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僕の妻が詩人であることについて

僕の妻は詩人だと思う。
と言っても、妻が、あの、文章の連なりから成り立つ、いわゆる詩作品を書いたことはたぶんない。
書いてみたいと思ったことすらないだろう。

でも、妻は詩人だ。

『魂のみなもとへ 詩と哲学のデュオ』(谷川俊太郎、長谷川宏)の谷川俊太郎の文章からの孫引きだが、ミラン・クンデラはこう言っている。

「詩とはあらゆる断言が真実となる領域のことである。」と。

「詩」とは「領域」である。
だから、いわゆる詩作品を書いたことがなくても、その「領域」に関わる人ならば「詩人」と呼んでよいだろう。

さて、「あらゆる断言が真実となる」とはどういうことか。クンデラは続ける。

「詩人は昨日、“生は涙のように空しい” と書き、今日は、“生は笑いのように楽しい” と書くが、いずれの場合も彼が正しいのである。今日彼は、“すべては沈黙のなかに終わり没する” と言い、明日になると、“何事も終わらず、すべてが永久に響き渡る” と言うかもしれないが、その双方ともが本当なのである。詩人は何事も証明する必要はない。唯一の証明が感情の強さの中にあるのだから。」

(谷川俊太郎による引用では、このあとに「抒情の真髄とは未経験の真髄のことである。」という文が続くが、意味が分からないので省いた。)

詩人は2つの言葉をどちらも真実として書くことができる。

なぜか。
(ここからはミラン・クンデラの考えではなく僕の考えを書く)
詩人の言葉の真実性は、その言葉をはなったその「そこ」だけにあるからであり、そして、その言葉が世界の全てだからである。

どういうことか。
詩ではない言葉には一般性がある。
例えば、昨日「生は空しい」と言ったけれども、今日は「生は空しくない」と言ったとしたら、昨日言った「生は空しい」は「間違っていた」ということになる。
言ったことが「いつでもどこでも」真実である。というのが、詩ではない言葉の真実性である。「いつでもどこでも」、これが一般性である。

それに対して詩の言葉は、言った「そこ」だけに真実性が宿る。そして、「そこ」だけが詩の世界の全てなのである。その外はない。詩には昨日も明日も存在しない。だから今日言ったことが明日間違いになることもない。
「そこ」にある言葉・感情だけが世界の全てであり、それ以外には何も存在せず、それゆえにそれは真実でしかありえないのだ。


僕の妻は詩人だ。

身近な例で言えば、買い物が即決だ。
ショッピングモールで気に入った服に出会う。すぐに試着し(試着しない時もある)、よければ買う。「他の店を見たら他に「もっと」いい服があるかもしれない」とは考えない(厳密に言えば「全く」考えないわけではないようだけれど)。

飲食店でのメニュー選びも即決だ。メニューをひと通り見てその中から選ぶ、ということはしない。気に入ったメニューが目に入ったその瞬間にそれは決まる(これも厳密に言えば…略)。

妻は大学を退学した。
その時、辞めたいから、辞めた。
大学を辞めたらどうなるとかは、考えなかった。

僕らは結婚した。
その時、結婚したいから、した。
結婚したらどうなるかとかは、考えなかった。

妻は芝居をした。
したいからした。

妻は芝居をやめた。
やめたいからやめた。

また芝居をやるなら、その時、やりたくてやるだろう。

妻には外がない。
妻には妻のその時その場の「そこ」しかない。
「そこ」でだけで、妻は生きている。
だから妻の言うこともやることもすべて真実である。

この真実とはなんだろう、と思う。
普通に使われる意味での真実とは違う。


そう。
妻の真実とは、妻が生きる、ということである。
妻が生きる、ということだけが、妻の世界である。その外はない。
妻が生きるということだけが、世界の全てである。
だから、妻が生きることは、真実である。
妻が生きる、その、ひとつ、ひとつ、が、すべて、真実である。
いや、妻が生きること、それが、ひとつなのである。
全てであり、ひとつである。
それが、僕の妻が生きる、ということなのである。
そこには生の無限の強さだけがある。

そして、僕が妻と一緒にいるかぎり、僕はその世界に一緒にいることができる。妻と一緒にいることは、僕にとって、本当に感動的なことである。

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