絶対悪との戦い ─ゲームと、ゲームセンターへのイメージの変化の歴史─

0.はじめに



ゲームマニアの中でそこそこ知られているインタビューがあります。コナミの創業者、上月会長が答えたものなのですが。

「(ゲームの)イメージが良くなく子供にも自分の職業が言えなかった」。上月は99年、創業当時を振り返ってこう語っている。

このインタビューを元にして「コナミの社長はゲーム嫌いだったのだ」という風説が流れたことがあります。これはまるきりの大間違いで、詳しくは平和的なブログさんで解説されている通りであるんですが(そもそも上記の日経さんの記事は、事実誤認がやけにおおくて信憑性があまり高くなく……)、ちょっと皆さんに聞きたいことがあります。

「コナミの創業したころや、その少し後のゲームに対する一般人のイメージって、どんなのだったか想像がつきますか?」


コナミの創業は1969年です。おそらくこの記事をお読み頂いてる多数の方が生まれる前の話だと思います。本記事はそのあたりのゲームのイメージと、その後の歴史を追いかける内容になっています。
読み終える頃には

「そうか! ゲームのイメージが良くなく子供にも自分の職業が言えなかったというのは、ゲームのイメージが良くなく子供にも自分の職業が言えなかったということだったんだな!」

と納得することうけ合いです。よろしくおねがいします。

1.戦後のゲーム事情の歴史


日本において、実は戦前からゲームセンターのご先祖のような場所がありました。遠藤嘉一という方がおられます。彼は1931年、東武浅草駅の駅ビルの屋上に、自作の電動木馬を中心に遊戯機を設置しました。さらにこの屋上を「スポーツランド」と命名し、子供たちの注目を集める場所へと変えていきます。まさしくゲームセンターのご先祖です。自動販売機も自作でつくり、設置しました。

しかしこうした流れは一度、激化する戦争によって途切れてしまいました。なにせ「贅沢は敵だ」の時代です。屋上にある遊技専門の場所は廃れる運命となりました。

そして敗戦。広がる焼け野原に対して、かつての賑やかさを取り戻してやろうと、逞しい商売人たちの魂が燃え上がりました。そんな中頭角を現していったのはサービスゲームズ、太東貿易(後のタイトーです)といった会社です。

サービスゲームズと太東貿易は、日本にいる進駐軍から払い下げられたジュークボックスやフリッパー(ピンボール台のことです)を、各地に設置する仕事を始めました。特にジュークボックスは硬貨をいれると自動的に機械がレコードを運び、勝手に演奏し、そして演奏し終わると元に戻すというギミックが施されており、当時の日本人を魅了するに十分でした。この頃の国産品に、ここまで凝ったものは無かったからです。当然、扱うためには相応の技術力が求められましたが、サービスゲームズは元々ジュークボックスのメンテナンスを行う会社でしたので問題ありませんでした。太東貿易も技術力は確かであり、数が足りなくなってきたのでアメリカから中古品を輸入して売りましたが、故障品が多く、ニコイチ、サンコイチにして組み立てる羽目になりました。

時代が進み、復興が完了し、「もはや戦後ではない」と言われた1956年以降、娯楽の波は日本全国に広がっていきます。太東貿易は全国に営業所を広げ、旅館やホテル相手に対してジュークボックスの売り込みをかけました。そして次第に硬貨を入れて稼働させる遊技機、いわゆる「エレメカ」に力を入れ始めます。今も旅館やホテルにゲームコーナーが存在していますが、その萌芽がこの頃はじまりました。この頃、サービスゲームズは米軍の払い下ろし品が底をつき、米国からの輸入にも制限があったのでジュークボックスの国産化を手がけていきます。同時期、中村製作所が立ち上がり、屋上遊園地事業を始めました。

日本の急速な経済発展は娯楽という分野にも強い影響を与えます。各地にボウリング場ができあがり、一大ブームが巻き起こります。1962年9月には初の民間ボウリング場が新宿に出来上がりますが、この運営に携わっていたのがローゼン・エンタープライゼスという会社です。ローゼンはボウリングだけではなく、空気銃をつかったガンゲームや、即席で写真が撮れる「フォトラマ」を手がけている会社でした。このローゼン社は1965年に日本娯楽物産と改名したサービスゲームズと統合されました。そしてサービスゲームズとローゼンエンタープライゼスという名前をもじった「セガ・エンタープライゼス」が誕生します。ボウリング事業からは1972年に撤退してしまいますが、その後もボウリング場にゲームを置く流れは、現代にも続いています。


