初心会ってヤクザなのか? → いや、そうではないのです ─テキヤと私たちの見えない関係─

【注意】この記事は筆者の誤解と思い込みが入って一部考証がおかしなところがあります。補足版を確認ください。


0.前振り


1996年、任天堂は自身の取引先問屋集団、初心会を一度編成しました。
ゲームをあまり扱っていない取引先の問屋に抜けてもらい、ゲーム中心の組織へと新たに再編しました。とはいえゲーム機戦争まっただ中の1996年の出来事ですから、これはちょっと遅すぎる構造改革で、あまり意味がありませんでした。結果、1997年の初心会解散へと繋がっていきます。

そのためあまり私はこの改革を深掘りしていないのですが、いくつかの資料でこの時、初心会の名称が「新・初心会」になった、という説や「一心会」になった、という説がちらちら見え隠れします。こうした名称の不安定さはまさしく当人たちの立場が透けて見えるようにえます。

ところでこう思いませんでしたか?

なんでこう、初心会といい、一心会といい、ヤクザっぽい名称なんだ?


私も当然思いましたし、実際ネットの海を探してみると「初心会=ヤクザ」の印象は非常に強く、幾人の人がそれに言及しています。
今回の記事はそれの真偽に突っ込みつつ、周知されているとは言い切れない「テキヤ」について解説する記事です。よろしくお願いします。

1.テキヤとヤクザの違い ―テキヤとは?


結論から先にいってしまうと、初心会へ影響を与えた存在はヤクザではありません。テキヤです。
しかしこう書いたところで「テキヤって何?」と思う人や、「いや、テキヤとヤクザって一緒でしょ?」と思う方が大半だと思います。私もそうでしたから。

ものすごく大雑把に解説すると、お祭りの時、屋台を出して商売している人たちのことをテキヤといいます。漢字で書くと「的屋」であり、これは「当たれば儲かる」の意味合いで生じた言葉とされています。つまり彼らの根は商売人であり、売って儲けるを根底にした集団です。祭りが行われればその前日に屋台を組み、食べ物やおもちゃを売り、祭りが終われば屋台を片付け掃除を行い、ゴミ一つ残さず綺麗にします。

対してヤクザとは博徒、ギャンブルを基にした集団です。ヤクザという語源も、おいちょかぶという博打では札が8と9と3が来てしまうと最低得点のブタとなってしまうことからの隠語とされています。現在の暴力団と直接繋がる系譜となります。

商売人と、博打打ち。全く正反対の要素で構成された二者なのですが、混同されてしまう点もあります。それは一般社会から少し外れた枠組みで生活を営んでいる点です。

たとえばテキヤには主従関係が存在しているんですが、上を父、弟子を息子と見なす疑似家族、いわゆる「一家」という意識があります。そして日本各地のいろんな場所に親分がいて、その地元の祭り事を仕切っています(これらの一家が把握している領域をテキヤは庭場と呼びます。ヤクザでいうところの「縄張り」です)。親分は祭りの流れを把握し、配下の若い衆に指示を出して祭りを滞りなく進行させます。
また、流れ者のテキヤというものも存在して、各地の祭りにあわせて移動しながら商売しているのですが、その際は上記の親分たちのところに顔を出し、挨拶をします。この際、左手の親指を隠しつつ、「遅ればせの仁義、失礼さんで御座んす。私、生まれも育ちも……」という口上を述べなければなりません。この口上は映画「男はつらいよ」シリーズにて主人公、車寅次郎が良く述べていたので、昭和生まれの人たちならなじみがあるかも知れません(逆に言えば平成生まれの人たちは、男はつらいよが何なのかすらわからないかも?)。

なお、上記の口上は当然受けた側もきちんと決まった返事をしなければなりませんが、それが満足いくレベルのものでなかった場合、一気に喧嘩になりかねない文化だったそうです。流れ者の親分に対しわざわざ相手方の親分が詫びを入れに行った事態もあったとのこと。

もともとこうした風習は江戸末期から明治にかけて、多数の犯罪者やゴロツキがテキヤに紛れて悪事を働こうとしたため、対処法として編み出されたものであり、近年ではだいぶなくなりつつあるそうです。

また、契約書という文化がなく、口約束です。礼儀作法を重視し、義理と仁義を欠かした場合は喧嘩沙汰になり、時と場合によってはヤクザの抗争に立ち向かうこともあります(ヤクザにとって縁日の場所代はシノギに見えるそうです)。

こういった要素は一般人、カタギの人たちからはややかけ離れた文化です。そのため、「ヤクザか、テキヤか」というのはあまり区別できず、同一視されてしまう……ということになっているのかもしれません。そもそもテキヤの皆さんも入れ墨を彫ったりしていますし。(6/17追記 そもそもこの名乗りの文化は昭和に至るまで普遍的にあったと指摘ありました)

