真・初心会興亡記 第二幕 -拡大する腐敗-

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1986年、「ドラゴンクエスト」が登場した。日本でRPGブームが起き始め、そしてドラクエは社会現象となっていく。1988年には「ドラゴンクエスト3」が発売されるが、本来1987年12月に発売予定だった。二ヶ月発売延期して翌年に持ち越されたわけだが、このときの小売と流通は悲鳴をあげていた。もっとも売れる年末商戦に、間違いなく売れるドラクエ3が入ってこない。何か代わりの商材はないのか。こうした事情で注目を浴びたのは、1987年12月発売の「ファイナルファンタジー」である。

初回出荷本数は40万本。弱小ソフトメーカーから見たら特大ホームランだった。初心会はスクウェアに目をつけた。そして次回作の「ファイナルファンタジー2」では70万本の出荷が実現する。ついにはナンバリング3作目「ファイナルファンタジー3」では100万本を超えた。スクウェアはトップメーカーに躍り出た。(ただしFF3は流通内での在庫が多く、価格が下落し特価扱いになった)


こうして見ると、初心会が流通組織として非常に有能に見えるかもしれない。初心会はメガドライブやPCエンジンといった、非任天堂ゲームソフトも構わず取り扱った。初心会は任天堂と付き合いのある問屋の親睦団体だが、別に任天堂の下部組織ではないし、資本関係もない。山内社長が怒ることもなかったし(山内社長のスタンスは「任天堂のライバル? どこにいるんです?」といったものだったので、なかなか表だってセガやNECのゲームを売るな、とは言えなかったのだろう)、そのあたりに躊躇はなかった。拡大するゲーム市場にあわせて、初心会の勢力はさらに伸びていった。任天堂から提供される商材を武器に、初心会はゲーム業界に君臨する大帝国を作り上げることに成功したのである。



こうした流れの中に、もう一つ別の流れが存在した。初心会が全ての問屋ではない。非初心会問屋も多くいたし、新しく生まれ続けていた。セガの商材をメインに扱う問屋ムーミンがそうであるし、「初心会に入っていないものの、ゲームで稼いでいる問屋」は初心会の二次問屋、三次問屋でうずくまっていた。彼らは初心会入りを希望したが、任天堂に即ぶぶ漬けを出されて終わった。


しかしこの時代、任天堂外からファミコンソフトが大量にでていて、かつPCエンジン、メガドライブといった非任天堂機が順調に立ち上がっていた。彼らから直接買い込むことは、不可能ではなかった。サードパーティーやNEC、セガらは自前で展示会を行い、小売や問屋を呼び込んだ。新作ソフトを披露し、その出来映えを見せつけ、注文を獲得しようとしたのである。非初心会問屋は飛びつき、直接メーカーから買い取るようになった。


ただ、各社が自前で展示会を行い、そのたびに問屋がそこに向かって集まる、というものは非効率だった。そこで1988年から各社が共同して一カ所で大きな展示会を行うようになる。サードパーティーは協力して「コンシューマ・ソフトウエア・グループ(CSG)」を設立し、展示会の名前を「CSGショウ」とした。この展示会は年に三回ほど行われ、規模はまちまちだった。入場料は無料で、内装も素っ気ないものであったという。非常に牧歌的な展示会だった。しかしこれが、対初心会組織として生まれた小さな火であった。


そんな状況を横目に、初心会も同じように展示会を行う。1989年11月、任天堂の指導により「ファミリーコンピュータ・ゲームボーイ展示会」が開催された。参加企業は53社、目玉は「ドラゴンクエスト4」だった。しかしこの展示会には裏の事情があった。過剰な在庫が、次第にファミコン市場に暗い影を落とし始めたのである。ソフトウェアメーカーから見たら多くを買ってくれる有能な初心会流通であったが、その内実は恐ろしいほど大量の在庫を抱えており、それがいつ不良在庫となって市場を崩壊させてもおかしくなかった。どれが売れるソフトなのか、結局のところ未だに見極めができていなかったのだ。

