真・初心会興亡記 第一幕 -勃興-

マグナボックス社が、世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」を発売してから50年の年月が経った。数々のゲーム機が生まれ、そして歴史の中に消えていった。
そんなゲームの歴史の中に、一つの大きな黒いシミが存在する。それは「初心会」と呼ばれる組織だ。
この組織は「ゲーム業界のヤクザ」「悪の秘密結社」「歴史の闇」etcetc……数々の異名で知られている。

非合法組織と間違えかねない(事実そう思っているゲーム愛好家も多いのではないだろうか)異名の数々だが、はたして彼らがどのようにあくどいことをしてきたのか、そして最後はどのようにして終わったのか、語ることができる人はどれほどいるだろうか。

おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。

本記事において初心会がどのように誕生し、ゲーム業界の中で急拡大し、業界の流通を支配する一大団体になり、そして最終的にどのようにして消えていったのか、その流れを解説する。


1960年代、この頃のおもちゃ流通は貧弱であった。小売店の多くは夫婦二人で営んでいるような町のおもちゃ屋。かき入れ時といえばクリスマスと年始のお年玉。年末年始に売上げの過半数が集中するという状況では、在庫過多も在庫極小も小さなおもちゃ屋には致命的だった。同時にメーカーも中小が多く、社員の給料のためにも安定した売上げが欲しかった。

その小売店とメーカーを結びつける存在が問屋だ。在庫を抱えメーカーの売上げを支え、小売店に対してスムースにおもちゃを供給する。問屋同士で物のやりくりをするときもあった。この時代、物流の根幹を担っていたのは問屋だった。

この時代の任天堂は花札屋であり、トランプメーカーであり、そして「ウルトラハンド」を中心としたおもちゃのメーカーだった。直接小売にものを卸すわけではなく、間に問屋を挟んで販売する。たくさん買ってくれた得意先の問屋には、温泉旅行に招待したりなどもした。そうしていく中で問屋同士の親睦会が自然発生する。それが「ダイヤ会」である。
1973年2月、任天堂は光線銃のヒットを機に、このダイヤ会をきちんとした全国規模の親睦会へと形作ろうとした。それが初心会である。
つまり初心会とは「任天堂と取引がある問屋の親睦団体」でしかない。家庭用ゲーム業界の中で圧倒的な力を誇ることになるなど、このときは誰も予想すらしていなかった。

ファミリーコンピュータ(以下ファミコン)登場前の任天堂と初心会の関係を表したエピソードがある。1982年、ゲーム&ウオッチが登場してから二年が経過した。任天堂がゲーム&ウオッチで大当たりし、初心会が必死にそれを買い漁っていた時期である。注文をよこす問屋に当時の任天堂社長、山内溥はこういった。

「買いなさんな。きっとケガをするよ」

ほとんどの問屋は意味がわからず、そのまま大量発注を任天堂に行った。しかしこのとき、任天堂外のメーカーがゲーム&ウオッチの成功を見て、類似品をつくることに成功していた。82年の春にはバンダイやトミーが似たような機種を発売している。市場にはゲーム&ウオッチと、その類似品の在庫が大量に溢れた。おもちゃ流通の慣習として返品は受け付けていなかった。メーカーから一度問屋に向かえば、問屋は意地でもそれを売らなければならない。このように小売店で在庫があふれて売り先がない場合は、すべて損を食らう形になっていた。このときのゲーム&ウオッチは、海外に流すことでなんとか処分した。
この状況を見抜いていた山内社長は、忠告はしたが、注文分はきちんと生産し納品した。そこから先は問屋自身の問題だからだ。メーカーと問屋の関係は友達ではない。複雑な事情が混じり込んだ企業同士の腹の探り合いがそこにあった。
しかし山内社長は黙って過剰在庫になるゲーム&ウオッチを売り捨てることができなかった。今まで付き合いをしていた初心会に対しての恩と義理があったからである。ドライな企業風土ならば決して起きるはずのないエピソードだろう。

なお、あまり事情が複雑ではないエピソードもある。PCエンジンに深く関わっていた岩崎啓眞氏は「問屋のおっちゃんから注文を取るには、酒と女と接待」という状況だったと語っている。

