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【映画時評】哀れなるものたち

去年から楽しみにしていたヨルゴス・ランティモスの新作。かれの過去の映画を見ていて感じたのは、キューブリックのような、ドライで突き放した人間描写と、皮肉っぽいユーモアで、ギョッとする映画が多いことだった。『女王陛下のお気に入り』『聖なる鹿殺し』を初めにみたものの、これははずれだった。それからしばらくして『ロブスター』を観たとき、この監督のことが好きになった。『ロブスター』はラブ(ブラック)コメディとでもいいたい、ディストピア世界で繰り広げられる、バチェラー争奪戦で、独身者は45日以内にカップルを成立させないと、動物に変えられてしまうという奇妙な映画だ。最後に主人公の男は、愛するパートナーを見つけることになるのですが、愛おしいオチで大好きです。そのあと『籠の中の乙女』(原題は“犬歯”という意味のそっけないタイトル)を観て、こちらは裕福な家庭の子供が、外の世界をいっさい知らされないまま育てられ、親の話すインチキな世界を信じきったまま思春期まで成長し、囲い込まれたユートピアで過ごす日常を描く家族ドラマで、やはり面白く妙な映画だ。『ロブスター』に次いで好きです。

『哀れなるものたち』もそういう諒解で観にいって、期待を裏切らない内容でした。ヨルゴス史上、もっとも大規模な映画になっていて、一つの到達点、新境地がひらけた作品だと感じます。

舞台は架空の19世紀。スチームパンクか、ゴシック小説の下地で彩なす世界は、ロンドンに始まり、モノクロームの映像で映しだされる。30年代のドイツ表現主義の映画をオマージュしたセットは、ダークファンタジーの原点にまで、見るものを立ち返らせます。(空や海はスクリーンプロセスLED)ヨルゴス監督の映画は、どれも箱庭感があって、セットから受ける印象はアンドリュー・ニコル作品、『ガタカ』や『トゥルーマン・ショー』のような雰囲気に似ているでしょうか。

物語はマッドサイエンティストの“ゴッド”ことゴドウィン(ウィレム・デフォー)が、教え子の一人マックスを自宅に招き、ベラという女性(エマ・ストーン)に引き合わせるところから始まる。ベラは、立ち居振る舞いや言動が、幼い子供のようで、障害をかかえているように見える。しかし、真実は、ゴドウィンが入水自殺した女の死体を、その女の腹のなかにあった胎児の脳と移しかえ、蘇生させたという衝撃的なものだ。母親のからだに子供の脳があるのです。

ベラは強い好奇心をもった少女で、外の世界の危険から遠ざけようとするゴドウィンに反発し、家出をして、世界を旅しにいくというのが、本作の内容。ベラは『籠の中の乙女』のように、外の世界を知らないわけでもなく、抑圧する父親もいません。しかし本作では、ベラが飛び出した外の世界もまた、大きな箱庭になっているという仕掛けがあり、彼女の成熟をめぐる冒険は一筋縄ではいかない。『籠の中の乙女』では、親が設定した謎ルールである“犬歯が折れたら大人になれるよ”というインチキを逆手にとり、自ら歯をうちつけ、割礼じゃないですけど、セルフでイニシエーションを敢行し、親の庇護をはなれ、ユートピアの外に脱出していきます。(性のめざめがある種の起爆剤となるのは、両映画とも同じかもしれない)

ですが、ベラの場合は外に出ても、それは始まりに過ぎず、あの『籠の中の乙女』の主人公のその後のストーリーとしても見ることができます。ベラは、ダンカンという弁護士の男と駆け落ちをして出ていくのですが、この男がいわゆるドンファンキャラで、ベラにセックスの快感を教え、甘いお菓子やお酒、ケンカなど、外の世界を案内します。ダンカンははじめ、ベラのことを遊んだら捨てるつもりで相手にするのですが、いつしか本気で愛し始めるようになり(おもしれー女…)、常識を介さないベラの振る舞いに、なかば魅かれ、なかばついてゆけなくなる。ベラもはじめはセックスの快感に耽っているだけだったのが、哲学をまなび、奴隷搾取の現実を目の当たりにし、さらには娼婦を体験し、社会主義と医学を勉強、マッドサイエンティスト、ゴドウィンの教育が実を結んだのか、ベラはなんというか、理知的で科学者のようなレディに成長する。(妥協を許さないセンター分け女子)