2.忍び寄る影


実はこのとき、ゲームのイメージはものすごく悪いというわけではなかったようです。セガが1960年に初めて作ったゲーム場の広告のコピーでは「家族づれでも楽しめる、明るい健全娯楽」となっていました。コナミがジュークボックスを売りに回る際は「住民から反対運動が起きた」という有様だったので、メーカーとしてもゲームのイメージが悪くなるようなことをせず、健全な、大衆娯楽であるということをアピールする必要があったのでしょう。この頃のメインの客層は子供たちであり、大人はあまり遊んでいなかったそうです。

1970年代になると子供たちに人気のエレメカとはまた違うものが出来上がります。ディスプレイを使った「TVゲーム」であり、もう一つが「メダルゲーム」です。

解説の必要性をあまり感じませんが、一応解説しますと、メダルゲームとは現金ではない別種のコインを入れ稼働させる遊技機全般を指します。日本においてギャンブルの類いは違法ですので、現金をかける遊技機は認められていません(パチンコ? 三店方式? なんのことです?)。

専用のコインを扱うこの遊技機は大人気になりましたが……次第に彼らが目をつけます。そう、ヤクザの皆様です。彼らはこのメダルゲームにさらに改造を施し、現金でも扱えるようにしたものを設置し、客を寄せました。1970年代中盤には深刻な社会問題となり、新聞の見出しを飾るほどになります。

さらにこの頃、ボウリングブームが落ち着き始めた結果、ボウリング場に併設されているゲームコーナーではなく、独立させてゲームセンター化させる流れができあがりました。セガやナムコが運営するのではなく、個人が主体のゲームセンターの出来上がりです。
しかしこれも遵法意識が高い人たちだけで構成されているというわけにはいきません。「現金を賭けられるようになればもっと儲かるだろう」という浅い考えで改造メダルゲーム機を導入し、そして警察に捕まるという事件が日本中で多発しました。この頃まだゲームセンターは認可制ではなかったため、誰でも作ることが出来ました。1974年の警察庁の調査では全国に71カ所の暴力団関係の遊技場がある、という結果でした。おそらく実際に存在するのはその数倍、数十倍でしょう。当時から発行していた業界紙「ゲームマシン」は「このままでは健全業者もろともに、メダルゲーム場は全面閉鎖に追い込まれることだろう」と危惧する状況でした。業界関係者がこれを肌感覚で実感するほど、ゲームセンターのイメージは最底辺に落ちていきます。


3.広がる市場 加速するイメージダウン


1978年、駅前のビル地下にゲームセンターが設営されることにPTAが反対運動を起こしています。もうすでにこのあたりから「ゲームセンター=不良のたまり場」という意識があったことを指し示しています。また1977年には、映画デス・レース2020年をモチーフにしたらしいゲーム「デスレース」が日本に上陸しました。このゲームの筐体はハンドルとシフトレバーと下部にアクセルがついたもので、モニター内の自機を操作し、人間を轢いていくという内容でした。

これはアメリカで議論を巻き起こしました。この頃名を馳せていたATARIは、暴力的なゲーム、性的、反道徳的なものは許さない方針でした。その方針を横から突くような内容で、今見たらなんてことない表現ではありますが、当時の人たちにとっては恐ろしく刺激が強いものだったのです。
この騒ぎを聞きつけた日本の輸入業者が目をつけ、このデスレースを輸入しました。ところがこのデスレース、大した売上を誇ったわけではないらしく、日本においても売れた話は聞きません。しかしその内容が問題視され、世論に叩かれる羽目となり、さらには輸入業者は電気用品取締法違反で捕まることになりました。
この事件は結果的に、この頃から出来上がってきたTVゲームという文化の萌芽に水を差すことに成功しました。TVゲームは不健全で、いかがわしいものなんだと、一般の人たちは次第に思うようになりました。

