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【本居宣長の空想地図】 その3 系図編

この記事は前回の続きです。前回の記事はこちら

 ではここからは、前回紹介した研究をベースに、あるいはたまには無視して、小津栄貞の手による端原世界を詳しく探ってみましょう。私たちの目的は小津栄貞と本居宣長という存在について語ることではありません。あくまでも端原の街とそれをとりまく謎の国家について、「絵図」と「系図」二つの資料から分析することが目的です。そのため、ここからは小津栄貞の影を弱め、どんな不可解なことがあっても「栄貞、そこまで考えてないと思うよ」を禁句にします。


「端原氏物語系図」は、次のような構成になっています。



構成 [復元]

御系図」のはじめには(恐らくは端原氏のものと思われる)花菱紋・九曜紋と、端原氏の治世を言祝ぐ「御代萬萬歳」という文字が大きく書かれています。おそらくこの「系図」は宣政が王権を手にした後の「正元年」に、宣政の王朝内で作られたもの(という設定)なのでしょう。

 この「系図」を小津栄貞が何をモデルに書いたのかはよくわかりませんが、実在の古い系図集(『尊卑分脈』など)で重要人物を表している「∴」マークがしっかり書き込まれているため、よほど何らかの系図を観察して作ったのだと思います。


 最初に現れるのは国中の侍たちの由来を説く「大系図」で、「国中百流の祖」である「大道先穂主」からはじまります。この大道先穂主は正元年から数えて1200年前に卒去したと書かれています。大道先穂主の嫡流はその後、道房三年までの国の君主・勝山氏となります。


大系図

 代を追ってみていくと、初めの方に〇〇主〇〇彦、「清先」、「真先部」といった神話・古代風の名前があり、その間に「影丸」や「幸丸」などの時代不明の名前が挟まれています。さらに下ると「房風知保麻呂諸麻呂」などの古代風の名前があり、やがて「高原〈大膳大夫〉峰政」あたりから律令風の役職名をもちはじめます。端原氏を興したのは峰政の孫・政季です。このあたりから端原氏は「政」の字を継承する一族となっています。


 この系図をみても誰がいつごろの人物なのかさっぱりわからないんですが、先にも紹介した岡本勝さんの仮説では、端原氏のモデルを藤原氏であると仮定して、大道先穂主が藤原氏遠祖の天兒屋根命にあたるのではないかとしています。ということは23代目鎌足が、(大道先穂主から)25代目高原峰政とか27代目端原氏家祖・政季にあたり、34代目政秋あたりが道長の頃ということになります。こんな比較してもなんにもならないんでやめますけど。


 さて、御系図以降の部分は先にも言ったとおり、各氏族の基本データと宣政誕生後の50年間の各氏族の系譜が書かれています。氏族の中にはたまに「文学の家也」とか書いてあるのもいたり、子供に恵まれので弟を養子にして存続した家があったりなかなか面白いんですが、いちいち紹介してられないので自分で見てください。(『松阪市史 七巻文学編』に載ってるよ)


 一見妄想をただ羅列しただけに見えるこの「系図」ですが、見事に整合性がとれています。例えば「勝井知規」の項目にはその妻が「春川秀俊」の娘であると書いてありますが、「春川秀俊」の項目には、ちゃんと親雅八年生まれで「勝井左京大夫知規室」の娘がいるのです。とんでもない凝り様ですね。


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