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私が、高校を辞めた理由と得たもの。

これは、私が全日制の高校を辞めようと決心して通信制の高校に転校後、4年制の大学に進学するまでの話。実行するまでの私の感情と大人たちの思いや世間の暗黙の了解を越え、得たものを嘘偽りなく書いてます。もし今、同じように考えている人がいて参考にしてもらえたら嬉しいし、既にだいぶ大人の方が、今ってこんなにも選択肢がある時代なんだなぁ~などなど思って頂けるのもすごく嬉しいです。

 入学した年に高校まで義務教育化され、地元では進学校と呼ばれる高校に一年間通った結果、私は単位制の、いわばヤンキーしか行かないような学校に転校することを決めた。

 特にコレといった理由はなかったが、その反対に、特に今の高校であと二年間、10代の貴重な時間を過ごしたい理由が見つからなかったから。

 この時からすでに私は生き急いでいた。たった3年間の高校生活と思えなくて、私にとっての中途半端な10代という期間はとても貴重でまだ知らない感情や人の思いに影響されたいという欲望が大きかった。多分これは私が、人よりも多くの死に接してきたからだと思っている。
 私は母が43歳の時に産まれた、初産だった。父は一つ上の44歳。だから必然的に、老人ばかりの環境で育った。記憶があいまいな頃から可愛がってくれていた親戚のおじちゃんやおばちゃんは私がやっと”死”というものを理解できる年になったくらいから次々とお星さまになっていった、人はいつか死んでしまうのだと知った。だから、生きているうちにやりたいこと、見たい景色への欲望の強い人間になってしまったのだと思う。
 私が高校に入学したばかりのある日、一緒に暮らしていた私にとっていちばんの味方であるおばあちゃんに膠芽腫という珍しいガンが見つかった、とお母さんから聞かされた。私がテストでいい点数を取ったりいい高校に入ったり綺麗な字を書き女の子らしくピアノを弾いてあげると一番誰よりも喜んでくれた人がもう残り少ない命だということが信じられなかった、誰の為に進学校に行くことを決めたのだ、とも思った。だけど残された時間は日々変わっていくおばあちゃんの姿を見るだけで、言われなくてもほんの少しであることが分かった、だからいい子でいた。定期試験はいつもより頑張って、学級で1割以内に入ったことを伝えると、もう家族が誰かさえ分からない状態なのにいつもの嬉しそうな笑顔を見せてくれた、おばあちゃんは私のことは忘れてなかった、ほとんど最期の時まで。
 その年の9月26日、味方は人間から神になった。数多くの葬式に参列したけれどあんなに涙が止まらなかったのは初めてだった、と同時に、これで私が高校を辞めても悲しむ人がいなくなった、と思った。おばあちゃんの”死”がなければ私はあのまま地元の進学校を卒業していただろう。


 ともなくして私は、最初は両親には内緒であらゆる高校の資料を寄せ集め、目ぼしい学校をピックアップしていった。あとは、お父さんお母さんににどういう理由で高校を転校したいのかを伝えるだけ。漠然とした感覚でしかない思いを考えた結果、次のようになった。

・自分を変えたい
小さいころから、思ったことを口に出せなくて、人とすぐに馴染めない自分が嫌い。環境をがらりと変えることで否応なく変えることができると思った。
・人と違う経験がしたい(好奇心)
どうして全日制の高校でみんなと同じ制服を着て平凡な中学の延長みたいな環境で生活して足並みそろえて大学に行かないといけないのか理解できない。海外にも行きたいし、バイトもしたい。また自分自身を律してやらされるのではなく自主的にこれからの人生を選びたい。
・自分を試したい
勉強だけでなく、遊んで社会勉強もして、無謀だといわれる大学進学をして自分に自信をつけたい、今までやり遂げたことがなかったから。