この時代、エレメカの衰退といれかわるようにTVゲームという新しい遊戯機が誕生し、ポンや、ブロック崩しが人気を獲得していきますが、その一方でゲームセンターへのイメージは最悪を突き進みます。

そんな中、業界を一変する事件が起きました。そう、スペースインベーダーの登場です。スペースインベーダーの発売は1978年6月ですが、8月頃から急速に各地のインベーダーの売上げが伸び、9月には生産が間に合わないほどの注文がおき、78年末には他社に対してライセンスを与え、サードパーティ製のインベーダーの生産が行われることになりました。通常はあくまで海外のメーカーに対してライセンスを与えるもので、国内メーカーが国内メーカーにライセンスを与えたのはインベーダーが初となります。

この大ヒットは日本国内に大きな大きな影響を与えました。各地の喫茶店にインベーダーが置かれ、ゲームセンターが次々に新しくできあがりました。インベーダーしか置いていない「インベーダーハウス」という形態のゲームセンターも多数出来上がっています。

そうして日本中に熱狂的なインベーダーブームが巻き起こったわけですが、前述の通りこの時まだ、ゲームセンターは認可制ではありませんでした。つまり様々な輩がインベーダーブームの分け前を頂こうと飛びついていったのです。各地にできあがるインベーダーハウスの中には、「高得点を出したプレイヤーには景品を差し上げます」とやり出したところもありました。……これは完全に賭博であり、違法でありましたが、そんなもの知ったことじゃない、儲かればいいのです。という意識が当時の新規参入者にはあったのでしょう。無許可のコピー基板を作るもの、それを仕入れるものが現れ、その裏にヤクザの存在がいました。
ゲームへのイメージが悪化していった一方で、実態としてそもそも本当に怪しげな業者が横行闊歩しつつありました。さらにはインベーダーやりたさに窃盗を行う少年も現れ、社会問題化していきます。

深刻となるインベーダー問題に対して、元々あった各地のゲームセンターの団体、全日本遊園協会(JAA)は行政からの自粛要請に応え、「管理者のいないところには設置しない」「保護者同伴ではない15歳未満者にはゲームをさせない」「18歳未満者には午後11時以降入場させない」「ゲームの結果で景品を提供してはいけない」という四項目を業界の自粛宣言として掲げました。これらの宣言はすぐに警察庁から各都道府県の警察に通達として送られ、マスコミによって広まりました。

ところがこの自粛宣言は意味を成していませんでした。そもそも元々の健全なゲームセンターでは違法ということもあり、景品の提供はなされていませんでした。それなのに上記のような自粛宣言をしたことにより、「やっぱりゲームセンターでは景品で子供を釣るような真似をしていたのだ。賭博場と変わらないじゃないか」という誤解がさらに加速してしまいました。ゲームセンターはJAA非加盟の新規の悪徳業者に引きずられ、どんどんとそのイメージを悪くさせていきました。最悪だと思われていたイメージから、さらに二番底に落ちていってしまったのです。

ゲームセンターは非行少年が行くところで、経営しているのはヤクザ。ならばゲームを作ってるところはろくな会社であるはずがない……インベーダーの大ヒットにより、多くの人々がゲームに夢中になった一方で、ゲーム業界というのは得体の知れない、まともではないところだ、という印象が広がるという捻れが発生しました。マスコミもこの新たな産業に対しては嬉々として叩いています。読売新聞は「童心≪侵略≫インベーダー/ゲーム業界やっと自粛案」という見出して先の自粛案を報じました。内容は、インベーダーゲームやりたさにお金を盗んだり偽金を使ったりする少年たちや、家に帰らない非行少年たちの原因はすべてインベーダーのせいである、というものでした。他の新聞各社も次々にインベーダーの自粛について報道しましたが、これぞ絶好の機会! とばかりゲーム業界をボコボコにしています。

そしてインベーダーブームは一気に引いていきます。マスコミ各社のネガティブキャンペーンもありましたが、そもそも市場にはインベーダーと、似たようなゲームがあまりに多く溢れすぎました。人々はインベーダーに飽きつつあったのです。

