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読書時間は特別な時間

特別な時間の背後に流れるBGM

読書をする時間はどのくらいだろうか。
15分、30分、それ以上の人もそれ以下の人もおられるだろう。
人生の中で、読書をする時間がもたらすものはなんだろうか。
本なんて読まなくても、動画や音声で十分内容は理解できる。
内容さえ理解できれば、本なんて読む必要はない。
何よりも本が好きな私は、そう考えている人に対して、どのように読書をすすめるべきかと必死で考えたことがある。
読書でなくてはいけない理由は何だろうか。
読書と動画コンテンツの違いとは何だろうか。

本を読むことでしか得られないものというのは、実際には存在しないように感じている。本で得られるものは、動画や音声を聞いても理解できる。
「あの本、面白かった!」
「あー! あれ、このあいだ聞いた!」
「クライマックスがすごかったよね!」
「あのセリフにはしびれたよな」
読んだ本の内容を話していても、音声コンテンツで聞いた友人と、本を読んだ私の会話の中に違和感は感じられない。
当たり前である。同じ本の内容なのだから、話に相違はない。
こうなってくると、聞いても十分面白いと感じることができるのなら、わざわざ読む必要はないし、音声や動画の方が『ながら聞き』ができる点でも優れている。「読書はオワコン」などと誰がが言っていたが、その通りなのかもしれない。
実際に読書会などを開催しても、「読んだものではなく聞いたものですが……」と言って発表する人もいた。友人も読書はもっぱら、自家用車を運転中に音声を聞くという方法を取っている。
では、本当に読書をすることの意味はなくなってしまったのだろうか。
そう考えていると、「私は読書が好きだ」という思いが心の中で「待った」をかける。

私にとって読書は栄養だ。
樹木は空気と水、適当な温度という三つが揃えば成長することを小学校で習った。しかし、そこに栄養が加わると、成長スピードが上がったり、思わぬ方向に成長したりすることがある。
私は自分の成長する姿を想像できることが、つまらないと感じてしまう。
将来像というものが、見えてしまうことにある種の絶望を感じてしまうのだ。絶望というほどのことではないのかもしれない。ただ、「80歳の自分の姿はこうなっているだろう」と今から想像できることが、何よりも面白くないと感じてしまう。だから、『絶望』するのである。

では、どうしたら絶望しなくて済むものか考えてみた。
すると、つまりは自分の将来像は見えない方が面白い。どうなるかわからないから、面白いと感じている。
そんな中で読書をすることは、自分の成長を見ながらいろいろな言葉に触れられる栄養となる。
私にとっての動画や音声というものは、自分の意識の裏側を通り過ぎていくものだ。自分の中に関わり合うこともなく、自分に直接触れることもなく、ただの情報として通り過ぎていくものとして認識している。
テレビを観ている時に、テレビで見たものが自分の人生に多大に影響を及ぼすこともあるだろう。しかし、本にはその力がテレビの数倍もあるように感じている。そこには、テレビには特別感がないことが挙げられる。
テレビは、日常の一部として溶け込みすぎているのだ。
「一日の読書時間は15分くらい」
そのように、時間をきっちりと答えられる人は多いだろう。それは、読書時間は特別な時間だからだ。勉強時間、読書時間、睡眠時間などは特別なものとして認識されている。
一日にテレビを何時間見ているか? という質問には、少し考える必要があると思う。それは特別ではなく、日常生活の一部として流されている時間だからである。こうした印象を動画や音声にも感じている。

動画や音声コンテンツは、いわば『人生のBGM』なのだといえるのではないだろうか。
動画や音声のコンテンツ、『ながら聞き』ができるからこそ、テレビのように流れていく時間の一部だという認識が強い。
カフェに入って読書するとき、BGMが邪魔だと感じて読書できなかったという人は少ないだろう。リラックスして聞いているBGMは、読書という『特別な時間』の背後に流れているものだからなのである。
私たちは、「本を読もう」と思って本を読んでいる。
そこには、この限られた時間を有効に使おうとする決意がある。もちろん、決意を持って行動することに関しては、動画や音声も同じである。
しかし、その後が違う。
BGMと化して『ながら聞き』に変化してしまう動画や音声とは違い、読書は「本を読もう」という決意のまま、本を読み続ける継続した集中力が必要なのだ。だからこそ、本が読めない人がいるのだと思う。

読書ではなく、動画や音声を聞いている人がいること自体に、読書が選ばれない理由が隠れているのではないだろうか。
人生という限られた時間の中で『特別な時間』を大切にした分だけ、最後に残ったものが多くなるのである。
本を読むことが特別である限り、読書という時間は限りなく特別な時間となって私たちの中に残っていくだろう。
その特別な時間が残す物もまた、私たちの中に残るのである。

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