歴史に名を刻め セガ サターン流通改革の裏事情 -前編-

初心カイ

その偉大なる挑戦者の名は セガ

かつて巨人任天堂や、超新星ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)に立ち向かい戦ったものの名である。
その歴史には数々の敗北が刻まれているが、セガはそれを決して恥じることなく自社ホームページ内に掲げている。
そんなセガのホームページ内にこのような記述がある。セガハードヒストリー内、第五回セガサターンの項目だ。


https://sega.jp/history/hard/column/column_05.html

「セガは、CD-ROMによるゲームソフトの製造コストダウンとあわせ、流通コストを下げることを狙って『セガ・ユナイテッド』を設立。ゲームソフト流通にも本格的に参入し、『メガドライブ』後期には8,000円近くにまで上昇していたソフトの価格を下げるべく動きます。」


たった一文。これだけの記述の背景には、セガの、ゲーム業界の巨人任天堂に挑んだ熱意と、新たなライバルSCEに負けてたまるかという意地を織り込んだとてつもないドラマがあった。
この記事はそのドラマを読み解き、どのようにしてセガが戦いに赴き、そして敗れ去っていったかを解説する。

セガ・ユナイテッドの設立の話の前に、それ以前のセガの流通事情について語らねばならない。

セガの家庭用ゲーム機は8bit機のSG-1000、SC-3000から始まった。SC-3000は主として家電流通で流れたが、SG-1000と一部のSC-3000はセガが玩具流通の問屋を通じて全国の小売に届けられた。
なぜ問屋が必要なのか、この時代のおもちゃ屋小売がどういったものだったのか、おわかりだろうか? この時代、おもちゃ屋というと大手デパートと量販店とを除くと、夫婦ふたりでやっているような個人店が大半だった。
そして子供がそれなりに高額のおもちゃを買うタイミングとはいつだろうか? 誕生日と、クリスマス、そしてお年玉を貰った時くらいだ。誕生日はともかく、クリスマスとお年玉は年末年始。この一ヶ月の間におもちゃ屋の売り上げの大半が占められているというアンバランスな形態だった。

そしておもちゃメーカーというと、この時代大手メーカーらしい大手メーカーは少なく、まだまだ中小メーカーが多数だった。メーカーは小さく、小売も規模が小さいのに、売り上げの大半は年末年始商戦。
このギャップを埋めるために問屋が存在していた。メーカーは安定した売り上げを確保するため問屋におもちゃを卸し、問屋は各地の小売店と契約しおもちゃを売る。そして慣習として返品受付はなし。年末前には問屋同士も激しく在庫をやりとりさせ年末商戦を乗り切っていった。

このような市場にセガがゲーム機で乗り込むにあたって、やはり問屋の力を借りるほかなかった。現代の流通のように、メーカーが直接小売店にものを売る、という形態はまだできなかった。

このとき事件が起きた。全くの同時期、任天堂がファミリーコンピュータという代物を引っさげて家庭用ゲーム機市場に乗り込んできたのだった。任天堂も同じく玩具問屋流通を利用し、このゲーム機を売り出したが、任天堂のこれは同世代のコンピュータゲー厶機を圧倒する性能を有していた。対してセガのSG-1000.SC-3000はこの世代の標準的な性能であり、この点でファミコンに対抗することはできなかった。
性能をもとにファミコンはゲーム市場をどんどんと拡大していく。その煽りを受けセガは苦境に……立たされなかった。
wikipediaにも記載されていることなので簡単に済ますが、ファミコンという存在がスポットライトを浴びたおかげで一般層に対して「家庭用ゲーム機」という存在が周知されることになった。その結果、あおりでセガのSG-1000は「ファミコンとにたようなもん」といううれしい誤解を受け、消費者に買われていった。
予想以上の売れ行きに手応えを感じたセガは家庭用ゲーム機市場に本格参入することを決める。そして幾度も任天堂に戦いを挑むことになったのだ。


しかし結果だけをいえばファミコンの圧勝で8bitゲーム機世代戦争はひとまず幕を閉じる。勝因はいろいろとあるが、流通面をそれを解説していこう。任天堂は先駆者、トミーの失敗を冷静に分析していたのだった。
トミーはぴゅう太というホビーパソコンを販売していたが、そのぴゅう太からゲーム機能に特化しコストダウンしたぴゅう太Jrをもって、家庭用ゲーム機市場に任天堂とセガに先んじて参戦していた。対戦者としてはエポック社のカセットビジョンなどがある。