ゲーム&ウオッチの商品的寿命は二年だった。しかしこの二年で任天堂は大きな利益を得た。借金を全て返し終えてそれでもなお、相当な金が残った。この金を任天堂はどう使ったか? 全部ファミコンを作ることにつぎ込んだのである。
そしてファミコンを作るにあたって、任天堂は一つの目標を上げていた。それは「三年間、他社が真似できないようなものを作る」ということだった。ゲーム&ウオッチが類似品に紛れて売れなくなった事例を見て、ファミコンはそもそも類似品をつくれないような、ハードルの高い代物に仕立ててやろう、というものだ。ファミコン発売前、山内社長はマスコミのインタビューにてこう応えている。

「任天堂のライバルはどこだと思います? それは任天堂です」

おもちゃという娯楽産業で成功した任天堂がこれからのライバルである。任天堂は任天堂を超えなければならない。ファミコン開発に対する熱意は執念ともいえるものであった。

多額の金をつぎ込み出来上がったファミコンを、任天堂は初心会に対して売り込みにかかった。初心会からの反応は様々であったが、大ざっぱにいえばあまり良いものではなかった。「キーボードがないじゃないか」という問屋もいた。当時のホビーコンピュータはキーボードがついていて当たり前だった。それがない、ゲーム特化のファミコンはなかなか理解されなかった。

そんな初心会相手に山内社長は勝負に出た。仕入れ台数によって掛け率を変動させたのだ。ファミコン本体を1万台受注してくれる問屋には掛け率58%で。100台以下の問屋は75%で卸すとアナウンスした。ファミコン本体の小売価格は14800円。58%でも8584円。もしこれが在庫として残ったら大ダメージだ。問屋としたら大勝負である。75%では小売の取り分がほとんどない。85%で卸して、15%の利幅で満足してくれるような小売はまずいないだろう。この頃の小売への定番掛け率は70%だったからだ。

当時の初心会加盟問屋は70社ほどだった。かつてはもっと大勢がいたが、トランプやかるたからおもちゃに任天堂の商材が変化するにあたって、販路がかみ合わないと言って、やめていった問屋もいた。ゲーム&ウオッチは儲けたが、ファミコンは当たるかどうかわからない。様子見する問屋も多かった。
しかし初心会参加問屋の中、10社ほどがこのファミコンにかけた。初回の注文で1万台の発注を行ったのだ。そして、世に出たファミコンは大ヒット商品となった。発売初年度こそ生産トラブルもあり、45万台しか出荷できなかったが、翌年1984年には165万台と三倍になり、1985年には374万台と、当時のおもちゃ市場を一気にテレビゲームで塗りつぶす勢いだった。任天堂が発売するファミコンソフトはミリオンセラーとなって、市場を駆け巡った。
任天堂は大ヒット商品のファミコンと、そのソフトを初心会を通じてのみ流通させた。これは恩と義理があったからだ。疑問視していたファミコンに乗っかり、それでも一万台の注文をしてくれた初心会問屋には、以降のファミコンハード・ソフトの注文をすべて掛け率58%で統一した。その掛け率の低さは二次問屋が食い込める余地を生んだ。初心会は、全国各地にお抱えの二次問屋をつくり、全国へ販売網を広げていった。

ファミコンの大ブームは、任天堂に予定外の出来事をもたらした。サードパーティ(他社ハード向けにゲームを提供するゲーム会社の意味)の出現である。アーケードゲームの雄、ナムコと、PCソフトの世界で名を轟かせるハドソンが、ファミコン用にゲームを作ると言い出した。任天堂はこれを全く予想していなかった。後から慌ててサードパーティー用の契約書をつくる有様だった。
任天堂がサードパーティーの参入を想定していなかったのは、北米のアタリVCSが粗製濫造の末、急激に人気が落ちていったのを見ているからだ。アタリショックはクソゲーの山によって引き起こされたと、山内社長は信じていた。1983年夏の、ファミコン発売時にも、実際にそのような内容を講演で語っている。だからこそ自社ですべてのソフトを用意する。さらにファミコンには、解析されないようにマイナーなCPU(6502)を積んだ。しかしそれでも作ろうとするゲーム会社は現れる。任天堂は、ナムコとハドソンと話し合った。

(余談だが、そんな解析されにくいCPUを採用したはずなのに、いきなりナムコから「ギャラクシアン」を持ち込まれ、「これを発売させてほしい」と言われたとき、任天堂はてっきり情報漏洩が起きたと思って、いるはずのない犯人捜しを始めてしまった。しかしその後、ハドソンが(2023/2/9訂正)別の会社が同じようにファミコン用ゲームを持ち込み、さらにはどのように解析したかを説明されたので「出来るところには解析できてしまうのか」と任天堂が悟った、という逸話がある)