こうした状況で救世主となったのはナムコのギャラクシアンであり、その後のパックマンでありました。その他、各社もインベーダーに似たようなものではなく、オリジナリティ溢れる作品を次々に生み出していきます。セガはモナコGPで存在感を発揮しました。次第に各社はインベーダーの次を見るようになりました。ゲームセンター側は「まだこの業界はやっていける」と、展示会で稼働するギャラクシアンを見て感じたそうです。


4.コピー業者(とその背後にいるヤクザ)との戦い


一般的なイメージは最悪なれど、市場は確立されている。大雑把にいうと1980年代初頭のゲーム業界はこんな感じでした。各社は技術力を高めつつ、新作を投下して存在感をアピールしあっていましたが、頭の痛い問題がありました。ヤクザの存在です。彼らは何処からか基板をコピーし、それを売り捲いていました。さらに数々のゲームセンターにショバ代を要求し、挙げ句の果てには流通を立ち上げた上に自らゲームセンターを経営しはじめました。
えっ? ヤクザにゲームセンターの経営なんてできるのか? と思われたかも知れませんが、基板の代金を支払っていないのですぐに黒字経営になるのです。メーカーの営業が代金の催促にきても、背中に龍や般若の入れ墨を彫ったお兄さんたちが丁寧に対応することで何故か代金を貰わずに帰ってくれるのです。不思議ですね。

そしてインベーダーの大ブームによって、コピーが問題であることが顕在化し、業界の一大事であることが周知されていきました。
ATARIはコピーを問題視せず、コピーをされても即、次の作品を展開することで売上を確保しようとしました。そもそもこの時代、法的にコピーが違法かどうか、まだわかっていなかったのです。そのため任天堂の山内社長は「遊び方にパテントはないのです」という、今で言うところのオープンソース的な発想をインタビューで語りました。(この発言は色々と誤解されていますので、詳しくはloderunさんのブログをご覧下さい)

しかしインベーダーで大ブームになり、国内他社に対してライセンスを与えて製造を許可する方式も見られるようになると、「コピーが合法ならライセンスを与える意味とはなんぞや?」という疑問にぶつかるようになります。コピーを放っておけば、ライセンス料をもらうことが実質的に不可能になるわけですね。先陣を切ったのはインベーダーの発売元、タイトーでした。コピー基板を製造している各社に対して著作権と不正競争防止法に基づいての仮処分を申請し、製造販売差し止めを求めた上で訴訟を起こしました。その後、ナムコ、セガが続き、さらにデータイースト、アイレム、サン電子も続きました。さらに任天堂も手のひらを返して訴訟合戦に参加しています。先のオープンソース構想が夢物語だとわかったのです。

こうした訴訟合戦に至ったのには、とある事情がありました。

契機は1981年3月です。ナムコ創業者中村雅哉のご息女、中村恭子女史の結婚披露宴の際、ゲーム業界の大手の偉い人たちが、一同に会しました。タイトーのミハイル・コーガン、任天堂の駒井徳造、ミッドウェーのデイブ・マロフスキー、セガの中山隼雄と、錚々たる面々です。これをよい機会とし、コピー問題を各社共通の、業界の問題と位置づけ、情報交換を行っていこうと話しました。
そのまま場所を変え、当時の著作権法の権威である土井輝生早稲田大学法学部教授による講演も行われました。これを第一回国際会議とし、後にも継続していくことが決定されました。同年10月には国内13社、米国11社、欧州8社の合計32社が参加した第二回国際会議が開かれました。これは当時のゲームメーカーのほとんどすべてが参加した規模で、この会議で無断コピー品を世界市場から締め出す共同宣言が採択されました。再度土居輝生教授が講演を行い、「ゲームは映画の著作物と同等であり、無断上映や無断改変に対処できる」という考えを示しました。

こうした無断コピー許すまじ、といった業界の流れは、各社揺らぎない確固たる信念があった……というわけではありませんでした。実のところ、コピー対策をどうすればいいのか、この時はまだ迷っていた面もあったのです。

当時のコナミはジュークボックスのサービス会社からゲーム会社へと転身し、かつ成功を経て成長している真っ最中でした。1981年1月にはイギリスで「スクランブル」を発表し、高評価を得ました。これは後のグラディウスのご先祖様といえる作品です。