 上記のようなことを、両親に正直に話した。最初は、ただ楽をしたいだけで逃げている、と言われ相手にしてくれなかったが、何度も何度も、そして意思を乱すことなく説得すると、向き合ってくれ納得してくれた。だが、当時父は、もう自分の娘が大学に行く未来はないと覚悟したらしい。”自分自身、大学中退の人生だったから一人娘の私には大学という場所で4年間過ごしてみて欲しいのだ”とその頃いつも私に言っていたのに私の意見を尊重してくれた。私もいつか子供ができて、唐突にこんなことを言ってきたら同じような結論をだせるだろうか。押しつけがましい教育をしなかった両親が初めて大きく反対した出来事であった。
 

 両親の許可が出たらあっという間に準備が整い、一年間お世話になった上履き片手に桜散る正門を出た。

 周りの友達には直前まで誰にも言わず、いきなりその小さなコミュニティから去った、気持ちがよかった、とても。2年生になる時のクラス替えで貼り出される名簿にひとり名前が抜けていたことで、私の不在をみんな知ったらしい。友達だと思ってないような人達からLINEが来た、心配というベールをかぶった野次馬根性丸出しの通知が鳴りやまなくて心が消費されている様な感覚になったので、LINEのアカウントごと削除して作り直した、私には深くて狭い付き合い方が向いていることを知った。

 当時の担任やクラスメイトや私のことを知っている人から、たぶんまおこは大きな間違いを犯したと思われていたに違いない。転校しようと考えていると学年主任に告げたとき、「お前はもう、大学進学は諦めたのか?」と、とても純粋にそして思いつめた顔を見て悟った、あぁやっぱりここにいる意味はない、と。なぜ、通信制の高校に通うことと大学に行かないことがイコール関係なのか分からない。小さいころから少なくともバカではなかった人種の多くは用意されたレールから脱線することを嫌う、別に死ぬわけじゃないのに。
 だけど、そんな中、たった一人ちょっと変わった大人と出会った。それは、転校する際の最後の面談相手、校長先生。もう決断しているから止めようがないというのもあっただろうが、彼は私と母の目を見て「人はどんな場所でも意思があれば生きていける、だから自分の選んだ道をきちんと進みなさい」そう言ってくれた、救われた。このまま校長先生みたいな大人と出会わなければ私は、一生この高校を、母校を、嫌って下に見て生きることになっていただろう。あぁこんな素敵な考えを持つ大人が校長先生だった高校で一年間学べて良かった、と心の底から思えた面談の時間だった。

ーそんなこんなで、新しい学校で新学期を迎れることになった。タイミングが良かったので、学年も被らなくて済んだ。

 新しい高校は、第一学院高等学校という、サッカー日本代表の香川真司さん・柿谷 曜一朗さん・酒井 宏樹さんなどと同じ高校。っていうと凄く感じるけれど、全国にめちゃくちゃキャンパスがあるから関わりゼロ。ただ、履歴書の卒業高校の名前が同じってだけ。コースは、完全通信制、週1コース、週3コース、週5コースから選べて学習環境も整っていてこの高校を選んだ。また、オーストラリアへの短期語学留学やヤングアメリカンに参加できるプログラムもあって私にとってピッタリだと思った。
 環境を変える決断をしたことは、本当に大きかった。人に話しかけるのが怖いと思ってたけど、私よりも対人恐怖症みたいな子もいて自分の悩みがただ私の性質なんだと受け入れられた。もちろんただのヤンキーもいたけど、ここの高校は、様々なバックグラウンドを抱えた年齢もバラバラな人たちがいて楽しかった。みんな、いじめられた経験や精神病を乗り越えていたり、受け入れて共存していたり・・・。先生たちも元バーテンの数学教師や生徒以上に遅刻してほぼ毎日新幹線で来ているという国語教師、某予備校をクビになった英語教師、教員試験落ちまくって仕方なく働いていた担任の先生、、、人生ハードモードな人ばかりで楽しかった。人は年齢ではなく何かを突き詰めて悩んだり考えたりすることで大人になるのだと知った。

