G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』を読んで

はじめに
 なんとかG.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』を通読することができたので、まずは読んで気になった部分を引用し、断片的に並べていきます。ちなみに引用元のページ項は1997年に河出書房新社から発売された単行本のページ項になります。


断片的な引用

或る〈距離なき順序〉に即しておのれの合成諸要素を絶えず走り抜ける概念は、それら合成要素に対して俯瞰の状態にある。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  31


俯瞰に関する記述です。ドゥルーズを読む時は、俯瞰=状態と理解したほうがよさそうです。

概念は出来事のことであって、本質あるいは物ではない。それは、ひとつの純粋な《出来事》、ひとつの此性※「ひとつの存在態である。たとえば、《他者》という出来事、あるいは(今度は顔が概念として受け取られるときには)顔という出来事。あるいはまた、出来事としての鳥。概念は絶対的俯瞰の状態にあるひとつの点によって、無限な速度で走り抜けられる、有限個の異質な合成要素の相互不可分性として定義される。概念は、「絶対的表面あるいは容量」であって、区別のあるもろもろの変化=変奏の相互不可分性よりほかに何も有していない形である。「俯瞰」とは、概念の状態、あるいは概念に固有の無限性である。たとえ無限なものたちが、合成要素の、閾の、そして橋の番号からすれば、より大きかったり小さかったりするにしてもである。概念はまさに、そうした意味で思考の現働態=行為である。それは無限な(しかしそれにもかかわらずより大きかったり小さかったりする)速度で動く思考なのである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』 p. 32


ドゥルーズの「概念」と「俯瞰」に関する記述です。ここでは「俯瞰」について無限性と速度を使って説明しています。

※スコラ哲学におけるスコトゥスの用語。一個の具体的な「この物」を「この物」たらしめている個体性を意味する。

この概念は、〈疑う〉〈思考する〉〈存在する〉という、三つの合成要素をもっている(けれども、そこから、あらゆる概念はサンジュであると結論しないようにしよう)。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  37



デカルトのコギト〔私は思考する〕(自我概念)  についての記述です。

ひとつの概念が以前の概念より「いっそう善い」とするなら、それはそのいっそう善い概念がいくつかの変化=変奏と未知の共振を理解させてくれるからであり、いくつかの奇異な裁断を遂行するからであり、わたしたちを俯瞰する〔つまり、わたしたちに共ー現前する〕《出来事》をもたらすからである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  42



俯瞰についての記述、やはり概念を外しつつも、現前の出来事に没入する内部観測モデルをドゥルーズは俯瞰と呼んでいたと考えられる記述です。俯瞰を超越的な視点と混同しないように留意したい。

内在はそれ自身〈に〉〔内在して〕あるのでしかないということ、したがって内在は、無限なものの運動によって走る抜けられる平面、もろもろの強度的=内包的縦座標によって満たされた平面であるということ、これを完全に知っていた者はだれあろう、その人こそスピノザであった。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  71



やはり、スピノザは大哲学者なんですね。

すでにフランソワ・ジュリアンが中国思想に関して指摘ていたように、超越的なものは、なるほど、投影によって「内在の絶対化」を生産する。しかし、哲学が標榜する絶対者としての内在は、それとはまったくの別のものである。わたしたちが言いうることは、ただ形像は概念に無限に接近するところまで、その概念に向かってゆくということだけである。十五世紀から十七世紀にかけてのキリスト教では、紋章は「想念」を包み込んでいるものになっていたのだが、想念はまだ〔概念独自の〕共立性を獲得しておらず、概念が形像化されたたりあるいは隠されたりさえする仕方に依存していたのである。「キリスト教哲学というものは存在するのか」という周期的に回帰してくる問いは〈キリスト教はそれ固有の概念を創造することができるのか〉という問いを意味している。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  132



