とてもすごくよくわかる「任天堂チェック」の歴史

2023年は任天堂がファミリーコンピュータを世に出してから40周年にあたります。おめでとうございます。
まだ動く個体のファミコンが存在することに驚きます。私はファミコンと同世代なのですが、最近は体にガタがくるようになりました。どれだけ耐久力あるんでしょうね、ファミコン。

それほど長い歴史を有しているファミコンなのですが、おかげで少しばかり誤解の種が存在しているようです。それは「ファミコンは厳しい任天堂チェックを行っていたので、クソゲーは発売できなかった」というものです。これが誤解であることは、当時のファミコンソフトをランダムにいくつか触ってみればわかることなんですが(私リアルタイムでエルナークの財宝をプレイしたことがあるんですが、本当にどう遊んで良いのかわからなかったです)、たまにそういったシステムを敷いていたと思い込んでいる人の言説に出会うことがあります。

しかし「そう思ってしまいかねない状況証拠」というのはいくつか存在します。

ファミコン発売当時の任天堂山内社長はアタリショックを引き合いに出し、「増えすぎたクソゲーでアタリショックが起きた。それが起きないようファミコンでは任天堂の認証を受けたものだけが発売できる」という趣旨のインタビューを行っています(週刊ダイアモンド 1984年12月15日号)。


このおかげで広く「任天堂チェック」という言葉が知られるようになりました。そのため「一本一本任天堂はソフトメーカーのゲームをチェックし、クオリティチェックを行ってクソゲーを排除していたのだ」という誤解に導かれていったのでしょう。一応、筋の通った誤解ではあるのです。

今回の記事はこういった誤解を解き、「具体的にどのようなシステムを任天堂は敷いていたか? そしてそのシステムはどう変化していったのか」というものを解説する内容です。よろしくお願いします。



まず、任天堂のサードパーティへの態度を知るにはアタリショックを抑える必要があります。

アタリショックとは一般的には山内社長が語るように「クソゲーが氾濫しその結果消費者が飽きてしまい、Atari 2600の売上が急落した」事象として認知されているかと思います。それは間違いではないのですが、いささか一面的過ぎるのです。

アタリショックの背景には「ゲームソフトの適正価格の崩壊」がありました。Atari 2600のソフトの小売価格は概ね20ドルから40ドル程度。ところがこれがアタリショック前後には実売価格が5ドルに、さらには1本1ドルにまで落ち込みます。

この原因はゲームソフトの供給過剰です。

爆発的にAtari 2600が売れたことで様々な会社が参入しました。そして大量のゲームがAtari 2600で発売されました。北米には返品制度があったので小売は売れる商材であるゲームソフトを遠慮無くガンガン仕入れていきます。ソフトメーカーは一気に儲かりました。小売も返品制度をあてにしてとにかく数多く、いろんなところから仕入れます。

次第に小売に不良在庫が溜まっていきました。そろそろ頃合いかと判断し、小売はメーカーに返品を申し出ます。金を返してくれるか、もしくは別のゲームを送ってくれと。
ところがメーカーはその申し出に応えることはできません。とっくに売上金は別の支払いと給料に使ってしまい、残っていなかったのです。別のゲームに交換? そんなものはありませんでした。

さっさと倒産していったソフトメーカーの一方、小売は地獄の在庫処理に追われます。返しても代金が戻ってこないなら、返す理由はありません。価格を下げてなんとかして現金に変えようとします。そのため20ドルのゲームが10ドルに、5ドルに、そして最終的に1ドルにまで落ち込むのでした。

消費者にとっては嬉しい事態ではありますが、これは激しい副作用をもたらしました。まともな価格で買おうとする意欲を奪っていくのです。40ドルで売られているゲームの横で、10本10ドルのセットが売られています。消費者はどっちを買うでしょうか?

