夢の中で逢いましょう

行きつけの書店があった。

その書店は古い建物の所為か、いつもひんやりしていて薄暗い。エスカレーターの側面はガラス張りになっていて採光がたっぷり取れるのに、本が並んでいるところまでは角度が悪いのか、その光が届かないからである。

フロアごとの売り場は決して広くはなかった。その癖、迷路みたいな作りで行くたびに迷った。しかも、改装好きな店主の所為でちょくちょく売り場が変えられてしまうのだ。二階にあったはずのコミック売り場が、移動の告知もなく地下一階に移っていたり、最上階の隅っこに追いやられていたりするのだから、勘弁して欲しい。そして次に行く時にはあっさり戻っているので、迷惑な話である。そもそも店内のフロア案内なんてものもなく、考えてみれば数十年近く通っていたのにこの書店が何階建てだったのか、私は知らない。しみじみと外から眺めたことがないからだ。

そんな不親切極まりない書店だったが、そこに行くたびに私は主に漫画を読みふけった。立ち読み防止のシュリンクがかけてないので、読み放題なのである。その所為か、棚は整理されておらずいつも乱雑だったが、私にとっては夢の棚だった。その乱雑な本の中に、ずっと探していた本や、子供の頃に買えなくて泣く泣く諦めた本を時々見つけることがあったからだ。

そんなある日、私は好きな漫画家が描いた見知らぬ単行本が棚にあることに気づいた。新刊?いや、そんな話は聞いていない。復刊というわけでもない。じゃあ、これはなんだ?手に取って開くと、明らかにその漫画家の絵なのだ。ただ、見たこともないキャラで、読んだことのない話である。

うわ、まじか。なにこれ、すごい。むちゃくちゃ面白い。私は薄暗い店内で、ひとり興奮しつつ、ページを捲り続けた。帰ったら友達のところに持って行こう。絶対驚くはずだ、と心を踊らせて。

けれど、残念ながら私はその本を買うことはできなかった。いや、それ以前もそれ以後もこの書店で本を買ったことはない。レジの場所もどこにあるのか、今だに判らない。そういえば、店員の姿も見たことがないのだ。

何故なら、好きな漫画に囲まれて夢の空間にいたはずの私は、いつの間にか布団の中にいるからである。まさに夢まぼろし。そのことに気づいた瞬間、覚える落胆は凄まじい。あんなに面白かったのに。読んだことなかったのに。その感覚だけが残っていて、内容は全然覚えてない。でもあの絵のタッチは、キャラの顔は、ストーリー展開は間違いなく、好きな漫画家のものだった。まるっきり覚えてはいないのだが。

そして、次にその書店に行けた時には、私はそのことをすっかり忘れている。そしてまた見たことのない本を手に取り、読み耽る。夢だと知って、悔しくなる。それを数十年、年に何回か繰り返していた。本の内容は忘れるのに、行く書店は面白いことに間違いなく毎回同じなのだ。

その夢を、ここ数年全く見なくなってしまった。

それに気づいたのが、つい最近のことである。なるほど。夢に出てくるものが願望の顕れなら、私が書店で働くようになったことで満たされたのか、と思ったが、違う。

単純に疲れすぎて夢も見ないのだった。いや、見ていても覚えていないのだろう。その証拠に、休業期間中はよく夢を見た。書店に私がいる夢だ。けれど、あの書店ではない。勤務している書店でひたすら常備の入れ替えをしているのである。単に仕事の夢だ。これはこれで目が覚めた時に、ぐったりする。仕事は好きだが、夢の中まで仕事をするのは勘弁だ。普通に眠らせてくれ。どうせなら、またあの書店に行かせて欲しい。そしてまた夢の中だけにある、新作を読ませて欲しい。

とはいえ、夢ならば私の脳内で作り出されたものである。けれど私はあんなに面白い話は思いつかない。なのにどうして?とググったら、面白い記事を見つけた。

夢を見ているとき、私たちの脳は自発的にリアルな画像を作り、それを目で追って見ている。夢はまさに自分自身が作る究極のバーチャルリアリティーといえるわけです。

ということはだ。自分が経験したことや知識や記憶の断片をつなぎ合わせ、つじつまを合わせたのが、あの読んだことのない本ということになる。つまり、脳みそが勝手に最高で最強に面白い好きな漫画家の本を作り出したのだ。なにこの脳みそこわい。大体、売れっ子漫画家の名を語るなんて不届き脳である。

ところで、くだんの書店だが、数年前に訪れた時はドンキホーテと合併していて、書店部分はワンフロアだけになってしまっていた。立ち読みばかりしていて、経営状態が悪化してしまったのだろうか。次は買うから、とりあえずレジの場所を教えて欲しい。

頼むから閉店はしてくれるなよと願いつつ、私は動き出した街を尻目に布団へと戻る。本日はお休みなのだ。



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