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妻との最近の生活において考えていること

妻の薬が減った。
この前病院に行って、向精神薬の量が少し減ったのだ。

大きな理由はおそらく2つ。
副作用である眼球上転(自分の意志に反して眼球が上を向いてしまう)が頻繁に起こるため日常生活に支障をきたしていること。
そして、精神病症状(幻覚・幻聴・妄想など)が起こることがほぼなくなったこと。

妻の病状は改善している。

薬を減らす前は、精神病症状がほぼなくなり、「もしかしてほとんど治ったのでは?」という気分になるほどだった。

しかし、薬を減らしてから何度か精神病症状が起きた。外に出ようとする妻を止め、背中をさすり、「つらいねえ、つらいねえ」「大丈夫、大丈夫」と声をかけた。少し、昔(と言っても数ヶ月前)に戻った気分だった。

おそらく、これからは病状の改善にしたがって、断続的に薬を減らしていく。
そしてそのたびに、抑えられていた症状がまた起きる。
それを繰り返しながら徐々に病状は落ち着いていくのだと思う。

……

僕はといえば、目下問題となるのは職をどうするかということだ。
前の職場を退職してから3ヶ月半ほどたったが、次の仕事の目処はついていない。

僕がどんな職に就こうと考えるかは、時とともに変わっていった。

最初は、在宅で働いてほしいという妻の希望にしたがって、とにかく在宅で、くらいしか考えていなかった。仕事の内容は最悪なんでもいいかも、と思っていた。

しばらくすると、妻の状態に気を配ることに多くの体力を使うと考えると仕事で余計なストレスを抱えることは良くないな、と考えるようになった。つまり、仕事内容はなんでもよくない、余計なストレスの極力たまらない、僕自身が楽しんでやれる仕事が望ましい、ということだ。そうでなければ、仕事が終わって妻と過ごす時間に、妻に対して気持ちを向ける余裕がなくなってしまう。
在宅で僕が楽しめる仕事は何か、と考えるようになった。主には、オンライン家庭教師や、少し突飛だが占い師など、人とのコミュニケーションを通じて何らかの支援に関われるものはないか、と考えていた。

以上の思考は、「仕事中は妻に対して気持ちを向けるのを中断する」という前提に立ったものだ。在宅で働くことで、妻の「近くにいる」ことによって、妻の不安をやわらげ、それほど問題なく働けると感じていた。

しかし、それは、向精神薬を多く使うことで症状を抑えられていたからこその思考である。薬を減らしていく過程がどんなものか、ということを想像できていなかったがゆえの思考である。

薬を減らしたことでまた精神病症状が起こった。
おそらく、薬を減らしていくこれから何ヶ月か(あるいは何年か?)は、「精神病症状が起こるかもしれない」という不安と、実際に精神病症状が起こる日々を生活していくことになるのだと思う。

それを受けて、「仕事中は妻に対して気持ちを向けるのを中断する」のは難しいのではないかと思い始めた。
つまり、仕事中でも、つねに妻のことを頭に置いておくことが可能で、妻の調子が悪くなればすぐにその対応ができる環境である必要があるということだ。

そのような環境でできる仕事は、在宅での内職系などになるのかと思う。
今のところ、就労支援の担当者と相談して、内職の仕事を少しずつ始めてみようかと考えているところだ。

……

なぜ僕はこれほどまでに妻に対して気持ちを向けたいのか、あるいは、向けることができるのか。

もちろん、妻がそうしてほしいと希望しているのもあるし、病状によってやむなくそうしているというのもある。

でも、最も大きい理由の一つとして、考えられる理由がある。
それは、「面白いから」である。

妻との生活は面白い。
その面白さは、決して楽しく気楽なものではなく、時にはつらすぎて涙を流したり表情をなくしてしまったりするような経験を伴う面白さだが、やはり、面白いものは面白い。

「妻に」どんな感情や考えや行動が起こるのかが面白いというのもある。
妻を目の前にした「僕に」どんな感情や考えや行動が起こるのかという面白さもある。

総じて、妻と一緒にいることによる「経験が」面白いと言えると思う。

例えばこんなことがあった。
僕が仕事をしていた時期のことだ。

夜、妻の調子が悪くなった。不安が強くなった。
今日で仕事を辞めてほしい、明日から仕事に行かず一緒に過ごしてほしいと妻は言う。
夜の10時頃だが、僕は職場の上司に電話をかける。
僕は、今日で辞めさせてほしい、と上司に言う。
それまでも夜遅くに電話して休んだり、急遽早退したり遅刻したりを繰り返してきた。職場はそれになんとか対応してきた。そこでまた夜に電話で「辞めさせてほしい、明日から行かない」だ。上司としても職場全体してもいっぱいいっぱいだっただろう。
上司からは、叫びのような怒りのような言葉、冷静さを欠いた言葉が飛んでくる。数ヶ月、特にこの数日僕が何日も休んだことにより、上司としても体力・気力の限界が来ていたのだと思う。

上司の気持ちは分かる。
しかし、僕は妻を優先したい。
その葛藤が、僕に涙を流させる。
僕は泣きながら上司と話す。
どうすればいいのか分からない。
でもどうにかしようと、話す。

こういう経験が「面白い」のだ。
妻と一緒にいると、こういう経験ができる。

(念のため言っておけば、こういうつらい経験はしたくはない。経験したくはないけれど、面白いのだ。経験したあとには、経験したことを心から良かったと思う。が、もう一度経験したいかと言われれば全くしたくない。でも、こういう経験を避けようとやっきになったりはしない。こういう経験に対して自分を開いておきたいとは思う。こういう経験をせざるを得ない状況になれば素直にそれを経験しようと思う。でもそういう状況になって欲しいとは全く思わない、つらいから。……というようなかたちの欲望を僕は持っている。)

このような、ある種の「好奇心」のようなものが、僕が妻と一緒にいることの大きな理由になっていると僕は感じる。

……

もちろん、これは妻の希望ありきの話だ。
妻が僕と一緒にいたいと言うからこそ、僕は妻と一緒にいること、妻に気持ちを向けること、それが可能な職に就くこと、を選択する。

もし妻が、一人でいる時間がほしいとか、自分も外で活動したいとか、私はデイケアに行くからあなたは外で働いてきてとか、自分も仕事をするとか、そういうことを言えば、僕がいくら「好奇心」を持っていても、妻の希望を優先するだろう。

僕の「好奇心」は、妻の希望の下にあるものだ。

……

最近は、そんなことを考えている。

妻の病状がどうなっていくのかは結局のところ分からないとしか言えない。すべては想像でしかない。
たから、いま考えたことも、予測したことも、それに基づくゆるやかな計画も、変わっていく可能性が常にあるし、これまでも変わってきた。

こういう「分からなさ」「不安定さ」「変わりやすさ」を妻は僕にもたらしてくれる。
それが言い換えれば「面白さ」なのかもしれない。

というわけで、僕は妻と生きていこうと思う。

おわり

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