ナムコとの話し合いは紆余曲折あったが、無事完了した。ナムコは自前でファミコンソフトを作り、それを売る。ナムコはアーケードゲームを作る術を、任天堂よりも詳しく知っていた。ファミコンのROMカセットを作る工場のあてがあったのだ。1本100円のロイヤリティを任天堂に渡すことで合意した。

ハドソンが問題だった。PCソフトを作ってきた彼らに、ROMカセットを作るノウハウはなかった。しかも能力こそずば抜けたものがあったが、83年当時の売上げ規模は20億円程度しかない。人員・資金ともに自前の工場を用意する余裕はなかった。そのため任天堂が工場を融通し、委託販売という形でハドソンが任天堂に支払いをする形で収まった。
このときのハドソンの熱意は本物だった。任天堂はリスクを嫌い、委託販売費を前払いにすることをハドソンに要求したが、ハドソンにはそんな資本的余裕はなかった。銀行を駆けずり回り、融資をお願いした。それと同時に任天堂から初心会を紹介されたのち、各地の初心会問屋へ注文を取るためのデモンストレーションを行って回った(このとき全国を回ったハドソンの営業の一人が、高橋名人である)。そうして注文を取っていくのだが、初めて会う初心会問屋には決まってこう言われた。

「ファミコンは任天堂さんのものでしょう? おたくが勝手につくっていいの?」

サードパーティーという概念が初心会にはなかった。任天堂から正式な許諾を得ていること、任天堂から紹介を受けたこと、そして任天堂の工場でゲームを作ってることを説明し、次第に注文を取っていった。
ハドソンは「ナッツ&ミルク」と「ロードランナー」の2タイトルを用意したが、これら二つをあわせて30万本を任天堂に発注していた。任天堂外からでるゲームソフトに初心会はいぶかしんでいたものの、ハドソンの精力的な広告活動もあり、発売後すぐに完売した。ROMカセットであるため次ロットが完成するのは三ヶ月後、殺到する初心会からの在庫問い合わせにハドソンは嬉しい悲鳴をあげた。最終的に2タイトル併せて130万本以上出荷することになった。

こうした経緯があり、ファミコンはサードパーティーに向け門戸を開いた。同時に任天堂はこのゲーム業界が適正に伸び、かつ自社のリスクを最小化する手法を構築する必要にせまられた。ファミコンの商品的寿命は三年と見込んでいたが、どうやら「もう少し」伸びそうだ。任天堂、サードパーティー、初心会。これら3つをつなぎ合わせるスマートな流通を目指していく。そして出来上がった構造はこのようなものだった。

サードパーティーはファミコンカセットの注文を任天堂へ行う。任天堂はその注文金額の半分を前払いしてもらい、カセット納品時に残りの半額を支払って貰う。サードパーティーは初心会にそれを買い取って貰う。作る数量は初心会と任天堂とサードパーティー三社で相談して決める。作るのに三ヶ月かかるROMカセットでは、次の生産を待っていたら機会損失になる恐れもある。逆に在庫過多になれば値崩れで大損必至だ。問屋はその見極めが要求された。
この構造は三社三様にメリットがあった。任天堂はリスクなしで手数料を儲けられる。サードパーティは全額前払いなれど、初心会がいるため早期に資金回収の目処が立つ(アメリカでは返金制度があるため、実際に小売がユーザーに販売するまで気が抜けなかった)。初心会は任天堂外からの商材が増え、小売店への売り込みに使える材料が増えた。1984年のファミコンの飛躍に、ナムコとハドソンは深く関わっていた。

もちろんサードパーティーが初心会の予測以上に売れると信じ、多めに任天堂へ発注をかけて自前で在庫をかかえるということもあったし、逆に他社が競合しすぎて、とても希望する発売日では所定の量が作りきれない、という状況に陥ってしまい、希望する数量を任天堂から減らされる、ということもあった。絶対に売れるんだ、と信じたものの、結果不良在庫として抱えてしまうこともあった。その場合、大特価での二次出荷を余儀なくされる。小売店のワゴンで980円の価格をつけられたグラディウスを見たことはないだろうか。つまり、そういうことだ。
任天堂は手堅い商売をすることにした。初心会からの注文分しか自社ゲームソフトを作らない。注文が重なってきた頃を見計らってリピートをかける。広告活動を広く行っていたが、このときの任天堂には「日本全国のどこで、どれくらい、どの自社ゲームソフトが売れるのか」という予測をするノウハウが全くなかった。インタビューにて山内社長はこのようなことを話している。

