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【創作大賞2024・お仕事小説部門参加作】生か死か(完結)・・・死

あらすじ

医療は、この地を支えている。施療の時代を乗り越えた医療であるが、此処、四駄郡では未だ施療を続ける医師がいる。積田つみだ医師はその一人だ。彼は異色の業種変更で医師になった。西町診療所を受け持つ彼に試練とも言えるパンデミックが襲う。彼が取る行動は医師を超える患者奉仕となった。


第7部続き・・・


横臥している坂柵は何となく自分がこの場に居ない方がいいのではないかと思っている。
治験者に自分で名乗り出たのだが、積田と紗希の事を考えれば、何も知らない第三者の方が良かったのではないかと。
二人が急速に近付いている事は坂柵も当たり前に悟っている。
そんな思いからか、出来るだけ目を閉じていようと考えた。
3人ともカプセルが体内に落ち、融けていく様子をじっと見守っている。
血栓の動物治験は対象不足で非常に難しい。
今回、奇跡的にラットの試験に辿り着いたが、それは奇跡に近い事だ。
またそれは、高山佐美恵のおかげでもある。
彼女が、全国土の研究室に片っ端から治験に合う動物を探してくれた。
何の人脈のない積田に手を差し伸べる仏さまの様な佐美恵に返せるとすればカプセルワクチンの完成しかない。

「焦らず大事にいこう。」

慎重な仕事が求められる状況下、積田、紗希の二人は坂柵の思いも受け止めている。
副作用を恐れず使えるAPW+CWXワクチンの完成に向けて。
臨床試験は順調に進んでいる。
坂柵の血栓は日を追うごとに縮小していく。
紗希にはカプセルワクチンの成功にしか思えないでいる。
然し、積田の表情は硬い。

「何かあるのかな。」

納得顔の紗希に積田の思いは伝わらない。
聞けば済む事のように思えるが、その場の状況から考えて聞ける雰囲気にはない。
積田は「おかしい、坂柵の血栓は縮小傾向なのに血圧が上がっている。何故だ。」坂柵の血圧測定は積田自身が行っている。
そのせいで紗希に分かるのはモニターに映る血栓だけなのだ。
坂柵は横になっているのに心拍数が高い。

「紗希、脳CTのモニター画面を映してくれ。」

紗希は「分かりました。」と言うより早く端末を慣れない手つきで操作する。
まだ、端末の操作は素人同然だ。
モニター画面に映し出された画像は脳に張り出す毛細血管を映し出している。
積田は逡巡しながら見つめていると一本の血管の形状が気になった。
薄っすらと一部がらっきょのように膨らんでいる。
脳CTスキャナーでしか分からない画像だ。
紗希もその画面に釘付けになった。
二人共が「血栓が新たに。」とインクティブルブロウを受けた。
坂柵も二人の気配に異変を感じた。
そして、「もう一つが出来たか。」と二人に問いかけながら自身もその結果を確信していたようだ。

「分かっていたのか。」

積田は医師である坂柵が自らの体について何も知らないわけは無いと思っている。
頷く坂柵に、「カプセルの効果がどこまで行くのかが問題だな。」と積田は言った。
坂柵は、腹を括ったように静かに目を閉じた。
全て二人に委ねるという意思表示だ。

「積田先生、ずっと引っかかっていた事はこれだったんですね。」

意気消沈した顔で紗希が呟く。
積田は静かに頷いた。
もう一つの血栓がまたも脳内に。
次に待つのはどんな困難なのか、そして今ある血栓をカプセルワクチンは退治する事が出来るのか。
三人は治験終了までそれを待つしか方法を見つけられなかった。
経過観察を続ける事で積田、紗希は気休め程度にも逃げ場を作っている。
当の本人坂柵も同じ気持ちだ。

全国土は、副作用による死者がウイルスで無くなる人の様になるかもしれなかった。
四駄郡も例外ではない。
頭痛を訴え高山南病院に入院していた白尾譲人が脳梗塞で亡くなった。
副作用によるナノウイルス第2波である。
世間はAPW+CWXワクチンを酷評し始めた。
医師がワクチンを作った事をメディアは非難する。
四駄研にも報道陣が多数詰め掛け三人はこの場所から離れる事が出来なくなった。
積田は他の二人に非が及んだ事を後悔した。