まともな価格でゲームが買われていかなくなっていった一方で、消費者も次第にゲームに飽き始めました。あたりまえです。さっさと撤退していったソフトメーカーにゲーム作りのノウハウがあったわけではないのですから。消費者を満足させる品質を有しているわけではなかったのです。Atari 2600の性能もこの頃陳腐化が進んでいた状況です。

市場は次第に崩壊へと進んでいきます。Atari 2600に飽きたまっとうなゲーマーはPCへの移行も進めていきました。が、ついさっきまでゲーム市場の栄光を褒め称えていたマスコミは手のひらを返して「ゲームは終わった」と吹聴することになりました。不良在庫に頭を悩ましていた小売店はいよいよもってゲームに見切りをつけることになります。「OK、ブームは終わった」。いうなれば店じまいを始めたのです。

業界全体がこの縮小に巻き込まれました。ライター兼レビュワーであったロー・アダムスはこのとき「ゲームメーカーの80%がこの時失われた」と評しています。アタリショックはクソゲーが引き起こしたというよりは、流通の過程での問題であったように思われます。


ファミコン発売にあたって、任天堂山内社長はこのアタリショックを引き合いに出したことは先に述べたとおりです。そして「クソゲーを制限する」という回答を述べていたことも書きました。しかし実際には任天堂はアタリショックを日本でも起こさないために、巧妙にサードパーティ制度を構築したことがわかるのです。


ハドソン・ナムコから端を発するファミコンのサードパーティ制度は二種あります。自分でカセットを製造する自社生産と、任天堂にカセットを製造してもらう委託生産です。自社生産を許されているのは初期に参入した7社(厳密にいうとちょっとだけ違うんですがここは7社にさせてください)だけで、残りは皆委託生産契約です。

ごく初期に契約したハドソン・ナムコ以外の契約会社は、色々と制限が厳しいです。まず、一年間に発売できるゲーム本数に限度があります(年間3本と表記している資料が多いのですが、実際はメーカーの規模によって変えていたと思われます)。これは粗製濫造を許さないという態度だったのでしょう。1本あたりに最低でも4ヶ月をかけてつくれば、一年に三本あたりが目安となる、なんて目論みだったのではないでしょうか。
そして委託生産の場合は表現規制がありました。宗教・流血・性的要素があるゲームは任天堂が許しません。


その上、ファミコンのバージョン違いによる動作確認を行います。実はファミコンには発売時期によるバージョンがいくつも存在します。それら全てできちんと動作するように任天堂はチェックを行います。コレがいわゆる「任天堂チェック」にあたります。
ただ、表現規制に関してはかなりガチガチに決められているというわけでもなかったようです。桃太郎伝説には女湯がありますし、道─TAO─なんてゲームはもう全編に宗教色が散りばめられています。


一方で女神転生はナムコでなければ発売できなかった、なんて開発者の一人である鈴木一也氏は語っています。



2/25 追記:この表現規制は1987年には実際には動いていない……という指摘を頂きました。ですので頑張れば女神転生も任天堂へ委託生産可能ということです。ただし大人向けソフトはそこまで売れる可能性は高くない……という視点から、売り出そうとするメーカーは多くなかっただろうとのことです。任天堂がきっちりと表現規制しだすのは以降の話で、それも明確な基準があったわけではないそうです。

2/26 追記:ただしこの1987年頃、任天堂は明確にパッケージ絵の規制を行っています。覇邪の封印はPC88版、セガMarkⅢ版ではパッケージに女モンスターの裸がばっちり書かれていたのに対し、ファミコン版は黒ベースの背景にタイトルロゴというシンプルなデザインに差し替えられています。これは任天堂チェックに引っかかってしまったから、という証言をさあにん@山本直人様から頂きました。


ちなみにこうしたパッケージ絵の任天堂チェックの修正具合は他の作品でも見ることが出来ます。たとえばバツ&テリー 魔境の鉄人レースでも


ちょうどいいところにキャッチが入っています。ちなみに大島先生の公式HPでキャッチなし画像を見ることができますが、まぁ見事に胸が書かれています。

(追記終わり)



そうして任天堂の認証を得たソフトは実際に生産され、初心会とよばれる流通組織によって小売に流されていきます。この初心会に参加している問屋はそのソフトを実際に触って何本買うか決める……というだけではありません。そもそも発注時にソフトがまだ出来てない場合もあります。「TVCMをこれだけ打ちます。ゲーム雑誌にこれだけ特集が組まれます。チラシをこれだけ小売店に捲きます。アンケートによるユーザーからの反響はこれだけあります」といった他の売れそうな要素をメーカーは初心会にぶつけて、一本でも多くソフトを買われるようにします。自前で展示会を行い、初心会外の問屋にも売ろうとするメーカーも現れました。


