まじめなうんこ

最近…というか今朝、ふと思ったのだけど、Twitterのタイムラインを見ていて「何言ってるか分からない」と思うことが増えたように思う。
じっくりと読み込めば理解出来ることもあるけど、Twitterってもっとラフに読めるのが魅力だと思うから、小説読むときみたいな集中力を持って接したくないってのがあるからなのかなぁ、とか。
それに加えて、国語の下手な人が増えた気もする(自分も人のことは言えないけど)。
声で会話する分にはなにも不自然に思わないが、文章にした途端、まるで何言ってるか分からないものを綴ってしまう。
かといって、別に日本人の国語力の低下を憂いたり批判したいわけでもない。それは専門家に任せるとする。ただ、「分からないものが増えた」。

朝の連続テレビ小説を観るのを止めた。
すると、ものすごく楽になった自分がいた。もうそのことについて考えなくていいということで、とても開放的な気分になった。演者さんには申し訳ないけど、どうしても観続ける事が出来なくなったのだ。
同様に、昨晩に放送されていた歌番組で、ある女性歌手になった途端テレビを消した。一昨日放送されていたバラエティ番組にある芸能人が出た瞬間にチャンネルを変えた。

『嫌なら見るな』
という言葉がある。嫌なら見なきゃ、触れなきゃいいじゃん。俺らはこっちでやっとくからさ、あっち行ってよ。というものだ。でもこの言葉は危険で、「嫌なら見るな」といえば何してもいいのか、という議論になってくる。この議論には終わりがない。もう、この議論こそ「嫌なら見るな」である。

が、一度「でも」とか「だけど」を忘れて、思考を停止して、「嫌だから見ない」を実行してみたところ、なんとも楽になった。ああこれが「排他的思考」なのかと身をもって実感したところだ。

自分に必要な(と思える)ものだけを選んでいく生活は、とても楽であると思う。気に食わなかったら離れればいい。そうして作り上げる、自分が好きなものだけの世界で生きていけたらどんなに素敵だろう。
かといって、それは駄目だと、積極的に嫌いなものとか苦手なものに触れようとするのも体力が足りない。やってられない。

膨大にあるコンテンツや言葉、思想の数々から、何を選んで何を捨てるかがものすごく意味を持つ時代になるような気がする。
音楽のジャンルがとても広く細分化されてしまったように、人間にも細かいジャンルが出来てしまうかもしれない。◯◯派の人間の言うことだから聞かなくてよろし、と△△派の人が言うような。

そんな近未来SFみたいな世界になっても大切なのは、膨大で巨大な波みたいな情報から自分を守り、育てることなのではないかと思う。
そしてそのためには、「何言ってるか分からない」言葉を綴っていては駄目だよなぁと自戒する。
いざというときに自分が何者で、どうしてそう思うのかというのを感情論でなく説明出来るように、日々を重ねたい。

とはいえ、綴る言葉にあまりにも重さを与えられても困るから、うんこうんこーと言っておきます。うんこうんこー。

こんな駄文をいつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます…! ご支援していただいた貴重なお金は、音源制作などの制作活動に必要な機材の購入費に充てたり、様々な知識を深めるためのものに使用させて頂きたいと考えています、よ!