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木漏れ日の声

おばあちゃんの家から歩いてすぐに、まるで漫画みたいな裏山があって、夏休みなんかにはしょっちゅうそこに入り浸っていた。
おばあちゃんの家はぼくが住む街からうんと遠い場所だったから、知り合いも友達もいなくて、だからその裏山が友達のようなものだったのだ。
そろそろと流れる小川のせせらぎを聞きながらえっほえっほと獣道を登っていくと、少し開けた場所があって、ぼくはそこにお菓子やジュース、本やおもちゃなどを持ち込んでひとりで遊んでいた。
農家を営むおばあちゃんとおじいちゃんは、そんなぼくを見かねてか、その開けた場所に簡易的な小屋を作ってくれた。簡易的とはいえ、裏山の木材をふんだんに使ったログハウスだ。いわゆる丸太小屋、というやつだろう。広さは六畳ほどしかなかったが、木の香ばしい香りがするその小屋は、とても静かで、そしてとても暖かだった。

そんな、小学何年生かのある夏休みのある日、ぼくにはシカの声が聞こえた。
丸太小屋から二百メートルくらい離れた場所に居たその雌鹿は、首と耳をぴんと伸ばしてこちらを見つめ、「毎日毎日ごくろうさま」と、他の誰でもない、僕に向けて言葉を発したのだ。
正確にはテレパシーとかそういうものに近いと思う。聞こえると言うよりは、感じると言ったほうが。
それからぼくには裏山に住むあらゆる生物の声が聞こえた。そのほとんどはぼくを歓迎するか、そうでなくても受け入れてくれるようなもので、ぼくは裏山のことがより一層好きになった。おばあちゃんに頼み込んで、そこで寝泊まりさせてもらう日もあったくらいだ。

それと引き換えだったのか、ぼくは声を失くした。言葉を発そうとしても喉がまったく鳴らないのだ。
異変に気づいたおばあちゃんがすぐにぼくの両親に連絡し、ぼくはいくつかの病院を巡ることになったが、異変は改善することが無かった。
だけど、ぼくはそこまで不便さを感じていなかった。元々言葉数は少ない方だったし、裏山に行けば動物らと会話をすることが出来たからだ。

しばらくしてぼくは、今度は両親におばあちゃんの家に引っ越したいという希望を伝えた。
都会の喧騒は肌に合わなかったし、極力会話をしなくて済むこの土地が心地よかったのだ。
両親は、ぼくの病気(ということになった)のためならと、すぐに色々な手続きを整えてくれ、ぼくはあっという間におばあちゃんの家に暮らせるようになった。

そこからの日々は実に平穏で、なんの滞りもなく進んでいった。
言葉が出ないなら出ないなりの教育環境が日本には整っているし、ぼくにとって声が出ないというのが大きな問題ではなかったのが幸いしたのだと思う。

そうして中学と高校を無事に卒業した。必要ないとは思っていたが、会得した手話は周りの人間を安心させるらしかった。おばあちゃんらも両親も、必死で手話を覚えてくれて、なんだか気恥ずかしい気持ちになったものだ。
高校は農業高校だった。そこで農業はもちろん、酪農や農業の経営についてなども学んだ。
ぼくはおばあちゃんとおじいちゃんに感謝をしていたから、労力という形で恩返しをしたかったのだ。おばあちゃんは「きつい仕事だよ」とあまり良い顔をしなかったけれど、その声はどことなく嬉しそうだった。

裏山には、動物たちがすっかり減ってしまった。数年前に麓の一部分を道路にした事がきっかけだったかもしれない。
それでもぼくにはまだ、聞こえていた。
ただ、その声は朗らかだったあの頃とは違い、少なからず敵意を持ったものになっていた。
ぼくにはどうすることも出来なかった。裏山を愛してはいたけれど、そこに忍び寄る現代の波の前にはあまりにも無力だったのだ。

それからまた数年後、裏山に行っても声が聞こえなくなってしまった。
しかしそれと同時に、ぼくは言葉を発音出来るようになった。子供の頃のように。

ぼくは、言葉を失くして、言葉を受け取った。
そうして受け取っていた言葉を失くして、また言葉を手に入れた。

裏山は、動物たちを失くして、人間たちを受け入れた。

人間たちは。
人間たちは、何を失くしたんだろう。
手に入れてばかりで、失くさせてばかりで。

眼の前にそびえ立つ黄金色の稲穂の波が風に揺れている。
ぼくは自分の声でそうっとつぶやく。
「毎日毎日ごくろうさま」と。

遠くの山で、ぴゅう、と鳥の鳴く声が聞こえた。

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