「私の為に迷惑をかけている坂柵、紗希に只申し訳ない。」

感情は地に落ちるほどだ。
眉間にしわを寄せる積田を紗希は、この状況で有ってはならないほどの笑顔で、「全国土の殆んどがワクチンに縋りました。先生は、先を見越してこのカプセルワクチンを作っています。其れが出来るのは先生の情熱しかないと思います。後悔は明るい未来を作りません。」

坂柵も、苦しそうに、「積田先生しか、人間一人の事を考え、病気を治す医者は居ない。」と擁護した。
積田は、二人に背翼を付けられたように再び明るい大空へ飛び立つような力を貰った。
だからといって積田はこの状況を変えるような良策は皆無だ。
幾ら端末をこなれようが矢張り人間の事は人しか分からないそう思える。
コンピューターが人を支配する世界そんなものがほんとに来る筈がない。
正直にそう思った。
積田は人間に出来る事の追及をするうち、佐美恵の顔が浮かんだ。

「人間に出来る事にはチームワークもある。高山南病院にも蓄積データはある。もう一度、全国土で現状突破をするべきだ。自分の事などどうでもいい。」

積田は佐美恵の権威を頂戴し、医師会議の招集を図ることにした。
四駄研の端末モニターから発信される積田の説明は殆んどの医師が同じ事例と対応方法だ。積田と同じように国を挙げてワクチンカプセル精製を行う国土もある。
症例も酷似している。
誰もが声を失う中、佐美恵が口を開いた。

「突拍子が無いと思われるかもしれませんが、APWに対する抗APWと言うものはどうでしょうが。」積田を始め全ての医師が驚きの表情をモニターに映した。佐美恵は妥協せずに続ける。

「今回の副作用による連続した血栓は元々APWにあった副作用です。其れが欠陥で接種中止にもなってる。ナノウイルスが終息したと同時にその欠陥事項が現れたと私は思います。強すぎるワクチンを押さえるそういう操作が必要なのでは。」

その理論は全く異論の無いものとなった。
接種ワクチンの欠陥を消す事が副作用の解決方法であることは誰しもが思う事だ。
然し、積田たちが積みあげたものは意味の無いものだったのか。
APWは特効薬とはならなかったのか。
医師らはその功績を称えるものが多い。
それでも血栓の原因がそこにあれば打ち消さなくてはならない。
佐美恵の見解は総意として認められた。
欠陥ワクチンの始末は付けなくてはならない。

全国土で開発されている抗ナノウイルスワクチンは初期のAPWを使わずとも成り立つような段階に来ていた。

「紗希、APWワクチンの用意を頼む。」

積田は容赦なく自分が開発した特効薬を抹殺に向かう。

「不思議な事になったな。」

横になっている坂柵の口が少し笑う。

「APW+CWXワクチン開発した時に誰もが積田先生を神の様に崇めた。其れが、今、悪の権化だと。命が救われると宝物だが、命が奪われることになればそれはごみのように嫌われる。薬品精製は研究者にとっては劇物でも名誉なことだ。その為にたくさんの研究員が命を掛けている。全ての命が同等ならば誰も攻めるものはいないはずだ。」

坂柵が再び目を閉じると、積田が言った。

「人間と言う認識が無ければ我々はこの世には存在していない。だから人と人は命と言うものに左右される。名も無き者には成りたくないのさ。」

紗希が、俯き静かにAPWを作業テーブルに置く。
積田のリズミカルな指先が端末のキーボードを叩く。
測ったように同じ動きでロボットアームは機械音を立てながらAPWの終末へと向かう。
紗希と、積田、坂柵は血栓の観察を続けながら一方で新たな精製を行う。
その日、坂柵の血栓は消えては出来消えては出来を繰り返した。
明らかにワクチンが原因と思われた。
その傍らで端末AIがAPWを打ち消す為のデータ構築を進める。
三人はAIに身をゆだね睡眠をとることにした。
その日から一週間同じ状態が続いて、積田に諦めの表情が出て来た日、紗希がCT画像に違和感を覚えた。

