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いずれおそらく心が死ぬ。

いわゆる"中華イヤホン"というのを、リケーブル(ケーブルを交換すること)して使用している。付属のケーブルは細くてへなへなしてなんだか頼りないし、何よりリケーブルすることによって音質がよくなる、と膨大な量のレビューテキストを読んだからだ(蔓延るサクラレビューを読み飛ばすことが難しいけど)。
届くとすぐ、聴き比べてみた。
…が、大きな差は感じられなかった。え、こんな感じ…?と思いつつ、せっかく買ったのだからとリケーブルしたものを愛用している。こっちのほうが音が良いのだと言い聞かせるようにしながら。

しかし、先ほど読んだレビューに面白いものがあった。
有識者曰く、リケーブルやエージングといったオーディオ都市伝説みたいなものは(オーディオオカルト集団と書いてあった。笑)、すべてまやかしなのだそう。そんなところにお金と時間をかけるのであれば、もうワングレード上の機種を買うなりとしたほうが建設的だと。

果たして、その意見を先に聞いていたとして、僕はリケーブルすることをやめただろうか。
残念ながら、否かなと思う。
どんなに有識者が「無意味だよ」と諭したところで、「耳音痴に何が分かるんだ、馬鹿め。そうやってしょぼい音で満足してろよ」という人間は必ずいる。僕ら一般人はその狭間で揺れに揺れ、最終的に決断を下すことになる。どちらを信じるのか、と。

しかしこればかりは『体験してみないと分からない』というのが重要な部分であると思う。いいところとわるいところをどれだけ聞いても分からない。自分で体験して、判断することに意味があるのだ。

同じようなものがこの世にはごまんとある。
美味しいよと言われれば食べたくなるし、面白いよと言われれば観てみたくなる。それは、体験する前の段階では評価が出来ないものだ。実際に食べたり観たりとしなくてはならない。

だから人間の、五感に対する欲求はすごく強いのだな、と思う。
少しでも良いものを手にしたいし、良い体験をしたいのだ。そういう経験が出来るのならと、少なくないお金を消費してゆく。

百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。
結局、情報に踊らされずに自分で見定めていくしか満足への道はないのだろう。

この、「百聞は一見にしかず」に続きがあるのをご存知だろうか。
諸説あるが、「百見は一考にしかず」というアンサーソングがあるそう。見るだけでは駄目で、見た上で考えることが大切だと。

探せばすぐに求めていた情報や感想が出てくる時代だからこそ、人の意見に左右されずに、まず自分の見解を持つことがこれからはもっともっと重要になってくるのだろう。
だからこうしてnoteに自分の意見を書くことはとても意味のあることだなあと改めて感じた。


何もかもまでネットに依存していると、いずれおそらく心が死ぬ。

…という、自分への戒め。笑

こんな駄文をいつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます…! ご支援していただいた貴重なお金は、音源制作などの制作活動に必要な機材の購入費に充てたり、様々な知識を深めるためのものに使用させて頂きたいと考えています、よ!