しかし時代が流れてファミコンに参入しようとするメーカーがごったがえした後、大量にソフトが発売されるようになりました。さすがにそうなると任天堂も、初心会も、この状況はマズいのではないか? という危機感を持ち始めます。事実1987年から1991年まで、ファミコンは年間で100本以上が出続けています。アタリショックのような出来事がおきるとはいいませんが、不良在庫が小売と初心会内と小売ににじわじわと溜まり続けていました。このままでいくと、そんな不良在庫が加速して溜まっていくかもしれない。そういう危機感です。

そこで任天堂は社内に品質調査の組織として「スーパーマリオクラブ」を発足させます。これが「任天堂チェック第二段階」となりました。

スーパーマリオクラブは一般ゲームユーザー2500人をアルバイトとして使い、発売前のゲームソフトを実際に数時間遊ばせてみて、それを評価させて集計し、通信アダプターで小売店や初心会問屋が閲覧できる……という当時としては最先端の、画期的なものです。そのデータは初心会や契約している小売店の他に、ファミリーコンピュータマガジン誌上にも載り、発注する流通関係者やゲームプレイヤーの参考になりました。コレを元にして初心会や小売店は発注数を決めました。

もちろんこの評価が低いからといって任天堂が発売を中止させる……なんてことはなかったのですが、評価が低い場合は当然発注数は少なくなります。それを見て任天堂の最低請負数に到達出来なかった場合(これが何万本程度だったかはその年その年によるそうです。ごく初期は10万とも5万ともいわれていましたが、時代が経つにつれどんどん下がっていきました)は、発売中止の可能性もでてきます。

実際、1990年で行われた初心会主催の「ファミリーコンピュータ・ゲームボーイソフト展示会」に置いては2-3割のファミコンソフトが問屋からの発注はゼロで終わってしまっています。このソフトの多くは発売中止に追い込まれました。この頃、多数のファミコンソフトが完成しているのに発売中止という事態になったのは、概ね「注文がなかった」という哀しい理由によるモノです。

2/26 追記:この多数のソフトが発注ゼロで終わってしまった背景には「そもそもソフトの本数が多すぎて、小売店側の運用資金がオーバーフローを起こしてしまった」というものもあるそうです。


このシステムは任天堂と初心会で作り上げた実質的な品質チェックである、なんていえるかもしれません。
任天堂はスーパーマリオクラブを拡充します。さらにはスーパーマリオクラブ内で高得点を獲得したゲームは、年間発売本数にカウントしないという規定もできあがりました。また、高得点のゲームにおいて委託製造費を割り引く方針も取るようになります。こうすればサードパーティは、どんどん高品質なゲームを絞ってつくるようになるのではないか、という考えがあったのではないかと思います。

さらに任天堂は評価が高いソフトに直接的な資金援助を行うようにもなります。これには「スーパーファミコン市場になってから売れるソフトと、そうではないソフトの乖離が激しくなってしまった。面白いのに売れない、というのをなんとか食い止めたい」という目的があったそうです。

2/26 追記:この目的とは別に「そもそも小規模なメーカーがソフトを発売しようとしても、最初から多くのソフトを作れない」という問題に資金援助して紐付きにしようという面のほうが強かったという証言を頂きました。


伝説のオウガバトルがそれに適合し、資金援助と広告援助(任天堂のお金でつくったCMを任天堂のCM枠で流すというもの)のかわりに、若干の訂正を行いました。このオウガバトル、10万本目標で7万本の発注で終わるはずだったのですが、この任天堂の援助により20万本発注に増え、さらに追加で20万本の注文が来ました。

こうした成功例はあったものの、俯瞰した視点で見るとあまり上手くいっていたとは言い難い状況でした。
サードパーティから見たら「何が高得点になるのかわからない」という状況、任天堂から見たら「次第にスーパーマリオクラブがマニアック化していき点数が本当に実態を表しているか不明」となり、初心会から見ると「結局何をあてにして発注数を決めればいいのかわからん」となっていきました。

そしてプレイステーション・セガサターンという強力なライバルの誕生で今までのような任天堂一強の体制は崩れ去っていきます。初心会は小売相手に強権を振るうことができなくなっていき、急速にその支配力を低下させていきます。最終的に任天堂が解散を宣言し、各問屋へ個別に交渉を行っていくこととなりました。

これによりスーパーマリオクラブはその役目を変えることになります。今までのような点数システムは終了し、デバッグ専門の組織へと生まれ変わりました。2009年には分社化され、「マリオクラブ株式会社」となりました。