なんてことはない。ファミコンゲームのことなんて何も知らない問屋集団は、ファミコンバブルの勢いに任せ手当たり次第にあちらこちらから買い込んでいるだけだった。


ファミコンは、任天堂が厳しくサードパーティーを管理し、出せるソフトの数を制限した。しかし、サードパーティー自体が増えすぎたため、意味がなかった。そして初心会は増える商材を喜んで扱う。が、もくろみが外れ売れ残った場合は「抱き合わせ」で小売に流すようになっていた。人気ソフトを仕入れたい場合は、この売れ残りソフト3本を一緒に買いなさい、という指示を二次問屋や小売店に通達した。「1対3」「1対4」という言葉が生まれた。場合によっては「1対8」なんていうのも存在したらしい。

こうした抱き合わせで買わされたソフトは、末端においても抱き合わせで販売された。ドラゴンクエスト3を買ったらファミリージョッキーもついてきた、という思い出がある方は多いのではないだろうか。さらには捨て値のワゴンソフトとして処理されることもある。市場に溢れた過剰在庫は値崩れを誘発し、次第に適正価格で買おうとするプレイヤーの気概を削ごうとしていた。抱き合わせ販売など論外、誰が好き好んで欲しくもないソフトを買おうと思うのか。

つまりこの展示会は、流通業者向けのソフトの品評会であったのである。こういう場をつくってやるから頑張って「売れるソフト」と「売れないソフト」を見極めろ。任天堂は初心会と、関係する問屋に対してそう言い放っていた。

アタリショックを引き起こしてはならないという恐怖を、任天堂がいかに強く抱いていたのかを物語っている。このときの講演で山内社長は「つまらないソフトが多いため、ユーザーが満足するためにソフトの種類を少なくしてほしい」と語っている。初心会に対して「適正在庫を見極めろ。過剰に仕入れるな」といっているわけだ。


そして次年度、いよいよ市場は飽和を迎えた。1990年8月晴海にて行われた「ファミリーコンピュータ・ゲームボーイ展示会」「スーパーファミコン発表会」だが、これは前年度よりさらに盛況となった。72社が参加し、出展ゲームは212タイトル。展示面積は昨年の四倍、来場者数は7000人越え。「会場の床が抜けるかと思った」という声が聞こえるくらいの大盛況となった。

しかし、このとき注目を浴びていたのは次世代機スーパーファミコンの方だった。ファミコンでずらりと並ぶ数々のタイトルは、その1/3が「受注ゼロ」という有様だった。できる限り流通在庫を絞りたい任天堂、売れるソフトと売れないソフトの見極めをせざるを得なくなった初心会、それでもなんとかファミコンバブルのおこぼれにあやかりたい新規サードパーティー、お互いのちぐはぐになった目論みによって、ファミコン市場はついに終焉を迎えつつあった。

さて、このとき受注ゼロで終わったゲームはいったいどういう運命をたどるのだろうか? 一つはもっとも単純な道、発売中止である。もう一つの道は、それでも発売決行だが、元々が受注ゼロなのだからそう簡単に上手くはいかない。なんとか受注を獲得するため必死に広告を行う、卸値を下げる、それでも駄目だった最終手段としてバッタ屋に売る。意地でも市場に流そうとしたソフトは、問屋の抱き合わせとして有効利用された。1983年に生まれたファミコンは、当初想定されていた商品寿命の倍を生き、それでもまだ市場を動かしていた。しかしいよいよもって、限界が訪れた。任天堂はスーパーファミコンを以て、この混乱した市場を正常化させようと企んだのである。それまで初心会内で変えていた掛け率は、スーパーファミコンから完全統一した。


任天堂は市場の正常化を図るにあたって、様々なハードルを用意した。初期に提供したスーパーファミコン用の開発機は1000万円以上になる。もし10人の開発グループをつくったらその時点で1億円かかる。そこから開発陣の人件費がかかるのだから、参入メーカーは「おこぼれにあやかろう」的な気持ちでは回収できない。

その上、任天堂はゲームソフトの評価システムを完成させた。ファミコンを通信端末として使った「スーパーマリオクラブ」である。12-25才の関東近郊に住むファミコンユーザー2500人を集め、発売前のゲームソフトを二時間プレイして貰う。そのプレイした感想を各項目ごとに点数づけする。集計されたデータは小売店や問屋にオンライン情報として流し、ファミコンに接続した通信アダプターで受信する。なぜここまでするようになったのか、結局のところ初心会や問屋たちは「どんなゲームが売れるのか、さっぱりわからない」という状況から脱却できていなかったのだ。それの補助として、任天堂がこのようなシステムを構築する羽目になった。スーパーマリオクラブで低得点なゲームは、初心会や初心会外の問屋から注文が取れるわけがなかった。


