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「神聖ローマ帝国の死亡証明書」の創作者/ヨハンネス・ハラー『ドイツ史概観 ドイツ史の諸時期』

最後にして最大の宗教戦争・三十年戦争を終結させたウェストファリア条約。神聖ローマ帝国を有名無実化したとされるこの条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書(死亡診断書)」と言われている。その言葉の出もとこそ戦前に出されたこの本である(たぶん)。教科書で知られるこの言葉は、著者:ヨハンネス・ハラーのナショナリズムからくる、辛辣な歴史意識に基づいた慨嘆だった――(文・二重川統光)

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1648年、ウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)が締結され、ドイツを中心に戦われた“最後にして最大の宗教戦争”こと三十年戦争が終結した。この条約は、ドイツ神聖ローマ帝国の諸侯の主権を認めて、帝国を有名無実化したとされる。この「有名無実化」に関する、二つの有名な言い回しがある。

・神聖ローマ帝国は「神聖でもなければローマ的でもなく、ましてや帝国ですらない」
 ・ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡証明書(死亡診断書)」である。

  前者が18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールによる評価であることは有名だが、後者が20世紀の歴史家ヨハンネス・ハラーが(おそらく)初めて使った言葉であることは、あまり知られていないのではないか。森井裕一編『ドイツの歴史を知るための50章』(明石書店、2016年)144頁に「ウェストファリア条約に「帝国の死亡証明書」の有名な二つ名を与えたのも、1923年に出版された歴史概説書であるという」とあるが、その「歴史概説書」こそが、1943年に邦訳が出版された本書であろうと推定できる。

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  訳者はしがきによると、原書の初版は1923年、『ドイツ史の諸時期』のタイトルで出版された。ドイツ人で中世史の研究者である著者ハラーは、第一次世界大戦の勃発に「熾烈な現代的政治的関心」を掻き立てられて、近世や現代をも研究対象にするに至った。世界大戦の敗北と内憂外患に喘ぐ苦難の時期、かかる困難にドイツ国民が立ち向かうには、「民族の自己認識」が必要であり、それは「唯歴史を通じてのみ与へられることができる」。その信念から、ハラーはドイツの通史を世に問うたのである。邦訳は1939年の新訂増補版の全訳にあたる。本書はドイツ史の起点をカロリング朝の支配下から離れてコンラート1世が国王に推戴された911年に置き、同時代史であるチェコスロヴァキア併合まで叙述する。

  本書の執筆意図から分かる通り、著者は祖国を愛するナショナリストであり、本書はナショナリズムに基づくドイツ史の通史であると言ってもよい。では、ドイツの歴史の素晴らしさを歌い上げているのかと言えば、そんなことはない。特に彼は、自身の専門であった中世を、ドイツの分裂を決定づけ、ドイツ国民の民族性を矮小化させた、嘆くべき時代であったと評価する。13世紀にシュタウフェン朝が断絶して以降は皇帝=ドイツ王は弱体化し、諸侯は自らの領国である領邦の経営に専念するようになる。彼らは自分の家の拡大に熱心ではあれドイツの運命には関心を持たず、選挙で王となった者も諸侯と同じく自分の家の拡大に余念がない。この時代に、現代にも残るドイツ各地域への愛着の観念や歴史的な建築物も現れるが、それはドイツの割拠的分裂の裏面なのであった。

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昭和18年に刊行されたため、見返しにはこんなものが…

  中世に着々と分裂が進んだドイツには、16世紀に起こった宗教改革によって宗教的分裂が加えられ、宗教的対立に端を発した三十年戦争によって「死亡証明書」の破局に至る。ハラーは祖国が決定的分裂に向かう歴史を嘆くこと切であるが、意外にも、三十年戦争のさなかにドイツの運命を好転し得た二人の英雄を見出す。「世界史B」の教科書でもおなじみの人物だ。  一人は、戦争の前半をカトリックの皇帝優位に導いた傭兵隊長ヴァレンシュタインである。戦勝に乗じた圧倒的な軍事力を誇る彼は「皇帝は諸侯の主人、ドイツの独裁者となり、皇帝選挙は廃止され、帝冠に対する世襲権が導入されねばならない」という「天外の奇想」(286頁)を持ったという。つまり、ドイツを皇帝の世襲帝国となし、強力な皇帝権の下にドイツの分裂を克服しようとしたというのだ。しかし、皇帝フェルディナント2世はドイツのカトリック信仰復興を優先し、ヴァレンシュタインを遠ざけ、後に暗殺する。