「この血栓が消えていく周りに膨らみのある個所が無いみたいだわ。」

坂柵の血圧を測っていた積田も「血圧が完全に安定してきた。」と二人は顔を見合せながら、坂柵の表情観察を行う。
顔色も息使いも健全な体と思える。
坂柵が、気分が良さそうな顔で「重い感じが少し前から殆んど無い。脳はどうなってますか。」積田は脳スキャン画像をストイックな目で身じろぎせずに眺める。

「んん、もしかするともしかするかもしれない。」

カプセルワクチンは副作用を伴いながら完治に向かって進んでいるのかもしれないと積田は思った。
然し、リスクとして自分の作ったカプセルワクチンは又悲劇を生む可能性があったと猛省した。
ワクチン開発をAIで経験なしでやろうとした自分が只の馬鹿に思えた。
研究者の血のにじむような経験により人を救う薬剤が出来ている事が積田にとっては神の力に思えてならない。

「積田先生、まだバスターする者が残っていますよ。」

坂柵がかつて言った「ウイルスバスター。」という言葉を積田も紗希も思い出した。

「ここで止まる事は出来ない。」

三人の意思が一つに再び繋がった。

APW抹殺計画は元研究者の坂柵の復帰により力強いものとなった。
坂柵が二人に提案をした。

「私はAPWが悪いワクチンとは思っていません。確かに血栓発生と言うリスクを抱えています。然し、四駄、いえそれだけでは無く山林で暮らす人々には必要な製剤だと考えます。そこで、APW完成を私達で出来ないかと思うのですが。」

二人も異論は勿論ないが、その結果が今の現状ではどうしようもないと考えた。
紗希が、「全国土の人達の体内にあるAPWは悪い作用を起こしているのですから、新たにAPWの完成を目指すよりはまず対峙してからのほうが。」と言うと、積田は「私も紗希の考えに同意だが、坂柵先生のおっしゃる事は私としては理想です。」と返し、坂柵は「積田先生、全国土に情報発信したんです。研究者は全国土に居ます。勿論、この国土にも。任せてしまってもいいのでは。」と積田は責任から自分自身で解決しようとしている事を坂柵は言っているようだ。
紗希も積田に一任することで積田に負担を掛けているような気がして、二人とも、目から鱗のように憑いているものが落ちた。  
坂柵の陽気な掛け声が掛る。

「さあ、四駄研復活の日。」

坂柵の体調回復を待ち、APW完全体精製が始まった。

「坂柵先生、製造工程は前回と同じでよろしいですか。」

積田は、再び坂柵のサポーターとして作業に当たる。

「いえ、今回は欠点の克服を第一工程にします。」

坂柵が答えると、紗希が、「抗血栓薬の使用ですね。」坂柵は頷き、二人に抗血小板薬と抗凝固薬、血栓溶解薬の準備を頼んだ。
抗血栓薬としては現在ではrtーPAの使用に頼る以外にない。
抗血小板薬としてプラスグレルの使用を決めた。
坂柵の後ろで紗希が困った顔で何やら言いたそうにしているのを積田が気が付き「どうした、紗希、」と問う。

「実は媒体が全て死んで。」

坂柵、積田の両名はあんぐりと口が閉じなかった。
それでも、坂柵が、「昔の研究所に頼んでみよう。」と望みをつなぐ。
三人とも自分たちの甘さにあきれ返っている。
携帯でかつての研究所に電話を入れた坂柵の口から希望の光が放たれた。

「明日、こちらに運んでくれるそうだ。」

ラットたちが来るまで三人とも医師業務へ戻ることにした。

次の日、坂柵宛てに研究所からの輸送車がマウス、ラット、豚を届けにやってきた。

「届いたか、」

坂柵の表情は満足とはほどおい浮かない表情だ。
紗希が意味が分からず問いかける。

「坂柵先生、何か問題でもあるのですか。」

積田の脳裏に一つの論文が浮かんだ。
動物ラットの適正についての論文だ。
血栓に関して言えば、殆んどが人間の対象になりにくい。
人間との接種方法の違いが正確な治験としては欠落しているのだ。
どの研究所も媒体についてはごく少数しかない。
その為、送られた動物媒体も決して満足のいく対象ではないのだ。
それでもこれらの動物媒体が無い事には製剤作業は出来ない。
妥協するしかないのである。
坂柵は紗希や積田に、「居ないよりはいい。いざとなれば直接人間で治験するさ。俺が媒体になる。血栓ができやすい事が分かったからな。」と気丈にふるまう。
積田は、坂柵が命がけでこの研究を成し遂げようとしている事に心を痛めた。