このぴゅう太とぴゅう太Jr、作ったはいいのだがトミーはなんとサポート部門を立ち上げていなかった。玩具にアフターサポートは存在しない。壊れたら買い直してもらえばいい。
しかしホビーといえどパソコンであり6万円する代物だ(ぴゅう太Jrは1万5千円)。アフターサポートは絶対に必要だった。しかしトミーはそのことに気がつかなかった。
さらには問屋の優遇の仕方を間違えた。このときトミーは取引していた問屋の上位30社のみを選んで限定的にぴゅう太を販売した。しかしあろうことか、最上位の二社にのみ発売日の三日前に出荷してしまったのだ。つまり他の問屋がぴゅう太を仕入れたときにはすでに大手デパートや関東圏のおもちゃ屋にはぴゅう太が並んでいる状況だったのだ。こんな状況で次もトミーからぴゅう太を仕入れようとする問屋がいるだろうか?

結果としてトミーはぴゅう太事業部を廃部するはめになるが、この失敗を任天堂はしっかりと把握していた。
任天堂は親睦団体、「初心会」に参入している問屋にのみファミリーコンピュータを販売する。するが、出荷日は参入問屋をすべて平等に扱う。そして同時にアフターサポート体制を整え、初心会に対してファミコンの修理講習会も行ったのだ。修理スキルを身に着けた初心会は売り先の小売店に対しても独自に修理講習会を行い、安心して販売できるような体制を整えていった。


さて、セガはどうだったろうか? 残念ながらセガはこのとき、トミーと同じ失敗を犯している。セガ商品を優先的に扱っている問屋「ムーミン」には他の問屋に先駆けて3日前、4日前にハードやソフトを出荷していた。これでは他の問屋はたまったものではない。

さらにセガの失策は重なっていた。下手にファミコンブームに乗り、ハードもソフトも売れたための失策があった。問屋への最小ロットをソフト一つにつき100本にしてしまったのである。これは任天堂にならってのことだが、では一つの問屋で同一のセガのソフトが100本売れるか、というとなかなか厳しくなってきた。SG-1000はファミコンではなかった。そこまでソフトが大量に売れ続けるわけではなかったのだ。

最盛期にソフト一本あたり800-1200本は売る問屋があったが、この問屋も次第に最小ロット100本を売り切ることが困難になり、最終的にはセガとの取引を辞めた。セガに対して最小ロットを30本ほどにしてくれと要望を出し続けてても、セガは聞く耳を持たなかったためだ。SG-1000の頃は百社を超える問屋がセガと契約していたという話だが、メガドライブを出す頃にはその半分の40-50社程度になったとされる。これには上記の失策もあるのだが、とにかくセガは見切りが早かった。SG-1000ではファミコンに勝てない、どこがだめなのか? コントローラーか、ということでコントローラーを変えたSG-1000Ⅱを投入。それでも勝てない。なら性能を底上げしたセガマークⅢだ。FM音源内蔵のマスターシステムだ。……これら矢継ぎ早に繰り出される商品群は、前の商品を早々にデッドストックへと変えていった。問屋からしたらファミコンはベストセラーでありロングセラーであった。いきなり抱えている在庫が不良在庫になる心配はない。ディスクシステムという困った子がいるにはいたが、これ単体で今までのセガハードの累計台数よりも売れていた。

とにかくセガは新製品をいつぶち込んでくるのか予測できない。新商品の発表と同時に抱えている前モデルの在庫は型落ち品に早変わりするわけだ。問屋は次第にセガに注力するのを止めていき、自ら二次問屋となって在庫リスクを減らしていった。


こうして次第にゲーム業界の流通が固まりつつあった。任天堂との直接販売権を有している初心会は一次問屋グループで、初心会と取引してファミコンを仕入れそれを小売店に流す問屋は二次問屋グループだ。二次問屋らはセガの場合とは逆に任天堂からの直接取引を強く強く強く要望したが、任天堂は頑として新規参入を認めず初心会から買うよう譲らなかった。そのため初心会が川上、そこから川下に二次問屋とが来て、最後に小売店となった。このような流れで日本全国にゲームソフトが供給されるようになった。