  もう一人は、スウェーデン王グスタフ・アドルフ。戦争中盤、ドイツのプロテスタント擁護を名目にドイツに侵攻し快進撃を続け、ヴァレンシュタインとの戦いに勝利しながらも戦死した悲運の名将である。ハラーは彼の死を「ドイツにとって不幸」(291頁)と断言する。「侵略者」であるはずのスウェーデン王の戦死がなぜドイツの不幸なのか。ハラーの言い分はこうだ。グスタフ・アドルフが勝ち続けてドイツの支配者を兼ね、「ドイツ=スェーデン二重王国」が成立しても、その政治的重点は「より大きく、また精神的にもすぐれてゐた」ドイツに置かれ、その支配はドイツにとって好都合なものとなるであろう、と。

  一方で、ドイツの君侯には厳しい評価が下される。ヴァレンシュタインの構想を無視した皇帝は「視界が狭く想像力に欠けた」(287頁)人物で、彼を輩出したハプスブルク家は、「この一家はドイツ民族に対して災厄、然も常に最大の災厄以外の何物も齎さなかった」(283頁)。フェルディナント2世に屈従して有効な処置を取らなかったザクセンとブランデンブルクの選帝侯は「どちらが一層馬鹿か決定しがたいほどの憫れむべき愚物であった」(279頁)。敵国への憎悪は叙述には現れず、むしろドイツに利益をもたらさなかった自国の君主たちが非難の的になる。この傾向は本書の全体について言えることであり、そこに同胞に「民族の自己認識」を与えるために歴史を書くという著者の信念が見て取れよう。(なお、本書は全体を通じて、賞賛される人物よりも批判される人物の方が多い)

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  結局、フランスとスウェーデンの優勢の下、三十年戦争は終わり、ウェストファリア条約が結ばれる。 「皇帝の専制的傾向はすべて打破された。諸身分の自由は明瞭に認められ、その外交政策に於ける自主性さへも、同盟締結権の承認によつて、名実共に確認された。それは領邦主権の完成である。帝国直参の諸身分は至上ではないにしても、独立の国家であった。帝国は、かくてもなほ一つの国家であらうか? それは単なる国家連盟ではなからうか?(中略)ヴェストファーレンの平和はドイツ帝国の死亡證書である」(295頁)。

  かくて国家として有名無実化した帝国は1806年まで存続し、分裂したドイツの政治的統一の実現は1871年まで待たねばならない。かかる歴史へのドイツ・ナショナリストの慨嘆が、死亡證書=死亡証明書発言の前提となっている。 条約によって神聖ローマ帝国が有名無実化したという見方は、近年の研究では見直されている。条約後も帝国は「法と秩序の共同体」として機能していたことが注目され、条約後も帝国は「死んでいなかった」ことが強調される。

  が、「死亡証明書」という言葉は、「ウェストファリア条約によって主権国家体制が確立した」という(これまた見直しが進んだ)説明とともに、世界史の資料集に頻繁に取り上げられ、高校の歴史教育の現場で広く再生産されている。今後、「歴史総合」なる科目が導入されることにより、歴史教育は近現代史を重視(前近代史を軽視)し、かつグローバル・ヒストリー的な視野を大切にする(「各国史」の枠組みや詳述は却けられる)ものとなるであろう。

 かくすれば、「ドイツ」が絡む歴史への関心は帝国主義時代以降に集中し、「ドイツ史」の「諸時期」は、グローバルな観点からも、現代的な関心からも、どうでもよい上に旧態依然たる一国史観として軽視せられるであろう。 一方で、「主権国家体制を確立した」ウェストファリア条約は重要事項として教育現場で教えられ続けるであろう。

 その際に、自身は「世界史B」で教育を受けた先生の口から、ハラーが『ドイツ史の諸時期』で使った言い回しが再生産されることは容易に想像できる。しかも、第一次大戦敗戦後に同胞の奮起を願った愛国主義的な歴史家の問題意識がそれを生んだということは忘れ去られたままで、である。かかる「グローバル・ヒストリー」と「一国史観」との奇妙な握手は、皮肉というほかあるまい。



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