「また、自分のせいで坂柵が犠牲になろうとしている。」

紗希も心配というより悲しみを憂いた瞳でいる。
今度は積田が坂柵に「まあ、そう気張らず。」肩をポンと叩いた。

研究は夜を徹して行われる。
三人の体力は計り知れない絆で結ばれ留まる事が無い。
積田は端末の入力スピードが研究所に居る間にさらに早くなり、紗希の動作はアームロボットを凌ぐ無駄のないスピードで動き、坂柵は、器具のマジシャンの様に操る。
そして、APWワクチンを体内から消し去る薬品の精製が終わった。
研究期間、3週間。これから動物実験へと移行する。
其れを終えれば体を休める事が出来る。
積田が「紗希、ラットたちの方頼む。」紗希は、頷きと行動が同時だ。
この研究作業で一番疲れるのは紗希だ。
動く行動範囲が他の二人の三倍はある。
紗希は学生の時からずっと帰宅部である。
どこをどうしてその動作が出来るのか若いというだけではその行動力は現せない。
積田も坂柵も自分らの男の誇りが崩れていくように思えた。
紗希は、早速籠付きの手押しの台車で動物たちを運ぶ。
積田は、端末のデータ構築、坂柵は器具の下準備を行う。
それぞれがそれぞれの役目を果たそうと必死に働く。
人の命を助ける仕事は様々ある。
警察、病院、レスキュウ、自衛隊。その中で命と直結した地味すぎるほど地味な仕事、それが研究の仕事だ。
一つ間違えば人の命を落としかねないこの仕事にかける三人のストイックな働きぶりは尋常ではない。

紗希がまずマウスをやさしい指先で籠から検査台の透明ケースに入れる。
そして出来あがったばかりの抗APW剤をマウスの口へと流し込む。
母親から餌を与えられるようにマウスの表情は軟らかい。
きっと、紗希はマウスの母親代わりとして口を本人に開けさせているようだ。

「このマウスは血栓が3個か。」

積田が端末のモニター画面に映し出された脳画像を見て言う。
既にこれらの媒体にはAPW+CWXワクチンを投与してある。
データで解析された人間の三分の一ほどの抗APW剤を投与した。
次は小豚への投与。
三人が一番データ取得の価値があると踏んでいる媒体だ。
坂柵から薬液を受け取った紗希は小豚のお尻の部分に針で挿入する。
暴れると厄介な対象である為、女性では少しやりにくいかもしれないと積田は思っていたが難なくこなす紗希の針さばきに医師二人も敬服しごくである。
二番に価値の高いラットも接種が終わり、後は経過観察に入る。

「これからは一人ずつ交代で観察しデータに挙げる。私から始めるから次は坂柵先生、そして紗希の順番でお願いする。」

積田は坂柵の体調も気になっているが動きの一番多かった紗希を最後に据えた。
それぞれ異論は無かった。
紗希も坂柵を休ませたかったが、彼の性格上其れは叶わぬ事だと理解している。

積田一人となった研究室で脳スキャン画像をじっと眺める。
いくつかの血栓が膨らみを無くしていく。
風船を膨らます時に吹いている息を止め吸ってみる、丁度そんな光景が浮かんだ。

「生き物とは何だろう。」

積田は脳裏に降りてくる思考を巡らす。
命を持つという奇跡の中で死と言う自然がある。
病気は外的要因から受ける体内の必然。
生まれる事は奇跡と呼べるのだろうか。
朝まで脳は活性化し眠りを忘れているようだ。
次の朝交代寸前にマウスは死亡した。
ワクチンが血栓に負けたのだ。

「もう一度データ検証だな。」

坂柵に観察を交代した積田は、診療所で仕事をし、その夜、マウスの血液データを洗いなおす。
一つ分かった事があった。
臨床マウスの血管壁が破れていたのだ。

「このワクチンは予防にしか使えそうにないな。」

物足りない気持ちが積田には辛かった。
坂柵がいい話を持ってきた。
ラットの血栓が著しく少なくなりほぼ完全な状態になったと伝えた。
さらに紗希が、豚に関して臓器の改善まで見られると報告した。
少なくとも研究は無駄には終わらなかった事がせめてもの救いだ。


