映画時評『ナポレオン』
僕はリドリー・スコットのファンなので、新作公開となればもちろん劇場に駆けつける。それでも観るのが遅くなり、周回遅れになってしまった感がありますが、感想を残したいと思います。
観る前から、賛否両論ある感じが聞こえていたのですが、ファンなのでどんな内容でも全肯定しようという気持ちで座席に座っていました。
本作が今年最後に観る映画になると思います。『PERFECT DAYS』も観たかったですが、年始になりそうです。しかし年の最後を飾るのが『ナポレオン』というのは、ゴージャスでふさわしい。そこは満足。
レビュー
リドリー・スコット監督による新作『ナポレオン』は、正直に申し上げますと、カタルシスのない歴史スペクタクル映画だった。
でもそれが特異で面白い点だったと思います。
普通の歴史スペクタクルものだと、戦いを通して活躍、成長し、愛する女性を手にする、守るというのが王道でしょう。でも今作は全く真逆な構図で、ナポレオンは自尊心を女性、ジョゼフィーヌに守ってもらい、その結果、戦うことができ、出世する。だから戦いで勝って、何かを獲得するというカタルシスが皆無なのだ。
(映像的なカタルシスはあるんだけど)
そもそも戦場という男らしさを証明する場が、全く機能していない。
本作の主人公は十八世紀の英雄ナポレオンで、フランス革命後の混乱のなか、王党派が占拠するトゥーロンという街を奪還し、パリの反乱を鎮圧、指揮官としてメキメキ頭角を表していきます。
最終的に皇帝にまでのぼりつめるものの、彼は武功や出世、冠になど興味がなさそうに見える。
そうそう、今作のナポレオンは英雄的でイケイケな肉食系男子ではなく、草食系、ホアキン系男子なのです。
リドスコといえば『グラディエーター』で一度ホアキンをキャスティングしたことがあって、あのときの奴がそのままナポレオンになった感じがする。ちょっとワガママで坊ちゃまな感じが。(そしてそれがリドスコの分身でもあるということを後述)
戦闘においては、退屈そうな顔で手を振り下ろし、砲兵に「撃て」の合図を下す。そしてそれを、耳を塞いで聞いている。
大砲の音は爆音だから耳を塞がざるを得ないという、リアリズムの演出なのかもしれませんが、僕にはどこか、聞きたくない音を聞くまいとしているように見えたのです。(現に隣に立っている将校らしき人たちは、耳を塞がずナポレオンのそばにつったていたように思えます。多分)だいぶ情けないです。
さらに決定的だと思うのが、序盤のトゥーロン奪還の戦いにおいて、意気揚々(でもないか)ナポレオンが馬に乗って突撃しようとするのですが、正面から砲弾を喰らって馬の方が即死するというすごいシーンがあるのですが、これがまさに去勢のイメージみたいで、ナポレオンが母やジョゼフィーヌの膝の下でないと戦えないような、ちっぽけな男らしさを抱えた人物であることを暗示しているようです。
死に際ということに関しても、華々しく戦場で散る英雄というイメージを排除しています。
ギロチンで邪魔者を次々と処刑していたロベスピエールは、糾弾され追い詰められた挙句、拳銃で自殺してしまうのですが、その弾丸は脳を打ちぬかず、頬をえぐっただけで、無様な格好になってしまいます。
あと、エジプト遠征に出かけたナポレオンが、ピラミッドに埋葬されていたであろうファラオの棺を掘り起こし、中を開けてミイラをいじるシーンというのがあるのですが、これなんかも、かつては権勢を誇った王の末路として、少し滑稽な味がある。
ナポレオン自身も、最後はセントヘレナ島で椅子から転げ落ちて、画面から消えていきます。
カッコよく死ぬ者はこの映画にはおらず、徹底的に戦場のロマンを剥ぎ取ってしまう。
脱スペクタクルな映画を全力で撮るので、北野武の『首』とあまりにも違うし、達観している。あの映画のバイオレンスを無邪気に楽しんでいた自分がひどく幼稚だったと思うくらいです。リドスコの方がイカれてるぞ。
ちなみに、キャッチコピーになっている「英雄か、悪魔か」という文言は嘘八百です。エンドロール前に、ナポレオンが指揮した戦いで死んでいった兵士の数が、字幕で出てくるのですが、別にナポレオンの傍若無人な振る舞いのせいで、死ななくてもいい人が死んだなんてことはないでしょう。少なくとも映画の内容からは、そう感じる。英雄でも悪魔でもなかった。じゃあ何だったのかというと、監督だった。という話を後半します。
広告代理店の適当なキャッチコピーに騙されないように。
