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天使に恋した夏

夏の恋は幻なんて言葉があったり、ひと夏の恋なんてものは、ドラマや映画や歌の中にしかない世界だと思っていた。だが僕の元にも舞い降りたのだ。僕を虜にしておいて、夏の終わりと共に去っていった天使に僕は出会ったのであった。

[出会いの始まりは]

その天使と出会ったのは当時勤めていた会社の職場である。職場で天使に出会うことってある?と誰しもお思いになるだろうが、僕は天使だと思っている。

僕は35歳の寒さが厳しい冬の時期にとある会社に転職した。そこは電機部品の製造工場で僕はラインの製造管理を行っている。決められた納期に製品を納品するためにラインの作業者と生産調整するのが僕の仕事である。

この会社に入社する前はいわゆるブラック企業で働いていた。深夜まで働いても、休日に急に呼び出されても残業代もろくに貰えず、対応を誤れば容赦なく責任を追及される職場環境で心身共に疲弊した状態で会社を辞めてしまった。

新しい職場に来ても前職のトラウマを引きずっており、いまひとつ自信をもって仕事に取り組めずにいた。

そんな中で担当していたラインに1人だけ信頼していた星原さんというリーダーがおり、困ったことがあった時は星原さんに相談をしていたのだが、その星原さんも程なく退職する事になり、リーダー不在のラインをこの先どうしていけば良いのか途方に暮れていた。

星原さんが退職した翌日である。季節は桜が咲き始めた春になっていた。ラインに顔を出すと、ある女性に声をかけられた。声を掛けてきたのは星原さんがリーダーをしていたラインの担当者の一人で真依という名の女性であった。年齢は20代に見えた。女性には年齢はなかなか聞きづらいもので、あくまでも見た目であるが、可愛らしい印象の女性だった。

彼女の存在は知っていたが、仕事の会話はずっと星原さんとやり取りしていたため、真依とまともに会話をするのは始めての事であった。

「星原さんに時々話を聞いてあげてねと言われてました、これからよろしくお願いします」と挨拶された。

若いのに律儀だなと思った。とにもかくにもそう言ってくれたので、今後の仕事に対する不安は少し和らぎ、救われた気分であった。

[取り戻した自信]

以降、真依は事ある毎に僕に仕事の相談を持ちかけてきた。そして僕からも事ある毎に真依に相談を持ちかけた。

経験の乏しい2人ではあったがお互いに協力し合う事で、状況が開けていけるという実感があった。問題が解決できた時はお互いに笑顔で喜びを分かち合った。

そしていつの間にか、仕事に対する自信を取り戻しつつある自分を感じる事ができ、誰に対しても臆せずコミュニケーションをとれる様になってきた。

なぜ自信を取り戻せたのであろうか?それは真依に頼られている事を感じ、なんとかしようという気力が沸いてきた事に他ならない。間違いなく真依のおかげである。

やがて真依に対して、仕事のパートナーとしてという事とはまた違う感情が芽生えてきている自分がいる事を徐々に感じていた。

[燃え上がった恋心]

真依はどんな週末を過ごしているのだろうか?

真依はどんな音楽が好きなのだろうか?

真依にはお付き合いしている彼氏はいるのだろうか?

真依は一人暮らしなのだろうか?

季節は暑い夏になっていた。暑さにのぼせてしまったのか、堰をきったかのように真依に対する想いが急に燃え盛ってきたのであった。

しかしここは会社である。

感情の赴くままに行動するわけにはいかない。

社内恋愛というものは相手が100%受け入れてくれる確信がなければ行動するのはタブーであるという事は暗黙に自分に課せているルールである。

闇雲な行動は自分の居場所を無くす事に直結するし、自分だけならまだしも相手の居場所を無くすことになったらいたたまれない。

僕は仕事の合間になんとか仕事以外の話題を持ちかけてみようと必死であった。真依はそんな僕の拙い会話でも笑顔で応じてくれることがますます愛おしかった。

[旅立った天使]

真夏のピークが去り、秋の気配が漂い始めた頃、真依は数日続けて休みを取るという事が頻繁にあった。

そして、出勤してきた時は仕事の合間に先輩の女性社員にしきりに何かを相談している姿が見受けられた。

その時僕は直感的に悟った。それは真依にとっては良い出来事だが僕にとっては悪い出来事である事を。

秋は深まって行き、大きな台風が過ぎ去ったある日。

仕事の相談で課長のデスクの前に近付いた僕の視線の先にたまたま置いてあった書類。そこで目に入ったのは退職届であり、真依の氏名がそこにあった。ドキッとして更に退職理由の欄に目を落とすと結婚のためという文字が目に飛び込んできたのである。

僕の予感は的中した。

真依に惚れた夏が終わると共に真依も去っていくなんて、こんな出来すぎたタイミングってあるのだろうかと思わずにはいられなかった。

とにかくこの事実を変える事はできない。

僕は真依におめでとうと伝えた。そして真依のおかげで立ち直れた感謝も伝えた。真依は素直に喜んでくれた様であった。これでいい。これでいいのだ。

なぜか最後は清々しい気持ちになる事ができた。

真依は僕の情熱を呼び起こし、その役目を終えたと同時に去っていた。そう、真依は僕の天使だったに違いない。忘れられない暑すぎた夏であった。

-完-

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