三人は、2週間後集合し、人間による臨床試験に移る事にした。
治験者は、四駄の人間ではなく、坂柵が連れてきた。
研究者時代の知人だと紹介された。
勿論、血栓の為、安静が必要な状態である。
研究者らしく積田や紗希にも積極的に協力をするとのことだ。
カプセルワクチンを開発しているところは、四駄研だけではないという事が治験者の話から分かった。
然し、中の成分は全く違うという事だ。
積田は今回、マウスの事例の反省から、血管壁に効く血管強化薬をさらに加える事を坂柵、紗希両名に伝えた。
三人が集まる前に既に完成させている。
積田は治験データ書類の作成の為、名前と年齢を聞くことにした。
すると驚く事に坂柵の知人だとした人物は坂柵高一。
坂柵は済まなそうに「従弟だ。」と苦笑いをしながら答えた。
自分の親の兄の子だと伝えた。
積田と紗希は驚きを隠せなかった。

「坂柵先生はびっくりさせるばかりで。」

紗希は、心臓に悪いという言葉を飲み込んだ。
笑う状況ではないからだ。
従弟の坂柵は血栓を抱える患者である。
真摯に向き合わなければならない。

「さあ、始めよう。」

三人同時に持ち場へ向かう。
積田は端末へ、紗希は、治験者のベッド、坂柵は、血圧計を持った。
問題は、投与の量だ。
一カプセルの製剤料が、どのくらい効果の上がるものか、検討はついていない。
まあ、それを調べるのが臨床試験ではある。
治験者は大人37歳、身長172センチ、体重63キロ、血栓による虚血性心疾患がある。

「まずは、一カプセルを投与。」

積田の指示を紗希が受けカプセルを坂柵高一に渡すとそれを口に入れ浄水で飲み込む。
モニターに透視された動画が移り、溶け具合などを鮮明に映し出した。

「溶け終わるまで2分というところか。」

カプセルは想定通りの活躍をする。

「これから三十分が抗体と抗体のバトルの時間だ。」

坂柵医師が楽しそうに説明する。
沙希は治験者の表情の変化を凝視している。
その顔に苦いものでも嚙んだかのような眉間にしわを寄せ深い層になる時があることに沙希は気付いた。

「先生、媒体が時々苦しそうにしています。」

二人の医師は、それぞれ端末と診察を始める。

「相当な抵抗にあっていますね。」

坂柵が言うと積田は、「無理もない、ワクチンを除去するのは接種よりも苦しいのでしょう。」積田は申し訳なさそうに言った。

そののち、治験者の坂柵高一は眠りに落ちた。
経過観察は継続して行われた。

「一刻の油断も許さない状況です。交代で休憩を取りましょう。」

坂柵医師が言明すると二人はその指示を受け、積田、沙希、坂柵の順で交代することにした。
休憩は30分。緊急事態になれば集合だ、が、その兆候もなく高一は深い眠りへと入っていた。

「眠気を伴うようですね。」

沙希が、坂柵に投げかけると「どうしても人間は眠ることで体内を復旧するからね。」従弟の寝顔は思い出せないほど昔に見た記憶がある。
その時、端末が生命危機のアラームを響かせた。
隣の部屋で休憩していた積田も駆けつけ、何事かとキーボード操作を行うと、血栓による血流つまりが発生している。
高一の表情は蒼白に変わり始めている。
坂柵がすぐに血栓溶解薬を投与し、安定するか観察する。

「脈がしっかりしてきた。」

安堵した表情で坂柵は強くつぶやいた。
ほかの二人も胸をなでおろす。
血栓の恐ろしさを改めて思い知った。

「今回は何とか助かったが油断できないな。」

自分の作ったワクチンでこんなに恐ろしいことが起こっていると思うと積田はやりきれなかった。
何よりも自分に被害が及ばないのはさらに辛く堪えた。
表情から積田が追い詰めていることを悟った坂柵は「まあ、そう深刻にならず、自分の仕事に専念しよう。」当たり前に言っている坂柵のその言葉は心の奥底にまで響いた。
自分の身内が危機に面しても、他人を思いやれる人間性にただ脱帽するしかなかった。
治験はさらに進みカプセル2錠目に入る。
1錠では、血液検査から、APWは完全には消えていなかったのだ。
沙希は、仰向けの状態の高一を側臥位にし、カプセルを飲ませる。
今度は少し飲みにくそうだ。

