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『WMH』とタル・ベーラの映画

タル・ベーラは1977年から活躍するハンガリーの映画監督で、代表作である『サタンタンゴ』は7時間18分という長大な作品として知られている。
すでに引退ずみですが、名実ともに巨匠の域にある監督といっていい。

2022年には日本初公開だった、『サタンタンゴ』以前の過去作が一挙上映し、再評価の波を感じる。僕はこのとき初めて名前を耳にして、実際映画に触れるのは今年になってようやくだった。

今回は『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を劇場で見ることができたので、その感想をメインに、予習として監督の過去作、『ファミリー・ネスト』『アウトサイダー』『ダムネーション/天罰』『サタンタンゴ』も配信で鑑賞したので、併せて記録を残しておきます。


『ファミリー・ネスト』 1977年

まず当時のハンガリーが置かれていた状況として、1949年からの社会主義政権下での検閲が存在した。
それが58年になり、バラージュ・ベーラ撮影所と呼ばれる、検閲なしに映画を撮ることができるスタジオが開設される。
その代わり国内での上映権はなく、ハンガリーの映画監督たちは、バラージュ・ベーラで実制作のスキルを学んだ後、国営のスタジオで働くか、インディペンデント作家になるかというのが、大まかな進路だったようである。

タル・ベーラは映画学校に通いながら、バラージュ・ベーラで映像制作も行なっており、22歳で処女作である『ファミリー・ネスト』を完成させる。
『ファミリー・ネスト』は、警察の手によって住むところを追い出された夫婦とその子供を見て、怒りを募らせたタル・ベーラが、実際にその夫婦をキャストに呼んできて架空の家族を作って演じてもらったという映画。

内容は、一つのアパートに三世帯で暮らす夫婦の話で、当時のハンガリー市民が置かれていた社会的状況をドキュメンタリータッチで描き出していくというもの。
主人公はイレンという女性で、旦那の家族と共に暮らしているのだが、アパートは窒息しそうなほど狭く、一家の長である義父は、あまりにねちっこく、嫌味たっぷり、パワハラモラハラセクハラの三重苦でイレンを苛つかせる。
旦那はまったく頼りにならず、義父の腰巾着である。

この映画は、すでに誰かが指摘しているんですが、ジョン・カサヴェテスの映画によく似ている。とくに『フェイシズ』の演出に似ている。
顔のクローズアップが多用され、窮屈な空間をこれでもか!と構成する。

『ファミリー・ネスト』にはギョッとするシーンが一つあって、イレンを訪ねにきた女友達の一人が、彼女に別れを告げて夜更けにアパートを去るのですが、その直後、夜道で二人の男に抑えつけられ強姦されてしまう。襲った男というのがイレンの旦那と兄で、さらに驚愕するのが、その犯した女をバーに連れていって、平然と一緒に酒を飲むのである。

タル・ベーラ自身が語るのは、出来事が人生に何も影響を与えないという、冷酷な事実だ。大ごとが起こったはずなのに、その事件は人生に何も影響を与えず、日々はいつも通り過ぎていく。この映画では大した事件が無数に発生するのに、それが登場人物の人生を全く左右しない。

『ファミリー・ネスト』は、ハンガリー1960年代のドキュメンタリー映画のムーブメントの流れを汲んだ作品で、『ダムネーション/天罰』で確立するタル・ベーラのタッチとはガラッと違う印象を与える映画だ。
それでも、処女作から一貫しているのは、常に厳しい現実と弱者の側に視点があることだ。

『アウトサイダー』 1981年

監督二作目のカラー作品。
演出面では『ファミリー・ネスト』の感じがまだ残っている。

主人公はアンドラーシュという音楽家の青年で、ヴァイオリン奏者。生活費を稼ぐために、精神病院で働いていて、患者たちからも慕われている。
しかし、喫煙と飲酒が問題になり、辞めさせられることに。その後は工場に就職し、カタという女性と知り合う。

アンドラーシュには、カタとは別の女性との間に子供があり、その人に養育費を払っている。しかもその子供が自分の子供かどうかわからない。
カタはアンドラーシュと結婚するが、アンドラーシュの金に対する無頓着さに腹を立て、早くも結婚生活に亀裂が入り始める。

芸術家として生きたいアンドラーシュと、家庭を持ちたいカタとの衝突。
アンドラーシュは自己主張があまりなく、カタに問い詰められても、のらりくらりとはぐらかすような態度をとるのですが、ヴァイオリンの音色だけは感情的だ。

人生は何もしていなくても、結婚や労働、さらには徴兵といった、物質的で具体的な“生活”というものにどんどん置き換わっていく。
気がつけば、アンドラーシュはヴァイオリンを捨て、ディスコでDJをしているという。クソ現実にアンドラーシュの感性が押し出されてしまう映画なのだった。