ところがこのスクランブルよりも少し前に発表した「ジ・エンド」が、もうすでにコピーされている……という情報を掴みました。
慌てふためくコナミ社内。期待の新作スクランブルがコピーされてしまったら大変な痛手です。そこで以前、トラブルを解決してもらった業者に相談を持ちかけたところ、「蛇の道は蛇」とばかり、紹介されたのがA氏です。このA氏、バリバリのヤクザでしかもゲーム基板をコピーしまくって売りさばいていた大物でした。コナミの重役らに会いに行くときに上記の「ジ・エンド」のコピーを持っていったほどです。
これに完全に打ちのめされたコナミは、そのままA氏にコピー防止の協力を要請する羽目になりました。A氏は後日コナミ社長上月氏と会談し、具体的なコピー防止策を披露しますが、その策とは「コピー業者の所へ自分の配下の暴力団員を派遣し、コピーしないよう土下座して懇願させる」というものでした。これは今の視点から見るとなんとも意味不明な案なのですが、当時の人たちの常識ではさほど違和感はなかったようです。上月社長はこれを承認し、契約料として500万円支払いました。

この時、追加条件として些細な提案がA氏からなされました。それは「スクランブルの権利の全てを、相談を持ちかけた例の業者に譲渡しました、という内容の偽装書類を作って欲しい」というものです。社長は追認し、それっぽい書類を発行することになりました。

A氏は各コピー業者に暴力団を派遣しました。これは約束どおりですが、そこから先は約束と違いました。A氏は偽造の権利書を振り回し、各コピー業者から許諾料をふんだくったのです。その額、およそ数億円。つまり結果的には、コナミは蔓延したコピー基板のおかげで数億円の損害を出し、A氏の懐にそのまま数億円を注ぐという羽目になりました。ゴエモンが頑張った時並みに稼いだ額ですが、さすが大泥棒ならぬヤクザ。コナミは完全にしてやられました。

A氏は1981年7月には別の暴力団組織と対立し、発砲事件をおこして逮捕されましたが、警察にこの事態が明るみに出て、翌年に許諾恐喝事件として再逮捕されました。後に裁判が行われ、85年に彼は懲役2年8ヶ月を喰らうことになりましたが、その際、東京地裁の荒木裁判長はコナミ社長上月氏を被害者としつつも「同じ穴の狢である」と厳しく批判しています。結果をみればヤクザをもってヤクザを制しようとしたわけであって、そこは批判されて当然、というものだったのではないでしょうか。ジェイソンとフレディを戦わせようとしても上手くいかなかったようです。ちなみにA氏は86年の保釈中、内部抗争の末に射殺されました。

この事件が業界にどのような影響をあたえたかはわかりかねますが、ヤクザは寄生虫であり、業界とは相容れない敵であるという認識は、間違いなく確実に広まっていきました。そして、法的手段を用いて各社戦いに向かうこととなります。


スペースインベーダーのコピーに対しては、その発売元であるタイトーが先陣を切って裁判に挑みました。これは容易なことではなく、まずゲームとは何か、コピーとは何かを裁判所に説明する必要がありました。タイトーは見事にこれに成功し、「ゲームのプログラムは著作物であり、これをコピーすることは著作権侵害である」という判決を得ることが出来ました。1983年のことです。
その後、ナムコもパックマンに関して「ゲームは映画と同じ上映権を有している」という主張を裁判で展開し、見事に権利を勝ち取りました。その結果、コピーを作ったメーカーだけではなく、それを置いた店も同時に訴えることも可能になったのです。これは1984年です。

そしてヤクザがしのぎとして経営しているゲームセンターに対しても、各社は対処法を思いつきました。こちらも背中に虎の入れ墨を彫った営業マンを送り込み、売掛金回収をすればいいのです。龍には虎、ゴジラにはキングギドラ、化け物には化け物をぶつけんだよ理論によって各社はヤクザの押さえ込みにかかります。これによって当時の各社の営業マンは揃いも揃って立派な彫り物がされていた……なんて事態もあったとかなかったとか。まああったんでしょう。

