自分という存在はどこに形成されるのか

哲学?のようなてけとーな思考のおはなし
よくお風呂とかで考え事をするのだけれども、それをよりはっきりと理解するために言語化、図式化していくnote
哲学やら物理だとか量子力学?だとかそういうのに全くと言っていいほど明るくないので、子供の妄想を覗く程度の気持ちで見ていただけたら。

保険はここらへんにして、自分の考える世界と自分という存在の関係せについて書いてみる。

※世界だとか自意識だとかいろいろなキーワードが出てくるけど、これは辞書に出てくる意味そのままとして捉えるのではなく
あくまである”概念”をとりあげてそう称しているだけなので、既存の意味ではなく、このnoteにて規定された意味で考えていただければ。


自意識、現実、自分という存在

まず大前提のおはなし。
自分たちの見ている現実が、自分の意識?のみによって形成されているもの、
つまり、現実が自分の意識のなかにのみ存在するの”ではない”とし、
現実と自意識というものが独立して存在していると捉える。
そんな現実の中で、自分のという存在は何によって規定されるのか?

世界とは

地球に人という存在が生まれた時、人々は生きるために集まりともに暮らし、多くの”コミュニティ”が生まれた。
コミュニティ達は、その地域の気候や地形などによって他のコミュニティとの”違い”を獲得する。
この違いによって、そこに住む人々の性格の傾向などにも変化がうまれ、より複雑な違いを獲得していく。
やがて、他のコミュニティの”違い”がそれぞれのコミュニティを指し示すものとなり、ひいてはその違いこそがコミュニティの本質へと変化を遂げる。
この”違い”こそが最も重要なことであり、コミュニティから抜き取られた他のコミュニティとの”違いという存在の集合体”をこのnoteでは”世界”と称する。


無数の世界、そしてエントリー

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この地球には、無数の世界が存在する。
この世界というのがよりわかりやすい形にすると
【W1】
HP 100
攻撃力 20
防御力 15

【W2】
HP 100
攻撃力 10
防御力 10
といった感じ。
ゲームのキャラクターのステータス値がキャラごとに変わるように、
コミュニティによって”違いえるもの”が”ステータス値”となり、それぞれのステータス値を持つものが”世界”になる。
この世界は地球上に無数に存在するといっていいだろう。小さな世界から大きな世界がある。
国という大きなものも世界と言えるし、学校や会社、習い事の教室でさえもそこに存在する小さな世界だ。

そして、私たちはこの世界を選び、エントリーすることで自分という存在を獲得するのではないだろうか。

エントリーとは

我々人は、おおよそ一人で良くていくことは不可能とされている。
そのため、多くの人が所属している無数の世界からいくつかを選択して、参加する必要がある。
この世界に参加することを限定し”エントリー”と呼ぶ。
はてさてそれでは、エントリーはどのようにして行うのか?
これは自意識から、その世界用の自分の欠片を送り出すことだ。

自意識とは、分裂する自分

また新たな言葉が出てきたぞ?自意識?世界用の自分の骨?
自分て書いてて息が苦しくなってきた。なんかごちゃごちゃ難しく考えすぎだの。馬鹿なので許してくだされ。

閑話休題

自意識とは、他の世界とは異なり常にエントリーしている世界。
この世界はほかの世界とは違い、現状で自分が認識している”違い”によってのみ形成させる、自分の意識の世界のこと。
ほんらいの世界では、他の世界との違いが全て内在している。
しかし自意識では、他の世界とは隔絶された、位相の違うところにあり、自分の認識している違いのみが存在する。
そのため自意識下においては、自分の認識している違い(価値観)によってのみ評価された絶対的な”自分という存在”が存在する。
ただ、自分という存在はこの自意識という世界にのみ存在するのではない。
さきほど言ったように、人は他の世界にエントリーしなければいけず、ほかの世界では、自分によってではなくその”世界によって”自分が評価される。
これによって、その世界の中での別の自分という存在が形成されていく。
そして、世界に評価されるのは、形成される前の不確かな自分。
これは自意識より分裂した自分の欠片だ。

世界へのエントリー、自分という存在の形成

世界へのエントリー

僕たちは生きていく上で、ある程度暮らしていく場所を選ぶことができる。それは国や、会社、住む場所だったり。
これはさながらゲームのように、自意識というプレイヤーは様々な世界を選択してキャラ(自分の欠片)を作り世界に送り出せる(エントリー)。
そしてそれぞれの世界で評価され、その世界の中での自分という存在が形成されていく。
時には勇者のように尊敬されたり、魔王のように憎まれたり。
キャラメイクの見せ所だ。
あの世界では尖ってやろうと、しかし実際の評価は聖母のような人だったり、自分が想定したより尖り気味だったり、煌めいてしまったり。
様々な世界にエントリーし、自分の欠片を送ってみる。しかし、その世界で形成される自分という存在は自分の望みの形にはならない。
それぞれの世界によって、全く別の形になってしまう。

本当の自分はどれなのか

ここからが最も重要で、おそらく自分の最も知りたかったこと、このnoteを書くに至った理由だ。
自分という存在は、エントリーした世界の数だけ生まれていく。
この自分たちは自分の想定した形になってくれない。
時にはひどい形になってしまって、どうしたって愛せない時もあるだろう。
ある世界での自分が、自意識下での自分が。
自分を愛せないのはとても辛い。
ただ、悲観しなくてもいい。
どれか一つの自分だけが本当の自分という存在なのではないのだ。
自分は自分によってのみ形成されず、ある世界によってのみ形成されることはない。
世界は無数にあって、エントリーした世界の数だけ自分という存在は生まれる。そしてそのどれもが本物なのだ。
いまいる世界の自分が許せなくても、どこかでの自分は星のように輝く存在かも知れない。
自意識下の自分がどれだけ醜かろうと、輝く自分が見つけられれば、その世界を知り、新たな違いを認識してやればいい。
どこかの世界の自分が見にくければ、自分が美しく形成させる世界を探せばいい。
ただ一つの自分にとらわれず、無数にある自分の形と向き合いながら生きていけたらなと思う。


PS
自意識から無数の世界にアクセスする形、世界によって評価され自分の意識以外によって形成される自分という存在
この形態ってなんか面白くね?この考え方って面白くね?って思って書き始めたのに手癖で最後ポエミーになった。
でも、この自分という存在の捉え方はゲームみたいで好きです。

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