タル・ベーラは当時ヒッピーの生活に興味があり、この映画では彼らを共感を持って描き出す。新たな形式を模索するなかでの挑戦の一作。

『ダムネーション/天罰』1987

飛んで長編五作目。
脚本家にノーベル賞候補にもなった作家、クラスナホルカイ・ラースロー、音楽にビーグ・ミーハイという、『サタンタンゴ』チームが初めて集結し、タル・ベーラスタイルが一気に確立する。
映像は長回しになり、タルコフスキーような時間を演出する。『ファミリー・ネスト』と同じ監督とは思えない。

ストーリーはハンガリーの村で、夫がいる歌手の女と密通する間男カーレルが、バーの店主から小包を輸送する怪しげな仕事を請け負い、その仕事を歌手の女の夫に横流しにすることで、追い払ってしまい、その間に夫と別れて自分と来るように説得しようと試みる。
説明的な演出を排除しているので、歌手の女の内面など不可解な点も多いが、僕はストーリーをこう解釈した。

カーレルは彼女の気を引こうとしますが、口先だけで観念的な話をするばかりで、いまいち説得力がない。
一度、行為に及ぶシーンがあるものの、歌手の女は能面のような相好を崩さない。
全く動じない。
観念的なカーレルの世界と対峙するのは、酒場で演じられるダンスの場面で、踊ることだけがこの世界と調和する方法であるかのように、軽やかなステップが踏まれる。

雨のシーンが非常に多く、タル・ベーラ自身は「彼(タルコフスキー)の映画では雨は人を浄化するものだが、私の映画では泥を生むだけだ」などと言っていて、ゆっくり流れる時間のなかにあって、永遠と人々を罰し続けるかのように、激しく肩を打つ。
雨は地面を不確かな泥に変え、岩を削り、絶えず世界の形を変え続けるのだ。

そんな煉獄をゆくカーレルが最後にたどり着いた境地は、野良犬とのダンスだ。
雨のなかで踊り続けた男のように、混沌である自然を相手に、見事な踊りを演じてみせることしか、なす術はない。

背景で耳鳴りのような微かな音がずっと鳴っていたりなどして、舞台はハンガリーの村であるはずなのに、現実から遊離した独自の宇宙が構築されていて、異世界を旅するかのような映画だ。
この作品で初めてタル・ベーラは自らの文法を構築したのだ。

『サタンタンゴ』1994年

『ダムネーション/天罰』の脚本を手がけたラースローが同名の小説を執筆し、それを元に製作されたのが本作。

六歩進んで、六歩下がる。
タンゴのリズムに呼応した十二の章からなる本作は、7時間18分という逸脱した時間のなかへ観客を連れ込む。
4時間くらいしてようやくインターバルの字幕が出てくるのだよ。

再び異世界のようなハンガリーの村で、村人たちの間に、死んだはずのイリミアーシュという男が帰ってくるという噂が流れ始める。
前半部分は、イリミアーシュが帰還するまでを、村人、少女、イリミアーシュの多視点で、時間を遡行しつつ描いていく。ちょっとした群像劇で、あの場面とあの場面が繋がるんだ…。というような構成になっている。

イリミアーシュが明らかに中心的な人物で、彼は労働忌避(積極的に働かない)罪で投獄されていたようだが、警察に協力して、村人たちの間にスパイ網を構築することを見返りに釈放されるのだった。

村にはエスティーケという少女がおり、彼女の話に一編が割かれる。
彼女は淫売の母親に、仕事の邪魔だからと家から放り出されている。エスティーケは兄とともに、お小遣いを土に埋めて誰にも盗まれないように隠すのですが、それが兄によって持ち去られてしまう。
エスティーケは村のなかで最も立場が弱い存在で、あらゆるものから搾取されている。そんな彼女が唯一自由を感じることができる存在が、屋根裏に住み着く猫だった。
彼女は猫を痛めつけ、支配することで自由を得ているのだ。

おそらくサタンタンゴのなかでも屈指の衝撃シーンがここで、配慮されているのは分かってるけど、リアルすぎる猫いじめのシーンに背筋が凍る。
そしてそれは弱者がさらなる弱者を搾取するサタンタンゴ全体の縮図だった。

エスティーケは猫を殺鼠剤で殺し、自らもその殺鼠剤で死んでしまう。
猫を殺した良心の呵責に耐えられなかったとする解釈もあるようですが、僕は絶望のあまり死んだのだと思っています。自分もこの猫と同じく、何者かによって運命を弄ばれる立場にあるのだと。

村にやってきたイリミアーシュは、エスティーケのようなことが二度とあってはならないと、きつく村人たちを戒め、村の外れに自らの手で荘園を作り出す計画を話し始める。
しかしそれはスパイ網を構築するための詭弁で、まんまと騙された村人たちは知らずに彼の計画に乗り、村を捨てて出ていく。