なお、テキヤが信仰している神様は「聖徳太子」「天照皇大神」「神農皇帝」が上げられます。神農皇帝とは自らの体を使って様々な薬を発見した中国の皇帝であり(実在はせず、伝説上の存在とされています)、製薬会社でも祀られることがある存在です。テキヤはこれらを商売の神様として信仰の対象としており、杯事があるとこれらの掛け軸を掲げて儀式を執り行います(今上天皇が入る場合もあるそうです)。
反してヤクザは「八幡大菩薩」「天照大御神」「春日大明神」の三軸を掲げます。つまりヤクザとテキヤでは、信仰する対象がそもそも違うのです。

2.テキヤの歴史とおもちゃへの流れ


こういったテキヤの文化は遙か昔から紡がれたものでした。その起源はハッキリしませんが、江戸時代には各地を渡り歩いた行商、「香具師」(やし)がいました。彼らは高価な薬を取扱い、露店を開いてそれを売っていました。そのため薬の神様である神農皇帝を崇めたのでしょう。その上、持ち運びしているものが高価なので、身を守るための技術として自然に暴力に通じることになります。ヤクザに負けないようにあえて反社的な雰囲気をまとっていったのではないか、という推察も成り立ちます。

この香具師は明治維新を受け、社会変革の波にさらされて少しづつ自らの形態を変えていくのですが、大きく変える必要にさらされた契機が二つあります。一つは関東大震災。もう一つが太平洋戦争の敗戦です。

関東大震災は東京が荒れ地となりました。多数の人が死にました。しかし、生きている人は多くいます。そして食事をします。衣服も、家も、職業も必要です。この人たちを生き延びさせるために、当時の警視庁は一つの決断をします。

「失業者対策の一環という名目で『露店慣行指定地』(警視庁令第五号交通取締規則第四十条)を発令した。その内容は、『縁日露店観光地』、『特殊露店慣行地』、『平日露店慣行地』、『臨時露店慣行地』であった。つまり、職がないものは露店許可証がなくてもモノが売れるようになったのである。だから、失業者や素人が『にわか露店商』となり、香具師の正統露店は、ますます苦しい立場に追い込まれた」

実話時代編集部『極東会大解剖』三和出版 2003年

この時の香具師は親方一人の子分が一人、というとても小さく細々とした関係性でした。ところがこうした素人の大量出店が重なり、人材の流動化が激しくなった結果、一人の親分に複数の子分がくっつく、家族性が強い今のテキヤの形へと変化していきます。
こうしたテキヤは東京に食事や衣服を提供することができました。同時に個人事業主でしかなかった香具師たちも、次第に横の繋がりを重視するようになります。大阪では「全国行商人先駆者同盟」ができあがり、東京でも「大日本神農会」という組織ができました。

そして太平洋戦争が始まり、再び東京は火の海になります。敗戦し、灰燼に帰した東京の街で、逞しく商売をするのは、やはりテキヤたちでした。

浅草に例を取れば、焼け野原のそこかしこ、まずツギモノにはじまった。鉄板で魚貝を焼いて食べさせたのだ。平貝をいため焼する野天店がずらりとならんだのは一種壮観であった。この鉄板の上が、焼きそばとなる。山盛りの細麺を両手のハガシでくりかえす、その手ものとさばきが呼び声と一緒に、リズミカルに動くのが食欲をそそった。これに次いで、古着、古道具、粗末な日用品である。どれもこれも、必要なものばかりだった。これらは当然に生産の地とつながりをもってのことで、はじめは露商自身が肩にしょってきたのだし、担ぎ屋を必要ともした。(中略)
あたりのバラックが建ち始める。それに連れて露店の方も、鉄板一枚、むしろ一枚、戸板一枚であったのが、露店は露店なりの格好を徐々につけてきた。これが街の復興のそもそもその始まりであったと考えて良かろう。

添田知道『香具師の生活』雄山閣

しかし政府はこれらの露店、テキヤに対して締め付けをはじめます。町が復興を進めるにあたって、露店がそのままというわけにはいかなかったのでしょう。さらにはGHQが直々に「露店整理令」を打ち出してきました。そのため公道上での露店は禁止されてしまいます。こうした流れがあったため、露店は寺社境内などで臨時で行うもの……という、現在の屋台文化に変化していったのです。