具体的には何が大事かわからないが、何か大事そうと感じた記述です。

しかし、〔ギリシアにおいては〕、客観は、主観との関係が規定されることなく、「美」として観照されるにとどまっているので、その関係がそれ自身反省され、さらには運動させられ、あるいはコミュニケーションされるためには、〔近代において〕後続する諸段階を待たねばならないのである。それでもなお、概念の内部で一切がそこから展開するその出発点となる最初の段階を発明したのは、ギリシア人である。なるほど、東洋も思考していた。しかし、東洋は、純粋な抽象としての、あるいはたんなる特殊と同一である空虚な普遍としての即自的対象〔客観〕を思考していたのである。こうした対象に欠けていたのは、具体的普遍としての主観、あるいは普遍的個体性としての主観との関係である。東洋は概念を知らない。なぜなら、東洋は、このうえなく抽象的な空虚とこのうえなく平凡な存在者を、いかなる媒介もなしに共存させるだけであったからである。しかし、東洋の前哲学的段階とギリシアの哲学的段階を区別するものが何であるのかはよくわかっていない。なぜなら、ギリシア的思考は、主観との関係を、さらに立ち入って反省することもなく前提としておきながら、意識していないからである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  135



河合隼雄先生の日本的な「中空構造」を連想させられるドゥルーズの東洋に関する記述です。ここで使われる、特殊と同一である空虚な普遍としての即自対象というのは「何を構造主義として認めるか」の後半で出てきた「対象=x」と理解してよいのだろうかという疑問があります。

哲学と同様に、科学も、直線的な時間継起に満足しているわけではない。しかし、科学は、重なり内の秩序においてまあ干支後ろを表現する層位学的時間のかわりに、もともとセリー的な枝分かれした時間を展開するのであり、その時間においては、〈前〉(先行するもの)は、つねに、来るべき分岐と断絶を示し、〈後〉は、遡及的な再連鎖を示す。まさしくそこに、全く別の歩調をとる科学の進歩が由来している。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  177


ドゥルーズは科学の優位なところを認めつつ、哲学を科学と扱いすることには反対してたと考えられる。私も科学と哲学を混同しないことは大切な視点だと考えています。

科学と哲学は、二つの対立した道をたどると言ってもよさそうである〔哲学と科学の第二の差異〕。なぜなら、哲学的概念においては、出来事に関して共立性が成立し、科学的ファンクションにおいては、〈物の状態〉あるいは混合に関しての準拠〔指示〕が成立するからであるーすなわち、哲学は、概念によってたえず、〈物の状態〉から、いわば〔『不思議の国のアリス』に出てくる〕猫のいない猫笑いのような、共立的な出来事を抽出し、科学は、ファンクションによってたえず、出来事を、準拠されうる〔指示されうる〕〈物の状態〉と物と体とのなかで現働化させるからである。そうした観点から見れば、ソクラテス以前の思想家たちが、自然学を、諸混合とそれらの様々な対応に関する理論とみなしていたとき。すでに彼らは、科学というものの一規定の本質的な点を、しかも今日においてもなお有効な点を把握していたのである。さらに、ストア派は、出来事がそのなかで現働化されるその〈物の状態〉あるいは〈体の混合〉と、〈物の状態〉それ自身から煙のように立ちのぼる〈体なき出来事〉との基本的な区別を、極度に推しすすめるだろう。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  180


ソクラテスとストア派について言及しています。

知覚」と呼ばれるものは、もはや〈物の状態〉ではなく、物の体によって誘発されるかぎりでの〈体の状態〉である。そして、「変様=感情」と呼ばれるものは、他のもろもろの体の作用のもとでの、〈ポテンシャルー力〉の増加もしくは減少としての、この〔体の〕状態から他の〔体の〕状態への移行であるーいずれも受動的ではなく、一切が重力でさえ、相互作用である。それは、スピノザが、〈物の状態〉のなかで把握される体に関して、「アフェクティオaffectio」と「アフェクトゥスaffectus」について下した定義であり、ホワイトヘッドが、それぞれの事物を、他の事物の「抱握prehension」とし、ひとつの把握から他の把握への移行を、ポジティヴもしくはネガティヴな「感じfeeling」`としているときに、再発見した定義なのである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』pp.  218-219



スピノザとホワイトヘッドの定義について触れている。

(都市をも含めて)被知覚態が自然の非人間的な風景であるとすれば、変様態はまさしく、人間の非人間的な〔人間ではないものへの〕生成である。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  240




ドゥルーズの被知覚態と変様態の説明です。

芸術とは、おそらく、動物ともに始まる。少なくとも、テリトリーを裁断し家をつくる動物ともに始まる。(テリトリーと家は、相関項であり、あるいはアビタ〔生息地、住居〕 habitatと呼ばれているもののなかで、ときには混同されることさえある )。〈テリトリーー家〉というシステムによって、性行動、生殖、攻撃性、餌の買うとくといった、多くの勇気的な機能がへんかする。だが、領土と家の出現を折開く〔説明する〕んは、そうした変化ではない。むしろ、逆であろう。すなわち、テリトリーが純粋な感覚されうる質の、つまりセンシビリアの発現を折り込んでいる〔含意している〕のであって、このセンシビリアは。機能的でしかない状態をやめ、昨日の変化を可能にする表現特性へと生成するものなのである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』pp.  260-261