「どれほどのソフトが売れるか、我々にはわかりようがない。流通のプロに任せるしかない」

餅は餅屋。流通は初心会に任せ、我々は本業である「面白いゲームソフト作り」に専念すべきだ。ざっくりいうならばこんなスタンスでいた。リスクゼロの錬金術と評するマスコミが多かったが、リスクは十分過ぎるほど負った。そもそもゲーム&ウオッチの儲けを、そっくり全部つぎ込んだのがファミコンである。コケたら任天堂は再度借金地獄に舞い戻っていたことだろう。

そしてブームを越えたファミコンフィーバーが訪れる。1984年に発売されたファミコンタイトルは20タイトルだった。これが1985年には69タイトル、86年には86タイトルになる。熱狂的に皆がこぞってファミコンを買い求めた。小売は必死にファミコンを求めた。問屋は初心会にファミコンを注文する。初心会にしか任天堂はファミコンを卸さない。ゲーム流通の最大手だった初心会はファミコンフィーバーによりさらに勢力を拡大し、その販路をますます広げていく。

急拡大するファミコン市場。任天堂はアタリショックの反省を活かし、サードパーティへ様々な制限を加えた。一年で発売できる本数を制限し、製造委託費を前払いにさせた。これは一攫千金を求めてやってくる有象無象の輩に対してはハードルとして機能したが、同時に力はあっても金がないソフトウェアに対しては障害となっていた。そこに初心会が目をつけた。2003年、岡山大学でスクウェア創業者鈴木尚氏がこのような内容を講演で語っている。

「初心会っていう問屋集団が、ある時期は全くファイナンスの役割を果たしてくれてたわけですよ。あまりに量が大きくなると「すみません、お金ないんですよぉ」って言うと手形をくれるわけです。その手形を担保に銀行からお金を借りるわけです。実質的には、ある日突然ファミコン・ブームが終焉しない限りは、返ってくるだろうという。」

初心会としては、売れる商材であるファミコンソフトはもっと欲しい。そこで、資金難に陥ったサードパーティーがいるのなら支援して、ファミコンソフトを出させれば儲けになる。もともとおもちゃをメインに取り扱い、ファミコンゲームのことなんて知らない問屋集団は、その中身を変えていかねばならなかった。どのようなソフトが売れるのか、見極めをしていかねばならないのだ。ファミコンフィーバーは一山当ててやろうというサードパーティーを呼び寄せていた。スクウェアのような実力者集団も、そうでないものたちも。そしてあまりに急激に広がったファミコン市場は二次問屋、三次問屋という中間業者をどんどんと増やしていった。

この頃、ディスクシステムというファミコンの周辺機器が発売された。ファミコンのカセット部に射し込むユニットで、クイックディスクというディスク状の媒体を射し込んでゲームを行う拡張機械だ。これはなによりROMカセットよりもコストが安く、容量も大きかった。当時ROMカセットでは不可能だったセーブが出来た(当時、続きからゲームをはじめるにはパスワードという多数の文字列をわざわざ入力する必要があった)。そのうえ遊び終わったディスクは、各小売店におかれているディスクライターで、500円で他のゲームに上書きすることができた。そのため一時は「これからは基本的にカセットではなくディスクでゲームを提供していく」と山内社長が公言したほどだった。
しかしこれが頓挫する。容量が大きい反面、ロード時間が発生した。画面の切り替えやステージ毎に相応の読み込み時間があった。そのため任天堂が得意分野としたアクションゲームとの相性が悪かった。コピー問題も発生した。そしてなにより初心会の協力が得られなかった。各地の小売店に置かれたディスクライターは任天堂直轄での担当であり、初心会は旨味がなかった。そのためディスクシステムに注力しようという気概がなかった。
ROMカセットが大容量化され、セーブ機能もつけられるようになった頃、任天堂はディスクシステムへの注力をやめた。初心会への配慮が、その根本にあった。

初心会の力は、任天堂が簡単に処理できる程度を遥かに超えていった。

続き

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