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短歌、最高!

また電話しろよと言って受話器置く君に今すぐ電話をしたい

俵万智『サラダ記念日』河出文庫、1989年

また電話しろよというのはいつですか?
明日ですか?ていうか電話しろよじゃなくて次はそっちからかけてもらっていいですか?でもそんなこと言えないよ!!言わせないでよ!!
となる、この女の子に変わって言いたくなっちゃう短歌です。

短歌を、俵万智さんの短歌を読もうと思ったのは、数年前の11月に函館に行った時だった。寒くて、いつだか国語の授業で習って、なぜかそのまま覚えていた「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」というのがスッと頭に流れてきた。
初めてこの短歌を読んだとき、
それな〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!
と思った。浅すぎる感想だがそう思った。これまでの短歌のイメージ、堅苦しくて、なんかカッコつけて字数が足りないくせに足らせようとしている感、というのかなんというか。すみません!となった。

冒頭に引用した短歌もまた同じで、ああああかわいいなぁ〜〜〜と思った。情景が浮かびませんか?これを思っている女の子がどこにいてどんな顔をしてどれくらいの時間そこに突っ立って(座り込んで、かもしれないが)次の電話のことを考えつつ今の会話を振り返っているのか。
なんかちょっと覗いちゃってるみたいでごめんね、となるくらい見える、かつ重なる。いつかの自分と。
『サラダ記念日』に書かれた短歌はどれも身近な気がして可愛くて、わかるし守ってあげたいし、というごちゃごちゃな感情になる。

最近また、俵万智さんの本を新しく買って読んだ。
『俵万智訳 みだれ髪』というもの。そもそも『みだれ髪』は与謝野晶子によって1901年に発表されたもので、恋愛感情を赤裸々に綴ったことが当時は物議を醸したらしい。
確かに今ちらっと読んでみても、きゃ!恥ずかしい!となるものが色々あるのだが、それがいい。そういうものって好きでしょ、実は。
こらこらこら〜けしからん〜〜と規制しようとする人は、自分のあらぬ性癖がバレるのが怖いんや、と最近思う。
だって、読んでみて下さいよ。

さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらば如何ならむ

簡単に訳すと、会いたくなっちゃったから百二十里(およそ471キロ)の道もきたよって人がいればなぁ…というようなそういうようなものと思っております。(私は古典が大の苦手だったので間違っていたら教えて下さい。)
そうよねそうよね、会いに行こうか?とか聞かないで会いたいなら来てよ!!あなたが会いたいと思う時、たぶん私も会いたいから!!こんなこと言われたらドッキドキしますね!!
これを、俵万智さんは以下のように訳しております。


「逢いたくて500キロひたすら来たんだ」と
                  そんなあなたがいたなら、いたなら

おお〜〜!読める!となりませんか?そして少し身近に感じますね。元々のものだとスラスラとは読めないところが多いし(私の場合)、百二十里とは?どんなもんよ?と実感が湧かない。でも500キロと言われれば、その彼がどれだけ必死になって私のことを想っていたのか、とか、「ひたすら」と入っているから一心不乱に来たんだなとかそういうのが手にとるようにわかる。
「そんなあなたがいたなら、いたなら」…ね…いたならねぇ…いないんよねぇ…!!!

あ〜、私にも短歌を書く文才があればなぁ。
嬉しいことがあった時、それをほほいと短歌にして、声に出したりして、そしたらすごく、もっと、嬉しいだろうなぁ。

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