ソン・タクウ。
ちょっと前に、『ドラゴンボールハラスメント』という言葉が世間を飛び交った。きっかけは確かWebライターさんか誰かのブログか何かだったと思う(うろ覚え)。
ご存知の方も多いだろうから超簡単に要約すると『趣味の押しつけは良くない』っていう話だったはず。ドラゴンボールも読んでないのかバカタレめ!とか言ってくるやつなんなん、しんどいわ、みたいな。
この話はすぐに「◯◯は読んだほうが良い」に始まり、聴いたほうが良い、観たほうがいい、というものに関係各所にて変換されていった。
作品への愛情があるばっかりに、強引になってしまう、もしくは「それも知らないの?」と偉そうになってしまう人間の(主に男性の、かな。笑)心理が入り混じった難解なテーマだったように思う。
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『忖度』という言葉がすっかり一般に浸透してきた。
優しさや配慮の気持ちであるはずの「他人の気持ちをおしはかること」という本来の意味から離れて、すっかり否定的な意味で使われるようになった言葉だ。えこひいき、的な。
でも、忖度ってあってしかるべきものだとも感じている。会話の流れであったり、その時相手が抱いているであろう感情や情熱を「おしはかる」ことがそんなに悪いことだろうか。そんなの、誰でも普段してることじゃないか、と。
しかしご時世だろう、なんでもくっきりはっきりしていかないといけない時代になった。誤魔化しは効かず、曖昧は許さない。白か黒で分別しないと気がすまない時代なのだ、今は。
そんな今、相手の気持ちをおしはかってしまうことは悪とされる。お前には自分の意見がないのかだとか、馴れ合いだとか、癒着だとか。
個人というのは、それ以上でもそれ以下でもないただの個人としてしか認識されない。他者とどれだけ交わろうとも、最終的にはただのひとりで、何かあればすぐに糾弾される。
確かに、悪巧みが前提にある忖度はいけないことだと思う。それは良くない。
でも例えば、明日訪れるかも知れない死に怯える老人に「きっと元気になるから大丈夫だよ」と声をかけるような忖度は、許されていいと思うのだ。
それともそんな状況でも「死ぬ用意をしろ」と冷たく言うことを時代は求めるだろうか。
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ドラゴンボール内の有名な名言のひとつに、「クリリンのことかー!」というものがある。主人公である孫悟空が超サイヤ人になるきっかけのシーンで放たれるセリフである。
戦闘民族であるサイヤ人が超サイヤ人という、もう一段階上のステージにいくためには、純粋な怒りの感情が必要になる。
悟空は、ずっと苦楽を共にしてきたクリリンという仲間をフリーザというべらぼうに強い敵に殺されてしまう。そしてその存在を軽んじるような発言に生まれて初めて純粋な怒りを覚えたのだ。
そして仲間のことを思って覚醒した悟空は、圧倒的な力を持って見事フリーザをついに打ち負かすのである。(ちなみにその後クリリンはドラゴンボールによって復活する。笑)
仲間や家族、そして世界のことを「おしはかった」のだ。
そんな風に、ドラゴンボールという作品からは悪と戦う強さや優しさを学ぶことが出来る。
だからといって読まないなんて馬鹿かと言うつもりはないけれど、読んで貰って、あれこれ話をしたいのだ。後半のヤムチャの扱いひどいよね、とか、ランチさんはどこいったん?なんていう話を、キャッキャ言いながら。
そういう好意が前提にある気持ちを、少しくらい忖度してくれてもいいではないか。
なんていうことを、あの一件から考えました。
こんな駄文をいつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます…! ご支援していただいた貴重なお金は、音源制作などの制作活動に必要な機材の購入費に充てたり、様々な知識を深めるためのものに使用させて頂きたいと考えています、よ!