ぬいぐるみ
*22年11月時点の記事
ねこのぬいぐるみ、というか、大きなクッションを買った
店頭で出会ったときから、まじで片時も手放していない
ずっと抱きしめている
この子は、シルエットはねこだが、それ以上の装飾はない
ピンクの無地のねこクッションである
だからこそ、いいのかもしれない
表情などなく、ただ、ねこの形をもった、触り心地のよい存在
抱きしめ心地のいい存在
だから、安心するのかもしれない
幼い頃は、このようにぬいぐるみを抱きしめることはほとんどなかったと記憶している
人形遊びなどに興味を示さなかったし、
かわいいものよりかっこいいものが好きで
たとえばピンクよりは水色を選ぶような子供だった
自身の好みのほかには、目があるものは怖い、という、母の言葉が印象に残っているのも要因のひとつである
そのおかげで、ポスターなどが飾られることもなかった
ここに母を責める意図はなく、ただ、怖く思う人もいるのか、と思ったことを覚えている、という話である
なんなら、自身の好みさえも、周囲の友人に影響を受けていたんだろうなと思う
かっこいいものに惹かれていたのは、当時一番仲良くしていたのがヒップホップを習っている歳上のギャルだったからだろう
そのギャルは、大人になったいまはダンス講師をしている。夢を貫いていて、かっこいいと思う。
人の嗜好というのは、自らの内から出てくるものばかりではないな、と、つくづく思う。
ところで、幼少期の自分を思い出すと、いつも無表情な印象がある
笑顔で写真に写っているものももちろんあるし、
話に聞く私は、恥ずかしがりやではあったけれどよく笑う子だったようでもあるし、
決して、感情の起伏の無い子などではない。
しかし、自分の記憶の中では、いつも無表情にだまって考え込んでいる自分ばかりが思い出される
どんな話し方をする子供だったのかも、あまり覚えていない
頭の中で考えることの方が外に発するよりも多かったから、なのかもしれない
とにかく、そのようにおとなしい子供であった
内気な子供であった
そして、誰かに甘えることを嫌っていた
大人になりたかった。早く自立したかった。
その思いは、強く覚えている。
いまも、ねこを抱きしめながら打ち込んでいるが、
だからこそ思うのだ
こんなにひとつのものを抱きしめて、独占して、わたしのもの!と言い張るこの感覚は、これまでの私になかったタイプの「甘え」なのではないかと。
きっと、幼い私がいるのだ
ただひたすらに、力いっぱいに甘えたいだけの私がまだここにいるのだ。
「誰もあなたを責めていない」
この言葉に何度も泣いている
悩みを話したときや、音楽を通して語られるこの言葉は、いつもわたしに強く響いてくる
どうして
責められている、と、どこかで思っているからなのだろうか
自分で自分が許せないのだろうか
甘えることを許してやれないでいるんだろうか
このねこを抱きしめながら、
ねこを抱きしめている自分を認めてあげることで、
甘えたい気持ちを受け入れ、そのようにする自分をゆるしてあげている、その一歩が踏み出せている。のだろうか。
甘えることは、むしろ大人だからできるのでは、とすら思う
子供は、その無知さ、愚かさ、真っすぐさゆえに、問題の解決方法を多くは知らない
だから、自分ひとりでどうにかしようとしてしまいやすい
しかし大人になり、視界が広がったときに、自分が甘えた方が良い場面がある、ということが分かる
その方が、自分のためだけでなく、周囲のためにも良い方向へ働くことがあるのだと、理解できるようになる
これは、自分の能力の限界を正確に把握して周囲に助けを求める力、とも言い換えられるかもしれない
私はまだ子供だ
まだ、可能であるならば、自分一人ですべて乗り越えたいと思っている節が、かなりつよくある
だけどどうか
いまはひとりで生きなくていいと知ったのだから、
理解はしたのだから、
近い未来に、健康的に周囲に甘える生き方を習得できたらいいのに、と、今日もピンクの大きなねこを抱きながら考えている
*23年7月追記
この記事を下書きに眠らせていた間に本格的な冬を迎え、カバンにつけられる小さなクマのポーチを新たに買った。これもまた、ピンクのねこと同様にふわふわのもふもふである。最高に可愛い。
この類のものは触っていると安心できる、と学んだため、積極的に買い、身近に置くようになった。
趣味は子供っぽく見えるかもしれないが、
自分の安心を自分で保証できるようになった今のわたしは、大人に近づけた、と思う。
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