 この、大きな決断で、目に見えるもの、見えないもの、多くのものを得た。時に、楽しさに制限が効かなくなって遊んでばかりいた時期もあって、結局自分は規則にまみれた環境から逃げたかっただけなのではなかったのか、と自分を疑った。勉強して大学に行くと決めていたのに誘惑に負けてしまいそうな時もあった。結果として、目標だった国公立大への進学は叶わぬ夢となったが、だからと言ってあの日の決断を後悔なんて一つもしてない。私は、精いっぱい勉強したし、学んだ。きっと、あのままみんなが大学に行くから私も受験する、というような感覚で生きていたらと思うとゾッとする。今よりいい大学に行けたかもしれないが、私は自分の意志で大学進学を決めて進んだ今の方がよっぽど良いと自信をもって言う。周りの友達は、進学した人もいればしてない人もいる。みんな自分の意思だったり、勉強しなかった責任だと納得して今を生きていている。
 

\転校したことで得たもの・こと/

・本を読むのが好きになった
小さい頃から読書が嫌い&作文なんて何を書いていいのかわからなくて大嫌いだった。だからあえて、通学時間が往復2時間になったことを利用して本を読んでみようと思った。電車の中でしか読書しない決まりをつけてたのもあるが、村上春樹『1Q84』全巻読むのに1年かかった。だけど、そこから本が好きになって書くことも苦ではなくなった。むしろ好きに変わった。人が電車の中ですることは一生続ける事になると聞いたことがあるが、苦手なことやコンプレックスがあればまず電車や通学通勤時間だけしようと決めて始めることをお勧めしたい。

・偏見がなくなった
金髪だから不良、とか、〇〇人だから▲だ、とか一方的なものの見方をしなくなった。これは、多感な時期に同世代だけでなく様々な大人をみた経験が大きいと思う。

・一人行動が好きになった
幼いころから慣れ親しんだ友達ではない人と新たに友達になり、自分は他人に気を遣いすぎてしまう性格で常に一緒にいるのは疲れる事を知った。誰の予定も気にせず一人で行動出来る楽しみを知った私は、一人の時間と誰かとの時間の二つの楽しみを持てた。

・人見知りしなくなった
人見知りって人に自分がどう思われてるか気にしすぎるからなるんだと思う。私の場合、”どんな場所でも自分は自分で本質的には変わることはない”と環境を変えても人との付き合い方は大きく変わらなかったことから割り切れるようになった時が、人見知りを克服した瞬間だったと思う。今の私の根本は変わらず人見知りだけど、そうではないように振る舞う事から始めると次第にフリがうまくなっていて今ではその多くの人が私が「実は人見知りなんですよね」って言っても信じてくれない程。

・人と話すのが楽しいと感じるようになった
人見知りの人って、他人の観察能力に長け過ぎているのかもしれない。人見知りという自分の本質を認めてから、初対面の出だしだけそうではないフリをする中で根っから明るい人の方が少ないと知った。割と多くの大人はフリが上手いだけでみんな程度の大小はあるだろうけど人見知り。そう思うと、もう他人の目やどう思ってほしいなどの感情はなく、人と話すことで自分以外の人の体験を聞いたりすることを純粋に楽しめるようになった。

・海外旅行の虜になった
「最近は海外に興味のない学生が多い」と上海行きの飛行機で偶然にも私の大学の教授がぼやいてて驚いた。こんなにも情報も手段もハードルが低い時代だからこそわざわざお金をかけてまでネットで知れる国に行くほどの興味がないのかもしれない。