このスーパーマリオクラブは売上げ予測もするようになったが、なんとこれが結構な精度で的中する。プロの問屋たちよりも、素人の予測のほうが正確という事態になってしまった。しかし次第にズレが発生し、そのズレも大きくなっていく。参加者が慣れすぎて一般層との感覚のズレが生まれたためだった。そして後年、スーパーマリオクラブは正式な任天堂の品質管理部門となり、2009年には分社化されて「マリオクラブ株式会社」となった。

そうして市場のリセットを図ろうとする任天堂だが、スマートには行かなかった。初心会はスーパーファミコンの発売を期に、最後の仕上げとばかりに抱き合わせで、不良在庫になっていたファミコンソフトを売りさばいたのである。そして新たにスタートを切るスーパーファミコン市場で、初心会はいよいよもって、その権力を振り回しはじめたのであった。

スーパーファミコンが発売されたが、1990年11月に発売されたそれに対して、年内発売ソフトはわずか9本だった。抱き合わせするものがすぐに枯渇した初心会は精力的に不良在庫のファミコンソフトを抱き合わせにして本体を売りさばいた。その上本体の掛け率は98%に到達していた(ただしこれは任天堂の掛け率がそもそも悪かった事情もある。スーパーファミコンはファミコンより遥かに高コストな本体設計であった)。小売店は「本体を売るより、AVケーブルを売った方が儲けがでる」という状況だった。小売店からも、あまりに横柄な初心会流通に対して不平不満が漏れ聞こえるようになった。ワゴンで処分せざるを得ないクズソフトの氾濫に対して、小売店は中古で利益を稼ぐようになった。

メーカーに対しても、初心会は横柄な態度を隠さないようになった。不人気なソフトに対しては別途500円程度の「危険費」を払うように要求した。通常の初心会への掛け率は55%前後だが、そこからさらに500円値引け、お前のところのゲームは怖くて売れないんだ、そういう理屈である。9800円の小売価格のスーパーファミコンソフトであるなら、サードパーティーへの売上げは実質4890円。ここから概ね3000円分任天堂に製造委託費を払わなければならない。なかなかに厳しい懐事情がわかってもらえると思う。


そんな初心会流通に対して、メーカーや小売は反旗を翻せなかったのだろうか? 初心会はこの時点では圧倒的ともいえる影響力があった。前作が80万本出荷を達成したサッカーゲームがあった。その続編が発売されたとき、出荷本数は50万本だったのだが、そのうち27万本が、初心会のたった一社が買ったものだった。残り20万本近くは、別の初心会会社が購入したものだった。「初心会お断り」はハードルが高すぎた。その27万本を仕入れた初心会の問屋の掛け率は45%だった。メーカーとしてはそれでも大量に買ってくれる初心会を無碍にはできなかった。


しかしそんなメーカーの思いとは裏腹に、初心会の暴走は止まらない。その大量に仕入れたゲームをあえて発売日に大量には卸さなかった。そして配下の二次問屋、三次問屋を巻き込んでそのゲームを抱え込んだままにした。ゲームソフトの「荷溜め」を行ったのである。渇望した市場在庫、上がってくる注文。そして機を見て一斉に在庫を放出した。市場は乱れ価格は乱高下し、初心会問屋とその配下に儲けが残った。ゲームソフトを完全に投機商品として扱っていたのである。

そのほかにも「問屋の担当者個人の口座にリベートを振り込むように要求した」、「勝手に掛け率を定めて発注書をメーカーに送りつけた」など、やりたい放題だった。

仕舞いにはメーカーに対して、「うちは来週から社員旅行にでかけるんで、申し訳ないのですけど一週間早くソフトを卸してくれませんか?」と要望があったのだが、メーカーがそれに応じて一週間早くソフトを送ると、なんとそのまま発売日よりも一週間早く小売店にソフトが並んでいたなんていうことも起きた。社員旅行なんてそもそも嘘だったのだ。