「そのまま、しばらく安静に目を閉じてください。」

危機的状況を脱したとはいえ、高一はかなり衰弱している。
沙希は慎重にも慎重に事を進める。
積田は、沙希のマジックは動物だけじゃないと感心した。
手鳴らすという表現は悪いが、沙希にかかればどんなものも素直になるだろうと思った。
高一の状態は時間がたつほどに安定へと向かった。

「危なかったな。」

坂柵がぼそりと呟いた。
本心が言葉を発したのだ。
積田も紗希も露ほどにも心配な顔を見せていなかった坂柵の表情に少し安堵した。

「一番心配していたのは坂柵だ。」

積田は下を向き坂柵の気持ちを読まない事にした。

「然し、こんなことではワクチンには不相応だ。」

自分の失態に端末のキーボードのエンターキーを思いっきり中指で叩いた。何がそうさせるのか積田の思考は限界を超え続けている。

「確か。」

積田は一つの論文を思い出した。

「アプロスレート。」

積田の言葉に坂柵が、「アプロスレートソディウム、ナトリウムか。」と二人は顔を見合わせ小さく頷き合う。

「私もその論文読みました。」と紗希は明るい声で息を合わせる。
一般的に血液凝固阻止剤としてはへパリンナトリウムが使われるが、最近、アプロスレートソディウムが注目されてきている。

「でも。」と又静まり、「ここには其れは無いですね。」残念な声を響かせる。
坂柵が「私の知り合いに聞いてみます。」いさんでスマホを滑らせる。
話の先は坂柵の医大の先輩で都市部にある国立病院の理事長だと分かった。普段から丁寧な言葉使いの坂柵だが非常に恐縮した受け答えで通話を終えた。
二人の方に向き直ると親指と人差し指でまるを作った。

「おっけい。」

ひょうきんさを併せ持つ坂柵には仁徳を感じる。
どこかの病院に居てもトップになる器だ。
積田は冗談一つ言えない自分の人望の無さに「俺は経営者には向いていなかった。」とはっきり悟った。
2日掛ってアプロスレートソディウムが届き、製剤を再開した。

「積田先生、ナトリウムをどのくらいの量で配合する予定ですか。」

紗希の言葉に積田は、考えていなかった表情で、「端末に聞いてみます。」と怒りにまかせ強く叩いた指先は打って変わって、滑らかにしなやかな指でキーを操作する。

「へパリン単位で12000という事は、アプロスレート単位で5000お願いする。」

アプロスレートソディウムはまだ研究段階。
確証は無かった。
量を調整しなければアナフィラキシーショックが出る事を想定した。

「分かりました。」

紗希に迷いは無い。
絶対的な信用、それだけが過去の大義を成し遂げた命の綱である。
ナトリウムを点滴注射法で接種する。
つまり水分と電解質を送る事で血液をサラサラにするのだ。
其れにより、注意しなければならないのは血管が出血している場合だ。
血管カテーテルカメラではその兆候は無い。

「三人で経過観察しよう、痙攣の兆候を逃さないように。」

坂柵が、一瞬でも見逃せないと強調するように強い言葉で言った。
積田は端末から離れた。
今はモニターやデータよりも現実をしっかり確認する事に徹する。
紗希は、腕の脈拍の確認をひと時も欠かさず見守る。
時間が立つに連れ、アプロスレートソディウムは地権者の顔色を真肌色に移し替えていく。
24時間が経過したのを確認し、積田が、「そろそろ、休憩を入れましょう。交代制で。」と慎重に発言する。
其れにこたえるように、坂柵が、「一番に休むよ。」と他の二人には、積田や紗希に気を使わせまいとする坂柵のやさしさが手にとって分かる。
坂柵は、たぶん、目を閉じることもできないだろうと二人は思った。
積田は当然とばかり紗希を2番に勧めるが、「端末で目を酷使している人が先に休憩してください。疲れて見落とされても困りますから。」と積田は足元をすくわれた。
社会では、そんなことは当然と思われるが、今の現実社会で休憩を人の後にする人はほんの一握りである。
大概の人間は自分かわいさなのだ。
映画やテレビドラマの様な人間はいない。
些細なことではあるが、仕事の疲れは心をも奪ってしまう。
自分が気付かず不条理に人を叱ってしまう。
商品を売りたい、その為には手段を選ばない人間になってしまう。
物を作る、人の疲れに気付かず長時間の労働を強いる。
然し、医療は違う。
相手は自分と同じ人、しかも命。
人の疲れや痛みは自分のものとして考える事が出来る。
積田は、ITから医療の道に転職した自分を少なからず褒めている。