ベラがユニークなのは、自分のことでこれっぽちも感傷的にならないところで、世界を良くするにはどうすればいいだろうということに、悩み、突き進むのが痛快でした。なのでぼくは本作を、女性としての自立を描きながら、真のテーマは“改造”なのではないかと、妄想を膨らませています。

ベラが船旅で出会ったハリーというリアリストの男がいて、かれは、人間には抑えがたい野蛮な本能が内在していて、それから逃れることはできないという思想を彼女に聞かせます。避けがたい本能ゆえに、奴隷搾取やバイオレンス、抑圧的な男性という存在を根絶することはできないのだと。しかしベラは、さまざまな知識を学んでいき、理性によって世界を良い方向に導けると信じている。ハリーを傷ついた少年だと言います。哀れなるものだと。しかし、ラスボスとして現れるブレシントンという男は、(複雑な関係ですが、父と子でいいんだろうか?) ベラを征服される領土だといい、女性の部分を切除しようとします。このような人物を理性で教化することなど、果たして可能なのか?(それに対するひとつの回答が、ラストでベラが行う“手術”である)

この映画、ゆきて還りし物語になっていて、古典的なビルドゥングスロマンでもあります。家父長制とか(籠の中の乙女)、国家の制度(ロブスター)なら、なんとか外の世界に脱出すれば自由があるかもしれませんが、女性であることといった本質的なものからの自由というのは、外への脱出がありえません。その点『哀れなるものたち』は、いったん脱出して帰ってきちゃうという構造になっていて、そこらへんが過去の監督作よりも発展しています。
映像に魚眼レンズが多用されたり、セットが明かに作り物めいているのは、彼女が旅をする外の世界もまた、何者かの強制が働く世界であるということをそれとなく示しているのではないでしょうか。男性優位の社会、女性らしさ、社会的モラルなどなど……。
アラスター・グレイの原作は、ゴシック小説や教養小説を引用したポストモダン文学という紹介がされていて、なるほど確かに、映画を見る限りでも、既存の価値観の脱構築という感じで、ベラの行動がことごとく、“良識ある社会”を揺さぶっていく。これはパンフレットに書かれていたことなのですが、ヨルゴス監督の出身であるギリシャや、そのほかヨーロッパ圏では、性描写よりもバイオレンスの方が忌避される傾向にあるらしく、アメリカなどで性描写のほうがショッキングだと言われることに驚いたとか。日本もタブー感で言えばエロ>グロなのが一般的かな?と思うのですが。まさに脱構築です。

『哀れなるものたち』は既存のルールの改変をうながす一方、そのルールに従わない者は改造して作り変えるというラストになっていて、そうなると、“正しさ”の意味自体が揺らいでくる。ベラは自らの周囲を理想の箱庭に改造しただけなのか、はたまたこれが進歩した社会の縮図なのか。ラストの優雅なお茶会シーンには、そういった含意があるのではないかと、映画を一回見ただけのアホは妄想しています。

あともうひとつ、登場人物たちがみなキュートで、ダンカンやブレシントン(あと多分ゴドウィン)みたいな悪役キャラでさえ、憎みきれない、それこそ哀れなるところがあって、全体的に優しい映画になっていると感じました。ここがすごく良かった。音楽もそういった人物に寄り添うような曲になっていて、『哀れなるものたち』はすごく耳に残る音が多い。エンドクレジットを最後まで聴け!
ヨルゴス監督作でも最高傑作なのは間違いない、ずば抜けた完成度の映画だと思いました。

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