初心会が二次問屋にも小売にも強い影響力を持つようになったわけだが、この初心会は実は平気でセガの商品も取り扱った。任天堂から警告がくるようなことはなかった(ただしあくまで表向きの話だ)し、全く売れない商材というわけではないから、扱ってもいいか、という判断なのだろう。売れ残ったらドラクエや任天堂ソフトと一緒に抱き合わせて二次問屋に売りつけてやればいいのだ。そのため奇妙なことに「初心会ルートをセガが間借りしている」という体制ができあがった。セガとしては初心会のみに自社ハード・ソフトを売っているわけではないのだが、結果としてセガの得意先は盟友ムーミンと、その他多数として初心会になってしまった。そして初心会はあくまで任天堂をメインに取り扱う。初心会流通では任天堂に勝ちようがなかった。


こんな状況に陥ってしまったセガだが、力強い仲間たちが現れた。コナミ、ハドソン、ナムコといったサードパーティーメーカーである。


「ん?!」と声をあげた方が多いと思われる。メガドライブには確かにコナミ、ナムコは相当数のソフトを発売したが、ハドソンはこの時期はPCエンジンに注力していたメーカーだからだ。しかしセガにとってハドソンは間接的な協力者であった。この状況を詳しく解説していこう。

ファミコン本体は初心会が独占的に販売を行っていた。だが、ファミコンソフトのすべてを初心会が独占的に扱っていたか、というとそうではなかった。ナムコ、コナミ、タイトー、ジャレコといった早期に参入したメーカーたちは自前で工場を探しそこで作って貰って任天堂には一本百円のロイヤリティを送る、という契約を取っていた。彼らは初心会外の問屋にソフトを売ることに躊躇なかった。

さらには1987年にはNECがハドソンと手を組んでPCエンジンを発売している。もちろんファミコンではないから初心会は直接的には関係ない(一応ある程度絡んでいたそうだ)。ナムコも当初はPCエンジンに注力していたため、初心会ではない独自流通、お得意様の問屋を引き続き模索しつづけていた。

問屋にモノを売るため彼らはどうしたか。自前で広告を打つ他、問屋・小売(場合によっては消費者も含む)向けにゲーム展示会を行った。開発中のゲームをプレイさせ、「これだけ面白いゲームなら○万本は売れます!」と披露したのだ。こういう展示会に初心会外の問屋たちは集まった。儲けになる商材を逃す理由はなかった。

そうしたメーカー展示会は年に複数回行うのが多かった。複数のメーカーが複数の展示会を行っているわけで、問屋視点から見てかなり非効率で大変だった。毎週毎週あっちこっちに見に行っては仕入れる本数を決めなければならない。メーカーとしても費用がかかる展示会のコストダウンを計りたかった。

そこで各社メーカーは協調し、コンシューマ・ソフトウェア・グループ、CSGを設立する。各個に展示会をするのではなく、みんなで合同に展示会を行って、双方の手間を減らしましょうということだ。CSGに参入していたメンバーは、セガ、ナムコ、コナミ、ハドソンの他データイースト、サン電子、ジャレコ、タイトー、カプコン、SNK、テクモetcetc……と、かなりの規模だ。このCSGの展示会は「CSGショウ」と銘打ち行われ、三回目の時点で参加会社は39社、規模もそれなりに大きく、東京、大阪、名古屋の三拠点で行われている。
このような動きがあり、次第に初心会に頼らない流通網が確立されていき、PCエンジンやメガドライブという非任天堂ハードでもサードパーティーが参入し、問題なくソフトや非任天堂ハードを日本全国に流通させることができるようになってきたのだった。

こうした背景のもと、メガドライブでようやくセガは自社ハードにソフトを出してくれるサードパーティーを確保することができた。家庭用ゲーム市場を制するにあたって流通改革の重要性を身に染みて知った。