「少し目を閉じよう。」

坂柵と交代に休憩している積田は浅い眠りに就いた。
抗体が三順したころ治験者の血栓が全て消えた。

「経過は順調。」

坂柵お得意の冗談めいた言葉で、三人は笑顔を取り戻した。
そして、抗APWカプセル「athens02」が完成した。
全国土で精製されたモノの内4錠目のワクチンとなった。
この国土では「athens02」が推奨された。




「終わったな。」

積田がぼそっと呟くと坂柵、紗希の右腕が目の前にあった。
互いに握手を求めている。
積田と坂柵がまず最初に交わし坂柵と紗希へと移る。
次に積田が紗希に右手を伸ばしたが何故か届かない。
目をこらしたが紗希の姿が無い。
目が泳ぎながら紗希の姿を探すと、足元にうつ伏せに倒れている紗希がいた。

「紗希、どうした。」

引き起こすと紗希の目は白眼に変わりつつある。

「意識をしっかり持つんだ。」

坂柵が脈をとりながら、「脈拍微弱。」積み田は紗希の白衣をはがし、胸の衣服を強引に引き裂き左胸の心音を押しつけるように聞く。

「駄目だ。心肺停止。」

キーボードを打つ指よりも早く、心臓マッサージを始める。

「逝くな逝くな、俺の顔を見るんだ。」

胸骨が折れる寸前まで押し、肺から出る限りの空気を口移しに紗希へ送る。然し、積田の力は尽きた。坂柵も頭を振る。
紗希の胸元に組んだ腕眉間は心臓マッサージをし続けた為血管が浮き出している。
それでも諦める事を拒む積田は、、端末により四駄ネットワークの緊急システムで救急車を動かす。

「紗希、紗希。」

他の理屈が脳内に無いかのように名前を繰り返す。
諦めきれず坂柵がダッシュで運んできたAEDを取り出し、3度ショックを掛けた。
既に血流の制御が不能なのは積田にも分かった。

「何故、俺には、命を守る事ができないのか。人間を蘇らせる薬を何故精製できなかったのか。役に立たない愚かな男だ。」

積田にはこうして自虐するしかできなかった。
救急車が到着したが、隊員は死を確認するだけだった。
今の積田には人生の終末に訪れた絶望しか残っていない。

「いったい、俺は何のためにワクチンや薬を作ったのだろう。自分にっとって一番かけがえのない大切な人一人、救えなかった。医師だと自分は言えるのだろうか。」

涙は土石流の様に容赦なく目玉や鼻、口を押し流す。
支流の鼻水が垂れても拭く意思が無い。
全ての水が研究所を覆いつくすように。
何も要らない。
何も欲しくない。
何もしたくない。
只こうして紗希を手の中に抱いていたい。
人間は何故死と言う世界に行かなければならないのか。
生のままで何故いけないのか。
医師は何故人を死から救えないのか。
たった一人の命を。
生とは幸せに過ごすこと、死とはその幸せから遠のくこと。
紗希と同じ幸せな世界で一生過ごせないのはなぜなのか。
死が自分に分かる事があるのだろうか。
其れが分からなければ紗希とは暮らせない。
不老不死、それは人間の本当の幸せなのではないだろうか。
何世紀経てばそれは訪れるのか。

「生、死がある世界。死、生には戻れない世界。」

しかしそれも全て生きているものの認識でしかない。
少しでも今、紗希の近くに居れたら幸せなのに。



紗希の死因は稀に起こる突然死だった。
要因は様々だが、ウイルスのように派手な死ではなく、社会の片隅で、命を失うことが実際に起こりうるのである。


                                 完

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