アラン・バディウ著『倫理〈悪〉の意識についての試論』を読んで

私個人の問題意識として、「社会の中で、労働の一環としてサービスを提供する側が、特にある種の専門性が求められる領域で、しかも法律や医療ほどその仕組みが整備されていない場合、専門家の責任と道徳や倫理についてどのように考えれば良いのか?」という疑問がありました。特に、人権や差別、多様性や持続性の問題を語ろうとする時、そこに語り得ないような自己矛盾や、問題を別の形で再生産しているような行き詰まりを感じることがありました。そんなこんがらがってしまった糸を解きほぐしくれるような本が、今回紹介するアラン・バディウ『倫理〈悪〉の意識についての試論』になります。以下、序言から引用となります。

 ストア派の賢者とは、みずからが引責しえない事柄から引責しうるそれを見分ける術を心得たうえで、前者にみずからの意思を集中的に組織し、端然と後者を耐え凌ぐことができる者のことである。さらに言えば、ストア派の人びとは哲学をひとつの卵に譬える習慣をもっていたと伝えられている。そこでは、殻が〈論理〉、白身が〈自然科学(物理学)〉、そして黄身が〈倫理〉とされていた。
 近代人にあたっては、デカルト以降、主体の問題が中心をしめ、そこでの倫理は、道徳あるいは、ーカント的に言えばー(純粋理性あるいは理論的理性とは区別される)実践理性とほとんど同義であった。一方における主体的行為や表象可能なさまざまなその意図と他方における普遍的な〈法〉との諸関係が、そこでは問題とされた。こうして、倫理とは、個的あれ集団的であれ、いずれにせよ〈主体〉のさまざまな実践にとっての判断原理である。

『倫理〈悪〉の意識についての試論』p.8

バディウは、ここで重要なことを述べています。道徳(公共に関する)と倫理(主体の行為に関する)、主体の問題、そして倫理とは判断するための方法であることを提示しているからです。この三つの問題は、私自身が倫理について考える時に行き詰まってしまう問題でもありました。また、バディウは具体的な定義をいくつかあげて論じてくれるので個人的には読みやすく感じます(政治的な傾向が強いのでその文脈が私には読み解くのに難しさを伴います)。この本でもいくつかあげていますが第一部で三つのテーゼをあげています。以下、本文からの引用となります。

テーゼ1
〈人間〉は、その肯定的な思考によって、人間が耐え凌ぐことができるさまざまな特異な心理によって、動物たちにあって〈人間〉をもっとも恢復力があり逆説的でもあるものに創りあげる〈不死なるもの〉によって、自らを定義しなければならない。
テーゼ2
〈善〉へのポジティブな力能に、したがってさまざまな可能なるものの拡張された応接、また保守ー保全主義ーたとえそれが存在の保全であろうともーの忌避にもとづくことによって初めて〈悪〉は規定されうるのであって、その逆ではない。
テーゼ3
すべからく人類は得意な諸状況についての思考との同一化にみずからの根拠を据える。倫理一般など存在しない。存在するただひとつでありながらも偶発的なことは、それによって私たちがある状況が有する多様な可能なことに対処する倫理の過程だけである。

アラン・バディ『倫理〈悪〉の意識についての試論』p.32

なかなか、難しいですね。少し時間を置いてから思索してみたいと思います。

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