この映画の問題点はもう一つある。それはディレクターズカット問題である。
情報によると、今作は4時間超の映画だったらしいのですが、劇場公開するにあたって2時間40分にカットされて、短縮されてしまったそうです。
違和感はあった。まず冒頭のトゥーロン奪還に至るまでの流れ。ナポレオンの独白をナレーションで被せて状況説明するシーンになっているのですが、全然らしくない。クソダサいのです。こういう演出嫌いでしょうが、アンタは。
『ブレードランナー』の劇場公開版が、プロデューサーのセンスのない一言で、冒頭に説明のナレーションをつけることになってしまったという経緯を即座に思い出しました。このナレーションが、せっかくのブレラン世界への没入を妨げるのです。正直カッコ悪い。最終版以降だとナレーションが消え、映像の世界に一瞬で没入できるようになっているのですが。
だから『ナポレオン』でナレーションが始まった瞬間、嫌な予感がしたのです。そしてその予感はあたっていたようです。
Apple +及び、ブルーレイで出るであろうディレクターズカット版『ナポレオン』には、確実にこのナレーションがないということを、賭けてもいいです。というかナレーションだけじゃなく、全体的に化ける可能性だってある。ソフト出るんならぜひ買いたい。
そんなこんなで、カットされた部分が多いから、必要な説明をすっぽかして、結果カタルシスのない映画になっているという可能性も、なくはないと思います。
最後に本作の初見の印象、ナポレオン=リドスコじゃねーか。という、あからさますぎたのか誰も触れない内容を書き残して終わりたいと思います。
『ナポレオン』を見るまえ、『誰かに見られている』というおそらくリドスコファンしか見ないであろう過去作を鑑賞していたのですが、この映画の主人公の刑事が、結構情けない男で、マッチョぶろうとしているのに最終的には奥さんに泣きつくというキャラだったのです。(しかも、拳銃で犯人にトドメを刺すのが奥さんの役という)
なんか、『ブレードランナー』のデッカードと似ていると思ったのです。彼もレイチェルを強引に抱いたかと思えば、レプリカントたちには、割とボコボコにされてカッコ悪いです。
ナポレオンもそうです。監督自身の性格が反映されているのは確かだと思います。
それに加えナポレオンは指揮官であって、彼がやっているのは兵士を指揮して命令し、戦争に勝つことです。これが容易に、指揮官=映画監督、兵士=スタッフと読み替えることが可能です。これは結構誰でも思いつく構図かもしれません。
だからナポレオンが手を振り下ろして命令するシーンが、「よーいアクション」と言わんばかりのテンションで、猛烈に面白い。
さらにプロダクションノートには、合戦のシーンを撮影するため、兵士役の俳優たちに当時の軍隊の教練を施し、「正方形に整列してほしい」と言うんじゃなく、「騎兵隊の位置に」と言う指令を出して、撮影の指示をしていたそうです。もうこうなったら、監督なのか将軍なのか訳がわからない。
リドリー・スコットといえば、アカデミー賞ももらったし、サーの称号も賜ったし、天下を極めた監督の一人と言っても差し支えないと思います。しかしそれ故の、天下を極めてしまった故の、退屈や虚無感が、こうまで虚しい戦場を構築しなければならなかった理由なのかもしれません。
それでも、美術やエキストラの豪華さは圧倒的で、次元の違う画で観客を圧倒します。
ホアキン・フェニックス演じるナポレオンも、あまりに見事にハマっているので、本当にナポレオンにしか見えない。こう言う人物だったと思わせる説得力が凄まじい。
ナポレオンの妻ジョゼフィーヌを演じているヴァネッサ・カービーもすごく良かった。初っ端、ショートカットで登場してきたりとか、リドスコヒロインの芯の強そうな感じと合わさって、ミッションインポッシブルのときより印象に残ってる。あんまり、好きな女優とかいない方なんですが、ヴァネッサ・カービーはいいっすね。アナ・デ・アルマスの次くらいにいい。
劇場で見て不満だった人は、ディレクターズカットを大人しく待ちましょう。
長くて見たくないという人は、最後のナポレオンが死ぬシーンだけ見れば、内容が見事に要約されているので、そこだけで十分でしょう。
「フランス、陸軍、ジョゼフィーヌ…」
僕の場合「SF、映画、読書…」とかになってしまいそうなので、なんとかしなきゃいけませんね。
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