こんなやりたい放題だった初心会だが、別方面から状況がかわるきっかけが降って湧いてきた。トイザラスの日本上陸である。トイザラスの手法は、「メーカーからの大量直接購入。値引き販売」である。そして日本市場の有力おもちゃとなれば、当然任天堂だ。トイザラス幹部は即、京都に出向き任天堂からの直接取引をお願いした。これはレアケース中のレアケースといえた。世界の玩具メーカーの中で、トイザラス側から出向いた例はまずなかった。しかも元々アメリカで任天堂はトイザラス本社と契約し、NES(アメリカ向けファミコン)とSNES(アメリカ向けスーパーファミコン)を販売している得意様だった。無碍にするわけにもいかなかった。

その上、当時は日米構造協議にて「日本の閉鎖的な商慣習」がやり玉に挙がっていた頃だった。任天堂は政治と無関係といっていいほど距離を取っていたが、ここでトイザラスとの契約を断れば、直接的にも間接的にも悪影響が出ることは間違いなかった。任天堂はトイザラスと契約を行うことになった。条件は、普段初心会へ卸す価格よりも若干上に調節することで決着がついた。


トイザラスの日本進出は初心会の横暴に変化をもたらしただろうか。残念だが、この時点ではさほど強い影響を与えたとは言えなかった。理由はいくつか考えられるが、この時代、ゲームを買うときの場所と言えばおもちゃ屋ではなく、ファミコンブームで出来た町のゲーム屋などだったからだろうと思われる。デパートやおもちゃ屋は親が子どもに買い与えるために一緒にいく場所だ。しかしファミコンブームから年月がたち、小学生は中学生・高校生になっていた。自分でおこづかいをため自分で買うようになってきたのである。彼らが向かう先はトイザらスではなく、中古も一緒に取り扱う町のゲーム屋であったり、格安で売っている家電量販店、ディスカウントショップだった。成長していたゲームのメイン購買層と、トイザらスの狙っている客層とがわずかにずれていた。


初心会は平常運転を行いつつ、小売に抱き合わせで物を卸すことをやめなかった。価格は乱れてワゴンに突っ込まれるソフトが大量にでた。しかし初心会には初心会なりの言い分があった。


とあるメーカーが三万本生産するソフトがあるとする。それを吟味し、三万本なら捌けるだろうと踏んで初心会で三万本買い取る契約をする。ところがメーカーは別口でひっそりと5000本追加生産を委託している。その5000本は価格を下げ、初心会外の問屋に格安で流すのだった。メーカーには利益が残るが、初心会には発売日から掛け率が違う競争相手が存在することになる。そして初心会内に結構な不良在庫が残ってしまう。これではだまし討ちだ……というものだ。


もちろんメーカーには、これまでの初心会の横暴な態度が気に食わないという理由もあるだろう。この時代にメーカーと初心会、他の問屋に信頼関係はなく、「どうやって出し抜いてやろうか」という腹の探り合いが行われていた。一発殴られたなら、1.1発分殴り返してやりたいと思うのが人の性である。

任天堂は「朝と夕方とで商材の価格が違う」というこの状況をよく思っていなかったが、直接動くことはなかった。ゲーム&ウオッチの乱売が起きる手前のタイミングで、シリアルコードから安売りしている店を探り、そこの流通ルートをたどって問屋に「指導」した結果、公正取引委員会から調査が入ったことがあった。以降、任天堂が問屋を締め付けすることはなくなった。それ故に、初心会の暴走を止めることはできなかった。


そんな市場に入ってこようとするサードパーティーは、それでも多かった。PCエンジンやメガドライブで名を馳せた有力なサードパーティーが、最大市場であるスーパーファミコンに乗り込んでくることもあった。初心会の横暴に嫌気がさすこともあったが、それ以上に市場の旨味はでかかった。1993年時点でスーパーファミコンに参加しているサードパーティー数は117社(最終的に200社を超えた)。メガドライブは53社、PCエンジンは39社だった。初心会が悪質なだけの市場では、こうもサードパーティーが集まるわけはなかった。大帝国の国力は、他の比較にならないほど強大だったのだ。

同時に小売店も新規店が増えていた。市場は拡大を続けていた。だからこそ矛盾が表面化することはなかった。


しかし確実に破滅への道を進んでいたのだった。

続き

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