少し話がそれるがこのCSG、元はメーカーの営業たちの親睦団体であり(このあたり任天堂との取引会社同士の親睦団体である初心会と共通点がある)、団体としての規模は任天堂を除いた状態でどんどんと大きくなっていく。年に何回も行われるCSGショウの規模はまちまちで、予算も限りがあり、内装も素っ気ないものも多かった。入場料も無料だったそうだ。
しかしプレイステーション、サターン、ニンテンドウ64といった次世代機が揃った1996年、規模を一気に大きく回数を絞り予算をかけ世界レベルの一大展示会を開こうとする。これが東京ゲームショウである。
さらにCSGも枠組みをきちんと整え社会法人団体CESA(コンピュータエンターテインメント協会)へとなった。このような流れを組んでいるため、CESAは反任天堂ではないにせよ、非任天堂組織であったし、そして非初心会であり、反初心会な団体の面を持っていた。
そのため今でも任天堂は正会員ではなく特別賛助会員というなんとも不思議な立場にいるし、東京ゲームショウには任天堂は参加しないのだ(ただし基調講演は行っていたり、資金の援助を行っていたり、ビジネスデイだけには参加したこともあったりして、今ではそこまで冷戦状態というわけでもないようだ)。
このあと業界を大荒れにする「中古ゲーム裁判」に関しても、任天堂だけは大手メーカーの中で唯一裁判に参加せず話題から距離を置いていたが、関連団体であるCERO(コンピュータエンターテインメントレーティング機構)は積極的に関与していって独自のレーティングを全廃止し、CEROに一任している。


16bitゲーム機世代のメガドライブでは一定のサードパーティーが来てくれた。もう少しだ。任天堂に勝つ土台はできあがった。あと一つ、勝因を増やせれば。ここからさらに流通改革を進め、サードパーティーを確保し、日本での家庭用ゲーム機でのシェアを確保するためにはどうすればいいのか。……セガの出した答えは自前の販売会社、セガ・ユナイテッドの設立だった。

対任天堂、対初心会のための流通会社。このときの小売店の多くは初心会の横暴(アクトレイザーのリメイクおめでとう。それはそれとして抱き合わせにされたことは忘れてないぞ)に疲れていた。彼らを仲間に引き込むことができたら、勝機は十二分にあった。

セガは1994年、セガ・ユナイテッド計画の立案を進めていく。販売会社を作り、取引契約する問屋を募る。この問屋は小さければ意味がない。ある程度の規模のある問屋を呼び寄せ、そこから小売店に流れるようにする。初心会とは違い、一次問屋だけで小売店まで流れて完結するスマートな形態が理想だ。そしてこのとき扱う媒体は今までのROMカセットとは違うCD-ROMだ。セガはメガCDで拡張機器としてCD-ROMを扱ったことがあるが、新型32bitゲーム機であるセガサターンではこれをメイン媒体として持ってきた。低コストでリピートも早い(ROMカセットが3ヶ月かかるところを、セガは二週間でリピートできると主張していた)この媒体は、メガCDと同じくビクターに依頼してつくってもらうことになる。これでソフトの製造費を削減し、さらに二次問屋を排除する(ただし設立当初から完璧に排除できたわけではなかったようだ)ことで流通経費も削減。こうした改革を行うことでメガドライブ期に8000円台まで上昇していたゲームソフトの小売価格を6000円以下に絞ることができるはずだ。

問題は問屋だった。セガには盟友ともいえる問屋ムーミンがいたが、ムーミン一社で全国の小売をカバーすることは到底不可能だった。欲を言えば10社、協力してくれる規模の大きな問屋が必要だった。ここでセガは名案を思いつく。自社勢力を増大させ、任天堂勢力をそぎ落とす一石二鳥の名案。

なんとセガは、初心会の幹部を引き抜こうとしたのである。


松葉屋という会社がある。1993年の年商は450億円。札幌に本拠地を置く初心会の幹部である。設立は戦前であり、任天堂との取引も同じくかなり古くから行っている。玩具卸売業の会社として創業されたこの松葉屋だが、すでにこの時点でTVゲーム関連が売り上げの9割を占めていた。サードパーティーのソフトをたった一社で数十万本注文することもごく当たり前におこなう、大手中の大手問屋だ。セガが目をつけたのはこの松葉屋だった。