・全ての出来事を肯定的に捉えられるようになった
「今までの挫折の経験を教えてください。」就活の面接で耳に蛸ができるくらい聞かれた質問。正直言ってない。だけど多分、今までの私の人生を他の誰かが経験したら挫折の経験を語れるかもしれない。私の価値観では挫折がないだけで。そもそも自分を変えたくて高校を辞めた私はその時点で挫折している様に見えるかもしれないが、私自身強い決意で選んだ道なのでむしろワクワクしていた。また、10年続けた書道を師範ギリギリで辞めたのも他者から見ると挫折かもしれない。ただ、私は、書くことが好きでわざわざお金と時間をかけてまでそれを欲しいと思わなかったからその道は選ばなかった。全ては自分の納得感だと思う。意志を持って小さな分岐点を一つづつ進んで行けば、無駄なことなんて人生にはないんだ、と思えるようになるのかなぁ。

 

    今現在の私は、大学4年の最後の春休み期間の真っ最中。周りは卒業旅行などで忙しそうだけど私はもう旅行は沢山したのでいつも通り相変わらずバイトをして過ごしている。あまりにも暇そうだったので大学の講座をとってWebBクリエイターの資格取得講座に通っていて割りと忙しい。思えば、高校三年の大学受験を控えた夏休みに行ったオーストラリアをきっかけに海外旅行が好きになって一人で韓国、台湾、上海、昆明、ハノイ、ホーチミン、カンボジア、マレーシアに行った、国内旅行も家族と沢山した。通学時間には高校の頃と変わらず読書に没頭した、最近はクリープハイプのボーカルである尾崎世界観さんと千早茜さんの合作『犬も喰わない』という同棲生活をする男女の物語を読んだけどとても面白かった。私は、本は紙派なので、来年から一人暮らしをする家のトイレに是非置こうと思う、もちろん星野源さんの『そして、生活は続く』も。

    若い頃に受ける刺激は、良くも悪くもその後の人生に大きく影響する。遺伝行動学肯定派ではあるが、環境要因も大きいと思っている。だから、いま何か退屈だな、とか、現状を変えたいとか思っているなら、きちんと情報を集めてこの選択が失敗しても自分は後悔しない、その経験も全て吸収して糧にしてやる、と納得して道を選ぶと良いと思う。たった22年しか生きてない私が言うのだから30歳の私はまた違うことをいってるかもしれないが。ただ、情報と納得感は高ければ高い方がいいだろう。

    就活はビックリするくらい順調だっった。50社程の会社説明会に行って約40社にエントリーし、結果5社から内定を頂いた。それも全て誰もが知っている様な一部上場企業。悔いはない、やりきった。高校の転校という履歴がマイナスにしようと思えばできるしそういう「高校で逃げた奴は社会でも逃げるだろう」と言う様な捉え方を最後まで消せなかった会社とは縁がなかったが、5社もの企業が私と今後仕事をしたいと思ってくれてた事実は、転校したという過去は決して人生で不利にはならないと実証した。

    海外に移住して生活をしてる人や、最近ではネットで稼いでいる人、などが輝いて見えるのはたぶんその事実ではなくて、彼ら彼女らの納得して選んだ道をしっかり生きている様が輝いて見えているのだと思う。だから、海外で日本語教師になる道やハウスメーカーでバリバリの営業になる道などの中から私はインフラ企業の総合職という道を選んだ。納得して会社員になる。どうしてか最近の風潮的に会社員は時間の無駄だとか働き方っが変わりつつあるように思うけれど、それには向き不向きがあって、会社員に向いている人はそれでいいし向いてなかった人の選択肢が増えた程度と考えて良いと思う。ただ、一本の柱(強み)だけではなく三本くらいの基礎がこれから生き残っていくためには必要にはなってくるのかな、とか。なので、その中でまたやりたいことが明確に芽生えてきたらそれはその時の自分に任せようと思っている。「人事を尽くして天命に従う」とても好きな言葉。働き方が変化するのだから、当然求められる人材も変わって、教育のあり方そのものも変わっていくのだと思う。全日制高校に合わない学生の学びの場の選択肢も増えて柔軟な社会ができてほしい。

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