5.風営法改正とファミコンの誕生


法と実力、双方でヤクザの押さえ込みを図る一方で、一つの契機が訪れます。1985年、ゲームセンターは風営法によって規制されることになりました。これは警察庁が「ゲームセンターにて少年たちが深夜までたむろしている。これを法的に規制すべきではないか」という世論の高まりを受けて動いたもので、ゲームセンター側はこの時「法律は不要。自主規制で十分」という態度でした。

そもそも真っ当なゲームセンター業者は「うちには一台も賭博に使われるような遊戯機は置かれていないし、深夜の少年たちの出入りは禁止している。なら、法的に規制される理由など一つもない」という態度でしたが、世論の後押しを受けた警察庁と国会議員たちはそんなこと知ったことではありません。国会でゲームセンターの規制の議論が始まり、そして法律が改正されました。この改正は「ゲームセンター等に設置される遊技機は、違法に賭博に使われるような機械と、そうでないものとが見分けがつきにくいので全部を規制する必要がある」というわりとトンデモナイ意見がベースになっています。

千円札を飲み込むように改造されてるメダルゲーム機は一目瞭然……かと思いますが、当時の警察や国会議員たちには見分けがつかなかったようで、かつそれを見分けようとする姿勢も見られませんでした。ただ、野党側が様々な矛盾に気がつき、そこを突いた結果大激論となっています。社会・共産党は反対したままでしたが、結果改正が可決しました。

その議論の中で警察庁刑事局保安部長である鈴木良一氏がこのような答弁を述べています。

「ゲーム関係の業者は現在の段階では非常にばらばらでございまして、現実には自主規制の実効が上がっていない」
「(業界団体への)加入率が大変低うございまして、アウトサイダーが非常に多い」
「アウトサイダーの人たちがそういう自主規制には従わないという形でもって動いておる」
「自主規制だけに期待をして持っていくことが現状では不可能な状況にある」

第 101 回国会衆議院地方行政委員会回議事録 18号

つまり遵法意識の低い業者や、ヤクザがゲームセンターを多く営んでいるため、法律の改正があるのだ、という理論を展開しています。ただこの改正ではホテルや旅館においてあるようなゲームコーナーは適応外となりました。さすがにそこで賭博をやる奴はいないだろう、という認識でしょうか。おそらくこの時点でも、健全なゲームの存在は広く周知されていたはずではあるのですが、ゲームセンターとしてのイメージの悪さと、ヤクザの結びつきがこの法改正に繋がってしまったのでしょう。

改正後、ゲームセンターは24時間営業を禁じられ、許可制となり、ビデオゲームからメダルゲームまで様々なゲーム機に規制がかけられました。ただし機械式もぐら叩きと、操縦席を備えるコックピット式ドライブゲームは規制の対象外となりました。
そこを突き、セガは世界初体感ゲーム機「ハングオン」を発売しました。この時セガの小形武徳販売本部長はハングオンを「風俗営業規制対象外の機種として開発された」と発表会で説明しています。
……が、この試みは失敗におわりました。後に警察庁は「ハングオンは規制対象機種である」という通告を出してきたため、セガは広告文を訂正する羽目になりました。しかし何をどうやってハングオンを賭博に使うことができるのか、悩むところであります。それとも不良少年が盗んだハングオンで走り出す事態を危惧したのでしょうか。
しかしさらにその後の89年に、「筐体のないドライブゲーム機等は規制対象外にする」という通達が成されています。ハングオンは風俗営業規制外となったため、ドライブインやレストランでも警察の許可なしで設置することが可能になりました。(ちなみにパンチングマシーンやプリクラ、占い機といった機械も適応外です)

ちなみにこの改正でヤクザが経営するゲームセンターやゲーム喫茶に打撃を与えたことになるわけですが、同時に許可を得ているのに違法賭博をしていた店も多数存在していた、という結果に終わりました。86年11月に警視庁が取り締まりを強化した結果、48人の賭博犯を検挙、29店を摘発したものの、その59%にあたる17店が風俗営業の許可を得ていたそうです。なんのための許可制なのかよくわからなくなります。87年2月に行われた取り締まりでは、7割強が許可を得ていた店でした。

