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映画時評『キリエのうた』

僕のなかでは『ラストレター』以来の岩井俊二です。
2017年のこと、『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』の劇場アニメ版が公開され、なぜか賛同者が少ないような気がしますが、前年に公開された新海誠『君の名は。』より、はるかに気に入ったのを覚えています。

『君の名は。』の三葉より、男の子より背が高くて、ほんの少し大人な、なずなの方に魅力を感じた。
化物語の戦場ヶ原じゃねーか。みたいに言われてるけど。(シャフト製作だからね)

『君の名は。』旋風が吹き荒れたあとの公開だったので、苦戦したのかもしれない。
あとRADWIMPSをスルーして、米津玄師にはまった。

新海誠監督は岩井俊二監督のフォロワーで、キャリア初期から影響を受けている。最新作『すずめの戸締まり』では、『君の名は。』では間接的に触れるだけだった震災のテーマを全面化して描いた。
そして岩井俊二監督の最新作『キリエのうた』も、同じように震災をあつかう映画となった。なんだかこう書くと、師弟対決のようで燃える。

あらすじ

2023年 東京
新宿の夜、アコースティックを抱えて小さくなっている女の子を見つけた。イッコがリクエストすると、彼女は歌う。酔いは覚めた。ブレザーに袖を通していたころからの友達と、いままた巡り合ったのだ。
路花は路上で、キリエという名前で弾いていた。彼女は、会話をする声は引っ込んで出てこないのに、歌は歌えた。
真緒里はイッコと名前をかえていて、キリエのマネージャーを買って出る。動画を撮り、あちこちの人物に引き合わせ、順調に彼女を売り出していく。なのに、ある日イッコはキリエのまえから、忽然と姿を消した。

2018年 帯広
真緒里は大学にいくつもりなんてなかった。ママに恋人ができて、そいつがわたしに金を出してくれるらしい。真緒里の気持ちの整理がつかないまま、ドアのベルを鳴らして現れたのは、夏彦という名前の家庭教師だった。夏彦には路花という妹がいて、同じ学校に通っていた。「なんか、友達いないみたいね。わたしもいないの。ねえ、友達になって」路花はそのときから無口だった。

2011年 大阪
女の子が古墳に住んでいる。寺石風美が生徒から聞いたうわさは、果たしてその通りだった。夜の古墳公園にたたずむ大きな木に灯りを向けると、女の子が上にいた。その子はうまく声がだせず、ランドセルのなかにあったノートには「小づか る花」とあった。寺石はSNSを通じて、彼女の姉の“フィアンセ”と連絡をとり、大阪で落ち合う。現れた男、夏彦が話すのは、路花の姉、小塚希との馴れ初め、そして3.11の記憶だった。

2010年 石巻
希が、手を繋いでもいいかと聞いてきた。夜の神社が怖いのだろうか。夏彦は、いいよ。と答えて彼女の手を握った。夏彦は大阪の大学への受験を控え、その裏で希と内緒で付き合っていた。だからある日彼女が妊娠してしまったときも、素直に喜ぶことができなかった。揺れてる。揺れてないよ。ちっぽけな少年の戸惑いは、そのあとにきた、大きな揺れにかき消された。

感想

あらすじを整理しようと書いてはみたけど、不全感が否めない……。本編は四視点が交錯しながら進む。
この複雑さの理由は、脚本が未完のまま撮影を始め、ようやく完成したころには、もう映像を撮り終わっているwという、即興的な性格の映画だからだ。さらに「真夜中の女たち」という、『ラストレター』に登場した劇中小説と、「フルマラソン」「イワン」の二つの小説を組み合わせた原作を元にしているためでもある。

製作がそんな感じなので、上映時間は3時間に膨らんでしまっている。路花と真緒里の話と、夏彦との話が同じくらいのウェイトなので、一本調子なクライマックスではなく、分散した印象。群像劇的。

パンフレットのコラムには、岩井監督の映画は、いつも中心となる人物が不在で、すでに死んでいることが多い。とある。確かにそうだ。青春のみずみずしさを描きはするけど、その裏にあるものは痛く、苦いもの。

『ラストレター』には、青春時代と大人時代の対比から、その間にある後悔や苦悩を描こうとしていた。『キリエのうた』も過去と現在の往還であり、その対比を持ってして、間にある喪失を浮かび上がらせていく。
少女だった真緒里と、大人になったイッコさんを見比べるとき、いやでもそれを感じる。映画のなかではイッコさんの存在が一番悲しかったんですが、震災関係ないし、どうしたもんかな。

イッコさんの過去パートを見るときには、もう大学には行けなかったという事実を知っている状態で見るため、物語が前に進行するんじゃなく、どんどん終わりに近づいていく感じを持ちながら観てしまう。
「永遠には続かないよ、そういう時間は」なんてセリフがあるように、この映画には、モラトリアムの終焉、いずれ終わってしまう楽しい時間が存在する。岩井作品の共通項かもしれない。
終わりを知っているから、悲しくなる。

それは本作で扱われる震災に対しても言える。
夏彦と希の物語は、いづれ震災が来て二人が引き裂かれるのだということを、あらかじめ予感させる。その上で青春が繰り広げられる。
ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』という映画を思い出すのですが、これは、コロンバイン高校銃乱射事件を題材にした映画で、事件が起きるまでの学校の平凡な日常を、瑞々しいタッチで描き出していきます。
悲劇が起きることをあらかじめ知っているので、平凡なやりとりが意味深なものに思えて、ただそれだけで最後まで見てしまいます。

ですが真に残酷なのは、震災後の日常にモラトリアムが存在しないことです。キリエが路上フェスを終えても、そこには終わりもなければ満足もない。帰って暗い部屋で、ご飯を食べる姿で終わります。
ずっとこうやって生きていかねばならないのか、それともいつか決定的な瞬間が訪れるのか、わからないままです。

冒頭に新海監督のことを書きましたが、『すずめの戸締まり』で、鈴芽が足の欠けたままの椅子を受け取り、喪失を引き受けたまま生きていく決意をするのと違って、『キリエのうた』では、震災の記憶から逃れることができない、いつまでたっても過去になってくれない。そういう残像のなかを生きる、現在の感覚だけが残されたのではないか。
僕自身は被災地から遠く、震災が心に影響を残すことがなかったので、被災者がどのような感覚で、今を生きているのか想像することしかできない。なので最後の考察は完全に当てずっぽうだ。でも震災から12年の時を経ても、なお岩井監督がこのような映画を撮るのは、やっぱりそうなのかもしれない。

ところで僕は、キリエのイノセントな佇まいに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークを連想した。なんとなく。

表紙がギターケースの形に開くパンフです
来場者プレゼント。登場人物の紹介と、時系列が書かれたカードです。

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