安でいっぱいでした。その幼少期の自分の心の有り様が今の自分自身にも直結しています。

そんな母親でも僕にとってはかけがえのない存在でした。今は年齢も50代になり、だいぶ安定しています。

両親ともに幼い僕の面倒をみることはなく、もっぱら祖父や祖母が両親の代わりをしていました。しかし、僕には祖父母が両親の代わりにはなれないことをずっと前から理解していました。

善かれと思い、何か僕にしてくれてもやはり世代間の差を如実に感じてしまうのです。
小学校に通うような年齢になるとそれは益々大きな隔たりになって、同級生の話題にまったくついていけない自分がいました。

価値観を共有出来る人が傍にいない僕には何かを創造するという方向に逃げ込むしか道はありませんでした。現実の世界では誰かが僕を守ってくれているというのは幻想のことでした。

自分の世界を持っているとか他人から云われてもそれはただの孤独の産物でしかありません。
そこには夢も希望も無いのです。

僕はただ、絵画や立体を通して、他人に、そして何処かあるかもしれない居場所というものに接近しようとしています。そう言った意味では制作は希望であり、現在地と言えます。

僕にとって一番の関心ごとは自分の居場所が何処にあるのかであって、決して美術家として大成したいとかそんな気持ちではないのです。
人並みに生きることさえ、今の自分には到底出来ないのですから。

しかしながら、居場所らしきものに出会えたなら何だって上手く事が運ぶと思っているからこそ、空虚な日々ではありますが、今でも制作を辛うじて続けている訳です。

空想の産物は好きですが、僕が制作しているのはファンタジーではありません。シャガールが自分をリアリストだと言ったように、僕もリアリストなんです。

僕はずっと探しているのです。夢想ではなく、自分自身の在るべき心の在処を。

だから、気長に”その日”を待っていて欲しいというのが僕の作品を持っている方、これから所持したいと思ってくれている方への願いです。

おわり。

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