ただしこうした取り締まりが無かった場合、よりいっそうゲームセンターに酷いイメージが付与されていた可能性も、なくはありません。法改正には色々と問題があったかもしれませんが、ゲームセンター自身の健全さをアピールするには良材料になっていました。

そしてこの時代、ファミコンが誕生し、大ブームを迎えます。実はこのとき、湧き上がるブームとは裏腹に、大きなバッシングを迎えた様子がありません。確かにある程度非難の声があるにはあったのですが、その後の盛り上がりによってかき消されてしまったようなのです。ゲームセンターに対しては非常に厳しい視線を浴びせていた世間一般ですが、同じゲームを扱う家庭用ゲーム機にはほどほどに寛容さを見せています。何故でしょうか? 

これより下は私の、独自の解説です。正しさの保証はできかねますので、どうかその点お含み下さいませ。

まずこの時代、ファミコンの登場以前にPC-8001などが誕生し、パソコン市場を切り開いていました。ホビーパソコンと呼ばれる低価格帯のパソコンも次々に誕生しています。ファミコンは最後発で、しかもキーボードがついていないゲーム特化の機種でしたので、異端でありましたが、その状況下「パソコンの仲間か? コンピュータってついてるしな」という印象を得ることができたのではないでしょうか。

当時のラインナップもポパイの英語遊びやドンキーコングJrの算数遊びといった、学習ソフトが入っています。よりパソコンに近づけるためのファミリーベーシックも発売されました。ファミコンには如何わしいゲームは発売されず、健全な子供の育成に活用できる、というイメージを獲得することができました。もう少し時代が後になりますが、高橋名人の「ゲームは一日一時間」という宣言によって、世の中のお母さんの安心を得たことは特筆すべき事柄です。

おそらく同じゲームという事柄を扱っているといっても、ゲームセンターという隔離されて親の目が届かないところで遊ぶ代物と、親が見守れる家庭の中で遊ぶ代物とでは、違うものだという認識が働いたものと思われます。そのためゲームセンターの印象の悪さは、さほど家庭用ゲーム機には影響をあたえなかったようです。

ところが完全無欠に無批判であったわけではありません。家庭用ゲームは子供向けであり、程度は低く、子供の可能性を狭めてしまい、オタク化させるものだという批判がちらほらと後年では出てきます(実際にはこの時点で結構な大人層を獲得できてはいたのですが)。
家で遊べばオタクであり、ゲームセンターに行けば不良扱いです。かなり勝手な言い分ではありますが、子供は全員青空の下で野球をして甲子園を目指すべき、といった具合でしょうか。

6.客層の拡大とイメージ回復


時代が進むにつれ、じわじわとゲームセンター側もイメージアップに成功していきます。

セガがUFOキャッチャーで老若男女楽しめる機械を突っ込む一方、スペースハリアーやアフターバーナーといった飛び抜けた魅力を詰め込んだ作品を次々にリリースします。ファンタジーゾーンの柔らかい雰囲気が新しい客層を獲得したことも忘れてはいけません。
ナムコやコナミもセガに負けじと名作を展開します。さらに90年代に入るとカプコンがストリートファイター2を以て格闘ゲームを生み出しました。そこから新規層が大量にゲームセンターに入っていきます。かつて不良のたまり場と思われていたゲームセンターは、ごく普通に小学生が入っていける場所へと変わっていきました。
95年にはプリント倶楽部が誕生し、女性層を広く獲得することができました。96年にはセガが東京ジョイポリス、ナムコがナンジャタウンを開始しています。ただのゲームセンターではなく、幅広い客層が遊べるアミューズメントパークという要素を推していきます。不良のたまり場といったイメージは次第に過去のものへとなっていきました。

そして家庭用ゲーム機の世界も、ファミコン登場から10年が経ち、年齢層が縦に購買層が横にと広がっていきます。そこにプレイステーションら次世代機の登場が重なり話題が広がったおかげで、子供向けだったイメージから脱却することに成功します。PS2がDVD再生を可能にしたDVDプレイヤー需要を確保したことで、家電としての地位を手に入れることにも成功しました。ゲーム機は次第にハイテク機器の仲間入りを果たしていきます。