動物と領土についての記述です。『意味の論理学』以降の、自然哲学としてのドゥルーズの魅力がつまった説明だと思いました。もしくは、これはデリダの動物論にもつながるのでしょうか。この後、ダニの話が出てきます。ちなみにダニについてはヤーコブ・フォン・ユクスキュル『生物からみた世界』を参照とのこと。

また、形式だけを問題にしてみても、もっとも高尚な建築は、絶えず、いくつかの平面を、つまり部分面をつくり、それらを接合する。だからこそ建築を、絵画から映画にいたるまでの他の諸芸術にとっての必要不可欠であるはずの「フレーム」として、あるいは様々な向きをもつ複数のフレームの相互作用として定義してよい。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』pp.  265




ドゥルーズいわく、「芸術は肉とともに始まるのではなく、家とともに始まる。」(p. 264より引用)とのこと。

フレームや部分面はこの諸感覚の合成態の面や接続面をなしているのである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  266



フレームや部分面を知覚を定位するインターフェースと理解できるかもしれない。

縮約は、能動ではなく、純粋受動であり、先行するものを後続するもののなかで保存する或る観照である。それは、つまり、或る合成=創作平面であり、そのうえで、感覚は、その感覚を合成するものを縮約しながら、その感覚がさらに縮約する他の諸感覚ともに合成されながら、形成されるのである。感覚は、純粋観照である。というのも、ひとがそこか生じてくる当の諸要素をひとが観照するのに応じて、ひとはおのれ自身を観照しながら、要するに観照によって、縮約をなすからである。

G.ドゥルーズ/F.ガタリ著『哲学とは何か』p.  301



ドゥルーズの観照と縮約についての説明です。

キーワード
 俯瞰(わたしたちに共ー現前する《出来事》)、コギト(疑う・思考する・存在する)※デカルトの懐疑を無用とする、時間(継起・同時性・恒久性)、ガストン・グランジェ『哲学的認識のために』、内在平面=蔵=思考のイメージ=《ヌース〔精神〕》と《ピュシス〔自然〕》の無限運動と〈一者ー全体〉、可感なもの(センシビリア)ラッセル、ファンクティヴは言語学者イェルムスレウ「機能素」※D&Gはイェルムスレウを援用している、ラッセル『神秘主義と論理』、変化=変奏ヴァリアシオン・変項ヴァリアブル・項アーギュメント・関数ファンクション・指示レフエランス・内包アンタンシオン、論理学、潜在的ヴイルチユエル・実在的レエル・実在性レアリテ・辞項テルム・系システム・暗示アリユジオン〔引喩〕・身ぶりコミック・級数セリーetc…。

おわりに

 今回は通読が目的だったので、細かい考察はありません(なんとなく通読したら少し寝かしたいのです)。なんとか概要は掴めたかなという程度の読みです。かなり大雑把に行ってしまうと哲学・科学・芸術について書かれた本になります。科学と哲学の比較は比較的わかりやすく、芸術や文学、そして音楽に関する部分の方が難しかったです。それは、かなり肌理細かいところを説明しているように感じましたし、ベルクソンの仮構作用についても触れていたので、また読み直して肌理の細かい(あくまで表層の肌理を解像度をあげて)ところまで理解したいです。
 わからないなりにも、ドゥルーズも繰り返し読んでいくと、政治的な発言がある中で、彼の保守的な部分や時代錯誤な面も垣間見えてきますね。ソーカル事件のような批判もありますが、科学や芸術と哲学との違いが繰り返し説明される本書はドゥルーズが思考する哲学とは何かが具体的に書かれた本だと思います。次は、『意味の論理学』の通読を目標にドゥルーズを読み解いていきたいと思います。とはいえ、『カントの批判哲学』は積読だし、『スピノザの表現の問題』は手をつけられていないし、読み進めれば進むほど、著作が長くなっていくし(『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』の単行本は二段組みになってかなりの迫力があります)、登っても登っても山が連なる山脈のなかで雲に隠れた遠い山頂を眺めているような気持ちになったりします。

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