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「不敬」になりかけた「尊王の聖典」/文部省『神皇正統記』

南北朝時代の公家によって書かれた歴史書『神皇正統記』。「大日本は神国なり」ではじまり「尊王の聖典」として名高い。しかし戦前、この古典を口語訳したところ、なんと訳者の東大教授が「不敬罪」で告発されかける事態に発展した。なぜ「尊王の聖典」は不敬と呼ばれたのか?。(文・二重川統光)

本書は文部省社会教育局による「日本思想叢書」の第十編として昭和9年(1934年)に刊行された。「日本思想叢書」は第一次世界大戦後の思想の紊乱に鑑み、「国民精神を作興して皇国の丕基を鞏うする」ために、日本古典から「特に愛誦すべき十二編」を選んで出版したものである。調べた限り、第十一篇、第十二篇は出版されていないようであるため、本書は結果的にこのシリーズの掉尾を飾るものとなる。『神皇正統記』(以下、『正統記』)は南北朝時代に後醍醐天皇・後村上天皇に仕えた公卿・北畠親房が書いた歴史書で、この文部省版には口語訳と解説が付されている。一見、何の変哲もない古典の出版物だが、実はこの本、不敬事件に発展しかけた、曰く付きの一冊である。

何故に国民の思想善導のために選ばれた古典が「不敬」なのかと言えば、『正統記』にはしばしば天皇を批判する箇所があるからだ。それが「不敬」であるとして攻撃され、口語訳・解説を行った東京帝大助教授・平泉澄が危うく告発されかけたのである。おそらく、文部省の出版物であることと、平泉が天皇に批判的なところも端折ることなく、親切な形で全訳した(ため、誰でも読めるようになってしまった)ことが仇となったのであろう。平泉は中学時代に『正統記』を読んで、感激のあまり巻頭に「嗚呼忠なるかな北畠、嗚呼孝なるかな親房」と賛辞を書き込み、国史学者の道に進んでからは同書の日本史上の重要性を特筆してきた人物である。彼は、自らにも『正統記』にも非があるとは思わず、「私も親房公と同罪になれば、名誉だと思ひます」と戦う姿勢を見せる。結局、この告発運動は、右翼の大物で枢密院副議長を務めていた平沼騏一郎の一喝により中止になったという。

平泉は解説で、もともと『正統記』が後村上天皇の君徳涵養のために書かれたものであることに注意を促し、過去の天皇への批判は後村上に徳を磨いてもらう目的での言及であって他意はないことを強調する。

「そのままでは必ずしも臣民の読み物として適切ではないが、しかも一面臣道を説く事極めて剴切であり、もしその君徳涵養の為の著書である事をさへ承知の上で読めば、全編悉く日本人の道を説くものとして、我等の指針となるものである」

平泉も親房も、徳のない天皇にはドシドシ背くべきだ、などと言っているわけではないのだが、「不敬」で告発しようとした人々には届いていなかったらしい。

一方で、平泉は口語訳を通じて、違う意味で「臣民の読み物として適切ではない」『正統記』を、「日本人」の指針として提示している。身分制社会の所産である『正統記』は、天皇への忠義を説くにしても、その対象は公家や武家などの支配階級(「臣」)に対してである。「民」はあくまでも統治の客体に過ぎない。「臣」と「民」は別であり、『正統記』は「民」の読み物ではあり得ない。だが、平泉は口語訳で「臣民」という言葉を頻繁に用いたり(「人臣」を「臣民」と訳すなど)、「我国の道」を「日本人の道」と訳したりと、中世の臣・民の別を敢えて抜きにして、親房が説く「臣」の道徳を「臣民」即ち「日本人」全体のものとして打ち出しているのである。

さらに、平泉は口語訳のところどころで「國體」(国体)という言葉も用いている。この言葉は、天皇を戴く日本の国柄やそのあるべき姿を指す言葉で、近代日本では大きな意味を持ち、時には濫用された言葉だ。少なくとも現代の訳者なら、まず使わないはずの言葉である。そもそも『正統記』自体が、日本とはいかなる国であるか、「神国」たる日本の「神道」はいかなるものか、君臣はいかにあるべきかに多大な関心を払っている書物である。敢えて戦前と同じ言い方をすることが許されるのであれば、『正統記』は中世日本の「國體論」でもあった。平泉は、口語訳という営みを通じて、中世身分制国家における「國體論」を、近代国民国家を支える「臣民」のための「國體論」として世に問うたのである。

平泉は持ち前の美文で口語訳を行い、かつ逐語訳をしただけでは意味が通じにくいところは言葉を補って訳している。さらに、戦後に出た現代語訳では慎重を期して原文のままの言葉(「正統」「国の本主」など)をそのまま用いて解釈を打ち出さない場合があるようなところも、踏み込んで解釈を提示していたりもする。彼の訳は「親切」ではある一方、言葉を補いすぎていて「読み」の可能性を限定したり、前述の通り言葉選びが極めて特徴的であったりと、読む上で注意が必要なことは否めない。それは問題点ではある。が、その「問題点」は、「口語訳」という営みが一つの思想たりえたことの表れでもあろう。思想史上の古典への解釈は、それが読まれた時代の精神も表す鏡でもある。古典に口語訳と解説を付しただけの「何の変哲もない」本書は、不敬事件になりかけていなくとも、思想史上に足跡を残す著作であると言えよう。

【参考】
文部省『日本思想叢書』シリーズ
第1編 聖徳太子十七条憲法(辻善之助校訂解説)
第2編 古語拾遺(斎部広成著 加藤玄智校訂解説)
第3編 新編(会沢正志斎著 宇野哲人校訂解説)
第4編 祝詞宣命(山田孝雄校訂解説)
第5編 古事記(次田潤校訂解説)
第6編 万葉集(久松潜一校訂解説)
第7編 弘道館記逑義(藤田東湖著 深作安元校訂解説)
第8編 中朝事実(山鹿素行著 深安作文校訂解説)
第9編 日本書紀精粋(黒板勝美校訂解説)
第10編 神皇正統記(北畠親房著 平泉澄校訂解説)

【参考文献】
平泉澄『悲劇縦走』皇学館大学出版部、1980年(不敬事件関連や平泉の逸話は同書に拠る。これもまた絶版本である)
北畠親房『神皇正統記』(松村武夫訳)教育社新書、1980年、
永原慶二責任編集『慈円・北畠親房』(『正統記』は永原訳)中央公論社、1983年
今谷明『現代語訳 神皇正統記』新人物文庫、2015年(戦後に出た『正統記』の現代語訳で筆者の手元にあるもの。今谷訳は電子版がある)

二重川統光(futaegawa-munemitsu) 彰往テレスコープ同人。『vol.02』では書評「『やがて君になる』における「好き」と固有名」を執筆
https://twitter.com/frantuyozehu

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