このあたりの歴史は私よりもはるかに詳しい人たちが濃密に語ることができ、資料も大量にあることでしょう。あえて私が語る必要もないかと思います。

さて、さらにここからは踏みこんだ私見となりますが、前述したとおり、ヤクザへの売掛金を回収するために、各メーカーの営業マンが対抗する力をつけていった……というエピソードがたぶんありました。これが1980年代の話ですし、おそらく90年、00年代になればベテランとなった彼らはそこそこ良い地位に出世したのではないでしょうか。

……その状態で、歴史の浅い他社との交渉に出た場合、取引相手はぎょっとすると思うんですよね? 背中に虎の紋々が入っているわけですから。で、ドスを効かすために声も大きく。
カタギの人相手とはいえ、ついうっかりかつてヤンチャしていた(本当にしたわけじゃないでしょうけれど)時の勢いがちらりと顔を見せることだってあるわけで。その結果、「あの会社はヤクザに違いない」という風評が、めぐりめぐって老舗ゲーム会社に起きる……ということもあったのかも知れません。

そしてヤクザが主人公のゲームというのが長らく、PS2の龍が如くまで出なかった(不良は熱血硬派くにおくんという名シリーズが存在するのに)理由もおそらくなのですが……わかるような気がします。彼らは完全にゲーム業界の敵だったんですね。
CEROの規制が云々、任天堂チェックが云々という以前に、そもそも作りたくない、営業が反対していた、なんて理由があったのではないでしょうか? ここらも完全に私の推測です。

推測ついでにもう一つ。実はどうも、家庭用ゲーム機関連においてもヤクザと無縁ではいられなかったようです。コナミがPS1参入時に自社流通を推していた理由の一つとして、「初心会を通すと何故か後日不正コピー品が出回ってしまう」というのをあげています。そうなると、初心会のどこかが不正コピー業者と繋がっていたわけで、不正コピー業者の大きなところというと……? このあたりの詳細はよくわかりません。

7.終わりに


現在、ゲーム産業の地位はかなり高いところにあると思います。全体の世界シェアがだいぶ落ちたとはいえ、それでも日本が世界に誇れるコンテンツの一つです。
その歴史を振り返ると、苦難の積み重ねであったとしか表現ができません。コピー業者とヤクザの出現、無知な国会議員と警察、そして一般人の思い込み。これらと戦い、客層を広げてきたのはゲームメーカーであり、健全なゲームセンターたちでした。彼らの頑張りがなければゲームのイメージは未だに低いままだったことでしょう。

さて。冒頭のインタビューの言葉を思い出してみて下さい。


「(ゲームの)イメージが良くなく子供にも自分の職業が言えなかった」。上月は99年、創業当時を振り返ってこう語っている。

この言葉の意味が今の皆さんなら理解できるはずです。そうです。ゲームのイメージは悪かったんです。子供に、自分の職業が言えなくなるほどに。このインタビューはそのときのことを振り返って、今のようなイメージアップを成したのは我々だぞと、そう胸を張っているという面もあったのかもしれません。

その上で、ヤクザとゲーム業界の関わりと戦いについては、タブー視されていて、ほとんど資料が残っていません。上記の話は僅かな証言をつなぎ合わせてなんとか構成されたものです。そのため「昔はイメージが悪かった」という言説の重さがいまいち後生の人間には伝わりにくいのです。そんな要素が絡まって、コナミの上月会長に変なイメージが付与されてしまった、ということがあったのかもしれません。

とりとめがありませんが、かつてゲームがこんな風に誤解されていた、こんな戦いを繰り広げていたという歴史の一端を、少しでもわかって頂けたら幸いです。

それではまた、次の記事にてお会いしましょう。

Special Thanks

究極VGL@アーケードゲーム愛好会 @VGL_JP
マッチョダンディー        @duonisoss


参考資料

それは『ポン』からはじまった   赤木真澄
日本デジタルゲーム産業史     小山友介
ゲームマシン 第1号~12号
ファミコンとその時代       上村雅之
日本の「ゲームセンター」史 ―娯楽施設が社会に根付く過程を中心に― 川﨑 寧生
多元化するゲーム文化と社会 

─終わり─

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