表現規制としての任天堂チェックは、1997年にCESA(コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会。任天堂も参加している業界団体です)が倫理規定をつくることによって役目を終えました。

CESAに加入しているソフトメーカーは、倫理規定にのっとり自主規制を行い、表現にひっかかりそうなところを自分でビデオに収め、それを提出して実際にCESAの倫理委員会がチェックをするという機構です。この機構はあくまで全年齢ソフト対象のものであり、レーティング機能を有していませんでした(おそらくそのせいでサターンで18禁ソフトを発売できなくなったのでしょう。1996年にX指定ソフトが発売されたのが最後です)。

2002年6月、レーティング団体CEROが発足し、ゲームソフトの発売レーティングというものが誕生しました。これが現在のA(全年齢)、B(12歳以上推奨)、C(15歳以上推奨)、D(17歳以上推奨)、Z(グロ・流血あり。18歳未満に販売禁止)の区分の原型となっています。


表現規制に関しては任天堂はCERO/CESAに丸投げした形になりますが……さて、セガやSCE内においてはクオリティチェック機構は存在したのでしょうか? これはもちろんありました。

SCEは当時、自前でソフトメーカーからソフトを買い取り、それを小売に卸す直接流通を行っていました。なので「何本買い取るか?」というのは非常に難しい問題です。SCEは値下げ販売を原則禁止していたので、不良在庫は任天堂以上に死活問題でした。なので可能な限り初期ロットを絞ろうとしています。しかしソフトメーカーは可能な限り初期ロットを増やして貰いたいというせめぎ合いがあります。この時まだ、初期ロット数を決める権利はSCEにありました。小売店からの反応をもとにSCEの営業担当が発注数を決めます。

こんなシステムとは別に、品質管理チームがSCE内に存在しました。PS1ソフトとしての規格を守っているかどうか、きちんと実機で確認するためのチームです。ところがどうもこのチームは初期ロットの数を左右する権限を有していなかったようなのです。

当時全くの無名だったフロムソフトウェアのデビュー作、キングスフィールドはこの品質管理チームから高い評価を得ていましたが、フロムソフトウェアは全く販促活動をしておらず(というか、営業担当が存在しなかった)、小売店からの評価があがらず、それがそのままSCEの営業担当の評価に直結し、初期ロットは1万本と決まりました。
それでは開発費の回収すらできないので必死に頼み込み、温情で1万3000本に増やして貰ったというエピソードもあります。なのでチェック機構はこの時、全く独立した存在だったといえるでしょう。ちなみにその後じわじわキングスフィールドは売れ続け、20万本のヒット作となりました。

セガにおいても評価チームというものがあったというエピソードが存在します。1996年にエコールソフトウェアから発売されたデスクリムゾンは、あまりにもな出来映えにセガ内での評価は最低で、発売すらあやうい状況だったところを、エコールが必死に頼み込むことでなんとか発売に至った……という話があります。このことが忘れがたい恩となり、エコールは長らくセガ専属のソフトメーカー(一部NAOMI基板によるアーケード作もありますが)となりました。

2/25 追記 ファミコンのライバル機であったPCエンジンでは、最初こういった表現規制の類いは全く敷かれて居らず、18禁相当のエロゲーも展開可能な状態でした。しかし実際に女性のヌードを描写した麻雀学園 東間宗四郎登場が発売されたことで共同パートナーであったハドソンが大慌てになり、NEC側に掛け合い、改めて表現チェックが敷かれた……という出来事がありました。


こうして他社も踏まえてチェック機構を確認してみると、なかなか「お前のとこのゲームはクソゲーだから発売中止な」とはいえない構造であることがわかります。これはそもそも自社プラットフォームに出そうとしているソフトメーカーはあくまで協力会社であり、かつロイヤリティを払ってくれるお客様の立場でもあるからでしょう。そこを積極的に排除していくのは難しそうです。

駆け足でありましたが、任天堂のチェック機構の歴史を紹介致しました。これで少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。それでは次の記事でおあいしましょう。



Special Thanks

岩崎啓眞@スマホゲーム屋+α @snapwith

さあにん@山本直人 @sarnin

参考資料

スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二

超クソゲー2 阿部 広樹 , 箭本 進一 , 多根清史 

ゲーム戦線超異状 高柳尚



1 我が国の現状(1)CERO 設立までの経緯

http://www.pref.aichi.jp/syakaikatsudo/hogo/giji/hogo-cesa161101.pdf


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