なぜ松葉屋か。松葉屋には自身だけではなく、取引先として有力な二次問屋を多く抱えていたのである。松葉屋さえ引き抜ければそのままこの強力な二次問屋ルート自体を引っこ抜くことができる。その二次問屋ルートは全国に張り巡らされていて、それをそのままセガの流通網として使うことができる。そしてなにより、任天堂の勢力をその分削ぐことができるわけだ。
セガは引き抜きに全力を注いだ。具体的にいうとセガサターン本体の購入権を優先的に与えた。セガの新ゲーム機が初年度にどれだけ売れるか、そしてどれだけ生産できるか、松葉屋は冷静に計算していた。日立の半導体の歩留まりすら情報収集したわけだが、当時の任天堂山内社長のスタンスが松葉屋の行動を決定づけた。それは「3DOは敵でなし」路線である。

当時のゲーム機市場は「次世代ゲーム機戦争」とマスコミが騒ぎ立てるほど、激しく荒れていた。巨人任天堂はウルトラ64(後のニンテンドウ64)を準備しており、ソニーはプレイステーションでゲーム市場に単独参戦、さらにはパナソニックが3DOという32bitマルチメディアマシンをセガサターンに先駆けて発売していた。32bitゲーム機世代戦争が幕を開けようとしていた。
そんな状況であったが、任天堂山内社長のスタンスは強気だった。ソニーやパナソニックはあくまで家電の会社であり、おもちゃで娯楽分野の家庭用ゲーム機などまともにつくれるわけがないし、売れるはずもないーー。このような態度をマスコミと初心会に対してとり続けていた。
そして事実、3DOを初心会流通で取り扱うことに対して全く問題視しなかった。パナソニックも玩具流通での販売ルートをほしがっていたので初心会は3DOを扱ったが、結果だけ見ればこれは任天堂に対してなんら影響をもたらすものではなかった。
ならばセガセターンに手を広げても任天堂は大目に見てくれるかもしれない……。

もう一つ松葉屋は計算をしていた。任天堂が制裁として卸すソフトの量をいきなり極端に減らす、ということはしてこないだろうというもくろみである。こちらは数十万本のソフトを一社で購入するほどの規模だ。それをいきなりゼロにしてしまっては任天堂自身もダメージを受ける。最悪のケースでも半分程度だろう。それくらいの報復措置ならばセガサターンの販売優先権は旨い。今後ゲーム機戦争で市場が荒れるのは目に見えている。
セガとの有力チャンネルを確保しておくのは未来のことを考えると絶対にやっておきたい。そして上手くいけば、いずれ任天堂の取り扱い比率を元に戻してもらえるかもしれない。任天堂だって売り上げは欲しいはずなのだから……。

様々な計算と推測を行い、最終的には松葉屋はセガと握手をすることになる。そして今まで取引をしていた、任天堂と直接取引をしたくてたまらなかった有力二次問屋たちに声をかけセガ・ユナイテッド計画に乗るように誘いをかけた。
次々にこのセガ・ユナイテッドに参加する問屋が現れた。彼らはどうやっても直接取引してくれない任天堂に対して不満を募らせていたのだ。ならばセガにすり寄るのはやぶさかでないし、初心会幹部の松葉屋がいてくれるなら、今まで通り最低限の任天堂ソフトも用立ててくれる。

最終的には松葉屋と取引があった8社と松葉屋自身がこのセガ・ユナイテッドに出資をすることが決まった。直接セガ・ユナイテッドには出資しないが、依然としてセガ製品を優先的に取り扱う盟友ムーミンもいた。これで合計10社。お膳立ては整った。ついにセガは初心会に対抗できる自前の流通網を手にすることが出来たのである。


次世代ゲーム機戦争が取り上げられている現状で、この話題はきっとマスコミ受けする。そうしたセガの読みは的中した。
「巨人任天堂に挑むセガ、流通改革で再挑戦!」「任天堂の一頭支配についに対抗できるかセガ!?」
大々的に挙げたセガ・ユナイテッドの設立をマスコミはガンガン取り上げた。セガサターンはこうした流れの中、発売されるのだ。年末商戦は頂いたも同然だった。


準備は万端だ。大型船セガ・ユナイテッド号は大ベテランの松葉屋を船長にし、輝ける未来に向かって出航していったのである。


翌日、セガ・ユナイテッドは座礁した。


後編 

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