さて、屋台について言及していましたが、屋台は食べ物ばかりではありません。縁日は子どもが多くくる場所でもあります。そのため、子どもを対象としたおもちゃの販売や、射的といった遊戯を提供する屋台もできはじめます。その一つとしてゴム製品を扱ったおもちゃができあがります。
ゴム風船や水ヨーヨーは縁日の人気商品となりました。ゴム風船は儲かる! と、戦後どんどんメーカーが出来上がってきました。それと同時に縁日玩具問屋というものも出来上がっていきます。彼らはメーカーとテキヤを繋げ、全国に流通網を広げていきました。

こうした中で次第にテキヤ自体の中にも、その形を変えていく一家がありました。ただ縁日で屋台を開くだけではなく、自ら問屋になってやろう、メーカーになってやろうとする流れがおきました。現在、世界的な有名ゲームメーカーの中にも、元はテキヤの出身……という会社もあったりします。後に初心会に加入する問屋も、元はテキヤで、従業員の腕には入れ墨が彫ってあった、なんてこともあったそうです(ただしどれほどの割合で元がテキヤかどうかは、調べようがなく、全くわかりません)。

ここまで来るとだんだんと初心会や一心会という言葉の雰囲気がわかるかと思います。契約ではなく義理で動く集団。一般社会とは少し違うずれた集団倫理での構成。彼らは玩具問屋となっていき、横の繋がりで親睦会を新たに結成していきます。それが初心会であり、その前身であるダイヤ会でありました。つまり、そのネーミングセンスに反社的な匂いを感じてしまうのは当然のことなのです。(6/17追記 このネーミングセンスも普遍的なものだと指摘がありました)

3.テキヤとヤクザ


こうして記述すると、「テキヤとヤクザとは違うもの」ということがなんとなくわかっていただけると思います。ところが、現在の警察はテキヤとヤクザ、両方とも反社団体として見なしています。
実際のところ、元々テキヤだった団体がどんどんとヤクザのように変わっていき、暴力団組織として変わっていった例があった(極東会というそうです)り、ヤクザとテキヤ間で繋がりがあったりします。ただ、その繋がりというのも、寺社に顔がきくテキヤに対し、ヤクザが襲名の儀式を依頼したり、ヤクザの親分が花見をする際にはその下っ端がテキヤの屋台一つ一つにピン札の入った封筒を渡し回って挨拶する、といった程度のものです(なお、そういった挨拶の後には屋台は新しい具材を焼きまくり、お返しの品を献上するそうです)。

奇妙なことに警察の内部でも見解は分かれています。機動隊や交通課はテキヤを反社とは見なして居らず、寺社縁日に参加することに許可を出しています。ところが、暴力団対策課はテキヤを反社と見なし、締め付けを行っています。実際にテキヤの親分であった人物が建設会社を立ち上げたところ、「元暴力団である身分を隠し、不正に建設業許可を更新した」という理由でその免許を取り消しされることになりました。聴聞会が開かれましたが、その際は、その席の出席者全員、誰もがこの親分の人柄の真面目さを認識していたのにもかかわらずです。

警察には警察のルールがあるのでしょうし、そこを把握せずに一方的にテキヤの肩をもつのはあまり公平ではないので、これ以上この件に関して私は言及しません。
私個人としては、縁日に屋台がなくなってしまうような事態は、避けて欲しいな、と願うばかりです。


4.テキヤのあれやこれや


縁日の名物として「あたりがないくじ屋」というのが話題にあがりますが、これはどうもテキヤ内のなかでも色々とあったようで、「本当にあたりが存在するくじ屋」もいたそうです。当たりのプレイステーションが当たったときは、また翌日ゲーム屋にいって仕入れてくる羽目になった、とのこと。

また、元テキヤが営むファミコンショップ……なんていうのもあったそうです。おもちゃから連なる系譜としては納得がいく流れです。テキヤという不安定な職は、楽に稼げる職業では決して無く、カタギとの二足のわらじで生計を立てていた人たちが多数でした。そのため、生活のためにカタギのほうへと比重を傾けていった……おそらくは、そういった事情があったのではないでしょうか?

彼らはテキヤから正規の流通業者へと転身したあと、初心会に加入し、そしてファミコンブームを支える原動力となりました。そして──その後の歴史は、皆さんがご存じの通りです。

彼らの多くは、ゆっくりと、流通の華やかな表舞台から去る羽目になりました。さらに現在ではダウンロード販売も普及が進んでいます。流通のもつ意味合いは大きく変化さざるを得ない状況がどんどん進んでいます。

そんな状況ではありますが、少し足を止め、過去を振り返ってみませんか? そのとき見える軌跡は、江戸時代にまで遡る歴史となって、私たちの前に物語を見せてくれることでしょう。

─ 終わり ─

→補足です

参考文献

テキヤの掟 廣末 登

テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を巡る 厚 香苗

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