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乳幼児の知覚とか言語力とかの話

すっかり大人の自分がこんな記事を書くのは、変に見えるかも知れない。
しかし、この記事を書く理由が自分にはある。
それは、0歳の頃の記憶が断片的に残っているからだ。
その断片的な記憶を元に考察して、書き連ねていこうと思う。

乳飲み子の頃は、ピントが合う範囲は30cmくらいだったように思う。
母に抱っこされ、母の左肩付近に自分の頭があった時に、反対の右肩付近から先がボヤケて見えていた。

おっぱいを欲する時、その理由は2つあった。
一つは、食欲を満たすため。
今思うと母乳は、甘さを少し控えたような練乳のような、そのような味に感じた。だけどサラッとしてコクがあって甘くて濃厚、甘さの大部分は糖分によるものではない感じ。味覚について書いている以前の記事も参照されたい。
もう一つは、安心したいため。
乳首を口に含んで、乳房に手を当てていると安心した。
しかし、飲まないと判断されたらすぐに引き剥がされた。
「あー、あー」と言いながら手を伸ばすが、飲まない乳は与えられることはない。無情。

皮膚感覚については、はっきりしていなかったと思う。
全ての感覚が、ダイレクトではなくて徐々に浸透してくるような、末梢神経が皮膚の表面まで伸びていないような感じ。
そして、脳に伝えられる感覚には上限があって、一定以上の刺激を受けないようになっていたように思う。

歩けるようになった頃にも、外部からの痛みには鈍感だった。
頭を強打すると、脳内に何かが「じわっ」と広がって気持ち良いと覚えてしまった。体のどこかを強打しても、痛みはあまり感じなかった。
玄関の二畳くらいの小さなホールで、ピョンピョン跳ねながらクルクル回って目を回しては、壁や柱に頭を強打して「じわっ」という感覚を楽しんでいた。誰かに見られていたら、全力で止められていたと思う。

一歳くらいの頃だったと思うが、母に頭を洗ってもらう時に、母はヤカンの熱湯を俺のふくらはぎにこぼしてしまったことがある。
母の叫び声と、それにビックリした自分、慌てふためく母。
その瞬間には熱さは感じていなかったと思うが、その時の火傷の痕はケロイドとなり、三〇代くらいまで残っていた。

産まれて間もない赤ん坊には、当然ながら言語力は存在しない。
せいぜい「あー」とか「うー」とか、その時に発声可能な音の強弱や長さなどで欲求を表すくらいしか出来ない。
言語を習得しておらず、発声と概念が結び付けられていないため、赤ん坊の脳内は純粋な欲求が渦巻いているだけである。少なくとも、自分はそうだった。
ベビーベッドに寝せられていた時、天井から下げられていたメリーに付けられていた花びらに触ってみたいという欲求が強く、届かない手をひたすらに天井に向けて伸ばしていた。
あえて言語化すると、触ると気持ちよさそうに見えたから、手触りを確認したい、ということだったと思う。興味の発露。

余談ではあるが、引きつけを起こしたことがある。
引きつけを起こした瞬間は覚えてないが、父母が慌てて自分を車に乗せて、病院に車で連れられていったのは覚えている。
母に抱っこされ、真っ暗な車のリアシートで膝枕されながら車に揺られて病院に。その間、ずっと意識がないと思われていたが、ずっと意識はあった。
病院で体の自由が戻り、念の為一晩お泊りということになって、母が混乱して泣いていたのが印象的だった。
いつもケチな母が「なにか欲しいものある?」と聞いてきたので、この時とばかりに普段禁止されていたオロナミンCを所望して、丸一本飲み干した。
初めての入院ということでワクワクしていたし、人気のない病室の窓辺のベッドに嬉々として横になった。親の気持ちなんて知る由もない。
硬いベッドと枕だったが、毛布をかけられてぐっすりと寝て、次の朝には父の車で帰宅した。

歩行器を使っていた頃。
歩行器は木製で、ドーナツ状の木枠が二階建てになっていて、それが棒で接続されていて、バネで吊られた布製の座面あり、キャスターがついていた。赤色で、柄が付けられていた。上段には、小さなテーブルと複数のビーズを通した棒が取り付けられていた。
これが楽しくて、床を蹴って喜んで部屋の中を暴走していた。
立てるようになってくると体も大きくなり、徐々に体を入れられなくなり、しかし自分の体が大きくなるということが分からずに、むしろ歩行器の方が小さくなっている感覚だった。



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