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悲しい思い出を楽しく話す

悲しいことを悲しく話さないと楽しくなる

94歳の祖母の話だ。
祖母はこれまで、大変な苦労をしてきた。
小学校もろくに行くことができずに、働い家計を支えていた。
新潟の片田舎で育った祖母にとって、生きることは使命に近いものだった。
行きたいと思って生きているのではなく、生きなければならないものだった。
現代とは違って、昭和初期の日本では生きることは、食べることであった。
食べることは恵まれていることではなく、誰でも無条件に食べるということはできなかった。働いて、稼いできても、家族全員を食べさせることは困難だったのだ。
そんな中を、必死に生き抜いてきた祖母は、仕事なども選ぶことはできなかった。
学校を出ていないため、読み書きもできない。平仮名がかろうじてかける程度だ。
しかし、そんな過去の話題を、祖母は笑って話す。

読み書き算盤ができなかったため、綺麗な仕事はできなかった。
それでも美人だった祖母は、見た目が美しくないとできない仕事についていった。
これrについても、祖母は自慢げに話して聞かせてくれる。
「儂は美人だったでよう、周りの男が寄って来よったわ」
そんなことを言っては、ガハハと笑う。
一人称を『儂(ワシ)』という祖母は、とてもじゃないが色気があったとは思えない。
しかし、こうした雰囲気を自分でわざと作り出して、辛気臭い雰囲気にはしない。
これが祖母のポリシーなのだった。
「儂は、自分が苦労したっちゅうやつは信用せん」
このように常々言っていた。
「だからな、圭一(私のこと)も、人に対して苦労したなんて言うなよ。自分が苦労したかどうかは、他人が決めるこっちゃ。自分じゃない」
だから、私は、他人に苦労したなんて、自分からは決して言わない。
それが、私のポリシーにもなった。

「ばあちゃんはなんで、苦労したことを笑って話すの?」
苦労したことを他人に言わないことと、笑って話すことは違う。
自分が苦労したなんて言う必要はないが、何も笑って話すことはない。
それなら、話さないほうがいいのではないかと思う。
「それはな、儂のような字も読めん人間でも頑張れるっちゅうことを話すんじゃ」
どうやら祖母は、自分の経験が面白い話だと、本気で思っている様子だった。
学校に行くことができなかったことも「家は雨漏りしているような貧乏な家だった」と笑い話にして、読み書きができなかったことも「美人だったでいろんな人が教えてくれた」と笑い話にした。
ありとあらゆることを、笑い話に転換していくメンタルの強さは、本物だと思った。

芸能ニュースが好きな祖母は、いろんな芸能人の訃報を目にしては、嘆いている。
「まだ若いのに、自分で命を断つなんて、かわいそうに」
そう言って、涙を拭いている。
祖母は、誰よりも苦労しているため、誰よりも人の悲しみがわかるのであろう。
コロナ禍などは、外出禁止という規制が拍車をかけているように、そうしたニュースが飛び交っていたように思う。
そうしたことにも、祖母は本質を見抜いていた。
「コロナコロナっちゅうて、外出ができんのなら、夜くらいは外出せなあかん。人間中のは、運動せんと、気持ちが後ろ向きになるもんじゃ」
運動しないことによって、メンタルが壊れてくる話は、『運動脳』などの書籍でも語られているのを、読んだことがある。本質だと思った。
それでいても、人の悲しみや辛さがわかる祖母だからこその言葉というものがあった。
「なんちゅうか、本当に辛い時は、頭が辛いことでいっぱいになる。他のことは考えられんのじゃ。こうやって、亡くなって逝った人を、決して卑下したり馬鹿にしてはいかんぞ」
あまり、気持ちが落ち込んだような発言をしない人だからこそ、たまに言う、気をを落としたような発言が目立ったのだった。私の心に残っていったのは、こうした少し元気のない発言だった。
「本当は辛いことは辛いと言ったほうが楽だ」
祖母がそう言った時、返す言葉が見つからなかった。
しかし次の瞬間には、「楽だが、言わなければ忘れちまうもんだ〜」とガハハと笑う。
辛いことや苦しいことというのは、いつまでも心に残るものだ。
祖母の言った言葉の中で、「辛いことも言わなければ忘れる」という言葉だけは、真実ではないと思っていた。

祖母が亡くなって、四十九日が過ぎた頃、タンスの引き出しから、一枚の紙切れが出てきた。
そこには、力強い字でこう書いてあった。
「辛いは幸せ」
『辛い』も『幸せ』も漢字で書いてあった。
読み書きができなかった祖母が、書いていた文字の中で、初めて見る漢字。
辛いことは、幸せだと言っていたことがあった。
意味がわからなかったが、そんな時、祖母が言っていた一つの言葉を思い出した。
「辛いことがあったら、幸せだと思ったもんだ。辛いということは生きとるっちゅうことだからな」
祖母にとって、生きることが使命だった。
生きなければならなかった。家族のためにも生きることが使命だった。
「どうせ生きるなら、楽しく生きろ!」
学校から泣いて帰った時に、祖母から言われた言葉が胸に響いた。

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