そして物語は、外部の視点とでもいうべき医者の男によって閉じられ、再び映画の冒頭へ戻る。円環が完成して、無限にこれが繰り返されるのだ。

これほど広範で、宇宙的ともいえる映画を撮れる監督はそういない。
見終わった後、ぐったりと疲れ、圧倒された映画だった。

この映画に関しては、ストーリーやキャラクターよりも構造を暴き出すことに重きが置かれていて、蜘蛛の巣のように搾取の網が張り巡らされ、イリミアーシュの過剰に詩的な報告書が、役人の手によって無意味な文書に変換されていくのも、暗示めいていて、世界の空疎さ無意味さ、馬鹿げた不毛さを思わずにいられない。

監督の到達点の一つ。

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』2000年

本作は『ダムネーション/天罰』や『サタンタンゴ』のような異世界の感じが若干薄まり、地に足がついたリアリティを獲得した映画だと思う。

ヤーノシュという天文学が趣味の郵便配達の青年が、エステルという老音楽家の世話をしていて、彼を慕っていた。
そこへエステルの別れた奥さんがやってきて、“浄化運動”なるものを呼びかけるために、人物の書かれたリストを渡す。
ハンガリーの広場には、一頭のクジラが見せ物としてやってきて、“プリンス”と名乗る煽動者が、民衆に暴動の種を蒔いていく。

かつてハンガリーは社会主義国でしたが、80年代から90年代にかけて民主化の波が押し寄せ、急速に社会が変貌していった歴史がある。
そうでなくても東西の国に挟まれる形で、さまざまに政体を変えてきた国だ。

『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の中心に座しているのは一頭のクジラで、クジラはヤーノシュ以外には徹底的に無視され、放置される。
クジラはヤーノシュが心惹かれたように、神秘の世界への入り口でもあるが、プリンスはそれを、自らをカリスマに仕立てるための出汁として利用する。
プリンスは影の姿でしか登場せず、スクリーンの背後に隠れているオズの魔法使いのようなものだ。
タル・ベーラがこのような陰謀めいた世界を描き、いかなるイデオロギーにも共感しないのは、所詮それが相対的なものだと看破しているからだろう。

タイトルの“ヴェルクマイスター・ハーモニー”とは、十七世紀の音楽家であるヴェルクマイスターが考案した音律のことで、平均律とも呼ばれる。現代においては一般的な調律法とされるものだという。
それ以前に用いられていた音律は、ピタゴラス音律と純正律で、どちらも転調時に汚い和音が出てしまうという欠点を抱えていた。
ヴェルクマイスターの音律は、転調しても和音を損なわないように、作中の言葉で言うと、“妥協”することで生み出された音律だった。

プリンスが扇動する暴動は、街の灯という灯を破壊し尽くし、ついにはもっとも弱者である病人にまで暴力が及ぶ、そうして旧世界が打ち壊されたあとに築かれる新たな世界は、ヴェルクマイスターの音律、妥協が生むハーモニーに過ぎないのではないか。
そこには純粋なヤーノシュの居場所も、神秘の世界の入り口であり門番でもあるクジラの居場所もない。異端や逸脱した何かもなく、天才も特殊もない。ただ無機質でニュートラルな世界が残るだけだ。

ヴェルクマイスター音律やクジラ、影の煽動者など、言葉とイメージの巧みな組み合わせで世界の構造を捉えた映画だと思う。
『サタンタンゴ』で試みたことの、より洗練された形が『WMH』だ。

その後のタル・ベーラ

タル・ベーラは2011年の『ニーチェの馬』をもって56歳で引退し、現在は後進の育成に力を入れている。自ら映画学校を設立などして、主な弟子に『象は静かに座っている』のフー・ボー。未見だけど『鉱ARAGANE』の小田香。そして『LAMB/ラム』ヴァルディマル・ヨハンソンがいる。

『像は静かに座っている』は『WMH』のパンフにもあるのですが、師匠のクジラに対する、弟子のゾウという対比が隠されているなどして面白い。フー・ボーは亡くなってしまったのが惜しい…。

『LAMB/ラム』は動物を使った撮影が印象的で、それがタル・ベーラ由来の映像センスだとわかる。タル・ベーラもさまざまな動物を動かすのが得意な監督だ。

僕のタル・ベーラ鑑賞はだいたいこんな感じでした。
まだ未見の作品があるので、再上映かサブスク配信で来るといいですねー。
これからタル・ベーラの作品に触れる人の参考になれば幸いです。おすすめは『ダムネーション/天罰』です。これを見てピンと来るんだったら、7時間の『サタンタンゴ』もおすすめです。

インタビュー集も便利なので貼っておきます。

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