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幼児の頃の記憶

今度は、幼児の頃の記憶を、思い出しながら書いていこうと思う。
前記事:乳幼児の知覚とか言語力とかの話
かぶる内容もあるのは御愛嬌。

幼児の頃は、完全に左利きだった。
というか、正面に座っていた母の手を鏡写しに真似ていたので、自動的に左利きになっていた……のだと思う。
しかしある日、朝食の際に「手、逆じゃん!!!1!!」と自分で気付いて、左手に持っていた食器を右手に持ち替えた。
母はその様子を見て「そのまま(左手)でいい」と慌てたように言っていたが、正しい方(右手)で持つべきだと幼児ながらに思って、頑として言うことを聞かなかった。
最初から覚え直しなので、右手での食事は苦労した。

おたふく風邪は、激痛の記憶。
両顎が、特に口を開ける時にとてつもない痛みに襲われたので、口を開けることすらままならなかった。
なので、口を開けることを拒否し、食べることを拒否し、母を散々困らせた記憶がある。

当時の注射は、注射器本体(ガラス製)も注射針も完全に使いまわしだった。
診察室には加圧殺菌器が常備されており、使い終わった道具を片っ端から殺菌していた。
医師によっては、殺菌をせずに使いまわしている人もいたようだが、自分の場合は幸運にも、毎回殺菌する医師が予防接種担当だった。
ツベルクリン反応は、使い捨ての注射だった。

水疱瘡は、後年になって痘痕(あばた)が出てくるので、ワクチンは打った方が良い。
自分の場合しっかり水疱瘡に罹ってしかも掻いてしまったので、年を取ってから徐々に痘痕が浮き上がってきて、皮膚の表面に小さく居座っている。
「水ぶくれは潰すな、搔くな」と口酸っぱく言われていたものの、子供なのでどうしても反射的に掻いてしまっていた。
おそらくは、その時の傷痕が浮き出てきているのだろうと思う。

自力で歩けるようになった頃、おしゃぶりを取り上げられてしまった。
確か「歩けるようになったのに、おしゃぶりは恥ずかしい」くらいの話だったように思う。
おしゃぶりは、しゃぶると言うより、噛み千切る勢いで噛んでいることが多かった。
よく「歯が生えてくるから云々」と言われているけれども、何か噛んでいないと落ち着かなかった。
もしかしたら、歯が浮くような感覚があって、それが気持ち悪かったのかも知れない。

歩けるようになった頃、母の実家で叔母さんたちにおもちゃにされた記憶。
わざわざ女の子の服を縫って、それを着せられた。
自分は男だと言って、部屋の中をバタバタと歩き回った。
可愛いと言われるのは、不本意であった。
しかし、病院に行っても看護婦さんに「かわいい!女の子?」とか言われて、癇癪を起こして走り回ったことがあった。
その割に、本人は可愛いものが好きだったりぬいぐるみが好きだったり、女の子っぽいものが好きだった。
初めて買ってもらった自転車は、女の子向けのものだった。

英語の教材をあてがわれたが、脳が日本語を覚えてしまっていたので、英文は意味不明だった。
そもそも、ひらがなもカタカナも満足に読めないのに、英語なんて無理な話だった。
カードで単語はいくらか覚えたが、テープ教材やテキストの内容はほぼ英文だったし、現在のように丁寧な対訳も書かれていなかったので文章は全く理解できなかった。

乳離れを強要されていたが、濃厚でこってりした母乳の味が忘れられずに、似たものを探し回った記憶。
妹用の粉ミルクの缶を開けて舐めたこともあったが、妙に淡白な味わいだったし、速攻で親に見つかって届かないところに置かれてしまった。
スキムミルクも舐めてみたが、これも淡白な味わいだった。速攻で親に見つかって以下略。
親にスキムミルクが好きなのかと思われて、お湯で溶いて渡されたが、香りはともかく味は淡白過ぎて、一口飲んで「薄い」と言って拒絶した。

多分4~6歳くらいの頃。
外は暗かった。
家族団らんの食事が終わったあとだったと思う。
一人がけのソファの左手すりに、妹が登っていた。
左手には、確か赤い箸を持っていた。右手は覚えていない。
自分は、ソファの左側にいて、その様子を見上げていた。
妹は突如自ら体を前方に投げ出し、上体から床に落下した。
親が慌てて抱き上げると、頬に箸が一本突き刺さっていた。
両親は大慌てで、妹を病院に連れて行った。
帰宅した時には、頬に絆創膏が貼られていた。
その時の傷は、少なくとも成人するまでは残っていた。


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