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ライターズ倶楽部テーマ:コミュニケーションの鍵

コミュニケーションの本質を教えてくれた子供の行動

コミュニケーションを取ることが苦手だった。
思えば物心ついたころから、コミュニケーションというものに非常に苦手意識を持っていた。

5歳のときに母親が家を出た。
私の両親の離婚が原因だった。
父は酒癖が悪く、母に八つ当たりをしていた。それを実際に見ていながら、それでも成すすべなく見ている事しかできなかった。
それは、私にとっては非常に悔しい出来事として刻まれている。

コムユニケーションが苦手になったのは、この頃からだった。
それまでは、歌って踊りながら歩くような、陽気な子供だった。
どこか暗く沈んでいる母を、元気づけようと気丈に振舞っていたのかもしれない。5歳までの私には、母がこの世界の全てだったからだ。
言わば、天照大御神のようなものだった。母ら笑えば世界が輝いて見えたのだ。
しかし、母が家を出てから、私にとっての太陽を失い、世界はモノクロになった。光や色を感じなくなった。
何を見ても、何を聞いても面白くなく、私は自然と無気力になっていった。
それでも小学校に上がるころには、人と交わることができるようになった。
交流を持とうとする気持ちが出てきたのだ。
「友達100人できるかな?」
という歌が流行した。学校でも歌われたこの歌は、私にとっては強迫に近いものだったのだ。
何しろ、人との距離感がわからない。
世界がモノクロになってから、私は人との距離を取って生きてきた。それは意として距離を取っていたため、問題には感じなかった。
しかし、いざ友達を作ろうと思っても、距離感がわからない。感覚的に理解していた人との距離というものを、忘れてしまったのだ。

それ以来、ずっと苦しんだ。
中学に上がっても、人との距離感を解消することが無かった私には、初恋を経験したときも女の子との距離感などわかるはずもなかった。
中学の記憶は、その初恋の女の子のこと以外、ほとんどを覚えていない。記憶がないのである。
何かの本で読んだことがあるが、記憶がないというのは、人との交わりが無かったということと等しいらしい。つまり私は、中学時代にはほとんどの人と交流が無かったという事なのだ。もちろん、好きな女子と話すことも、ままならなかった。

会話もまともにできなかったが、手紙を渡す事ならギリギリできた。
いわゆるラブレターである。
書き直し、書き直して、最期に書いた手紙にはこう書いた。
「好きです。あなたに嫌われても、私はあなたのことを好きでい続けます」
ほとんど、脅迫文である。自覚のないままに、相手を怖がらせている。
今ならそう思う。しかし当時の私はそうは思わなかった。
本気で書いた、本気のラブレターだと思っていたのだ。
コミュニケーション能力は、間違いなく低い。限りなく低いと言える。

小学校でも、中学校でも、友達というものができなかった。
すると、次第に、自然に尖っていった。
「触るもの皆キズつけた」という歌詞が有名な歌のように、近寄ってくるものを切りつけるような鋭さを持ったのだ。目つきは鋭く、「近寄って来るな」というオーラをまとう。話しかけてほしくなかった。
コミュニケーションが取れなくなってから、10年という月日が経って、自分の心が限界を迎えていたのだ。
「自分なんて、誰も理解してもらえない」
そんな気持ちになっていた。そう、自分ではなく、周囲の人間のせいにしたのである。どうせ分かってもらえないという、自分に対しても、周囲の人に対しても、諦めの気持ちになっていたのだ。
そうした気持ちが、尖った態度によって表現された。

高校受験までもがコミュニケーション不足によって、人生を大きく変えてしまう。
当時私の家は、離婚問題で揺れていた。
父が再婚した継母と離婚をするための裁判になる直前、というタイミングで、私は誰にも相談できなかった。
学校の先生も、現在とは時代が違ったためか、そこまで親身には聞いてくれなかったと記憶している。
そこで私が選択した、進路選択の為の方法は“あみだくじ”だったのだ。
何を思ったのか、「それなら“あみだくじ”で選ぼう」と本気で思ったのだ。これは現在においても、他人に話すと信じてもらえない。
そして選択した進路をそのまま書いて、学校に提出する。すると担任から呼び出しがった。「……君、至急、職員室まで来てください」おそらく進路の件だろうと推測したが、素知らぬ顔で職員室の扉をノックした。
「おお、進路決定書の提出ご苦労だったな。ところで、第一志望と第二志望の学校のレベルが逆になっているが、このまま出してもいいのか?」
最初は何を言っているのか理解できなかった。
しかし、よくよく聞いてみると第一志望の高校よりも、第二志望の高校の方がレベルが高いらしい。明らかなミス。全く気付かなかった。
そうだったのか……、というショックはあった。初めて知ったことだったからだ。学校名を聞いても、レベルなどには無頓着だった。
しかしここでもコミュニケーションが苦手な私は、面倒に思い、ついつい口走ってしまった言葉は、「大丈夫です」だった。

これは、試験日になって後悔する。
男子校だったのだ。
受験会場には男子しかいなかった。おかしいとは思っていたが「あれ? 女子と男子は別々の受験なのかな?」という程度にしか思っていなかった。何せ、男子校というものがあること自体を知らなかった。一生の不覚だったと感じたのは、高校の合格通知が来てしまった瞬間であった。なぜだろうか、男子校だと気づいた瞬間からは、答案用紙を白紙で出したというのに。

しかし高校での出会いは、私のコミュニケーション力に変化をもったらせることになる。
高校一年と三年のときに同じクラスになった友人Nの存在だ。
Nはコミュニケーション能力が格段に高かった。というよりも、私にとっては“無神経”といってもいいレベルだ。これは悪口ではない。
Nが私と友人になった理由を「自分とは真逆の考え方だから面白い」と思ったとのちに語っている。それは私も同じだった。
コミュニケーションというものに、真っ向から勝負を挑んでいた私にとって、息をする様に人とコミュニケーションを交わしているNを見ては、自分にとって何が足りないのかを考えてみたものだった。
男子校というメリットを活かし、近隣の女子校とコンパをすることが、日常だった。
そこで、いかんなく実力を発揮するNを見てきた。
男子校であるため、女子というだけで免疫が衰えているのか、緊張して話せない男子が多かった。そんな中、彼は全く胃に介することなく、女子たちと距離を詰めていく。
まるで、土足のまま上がり込む図々しい態度の様である。
私にはこうした行いができるとは思えなかった。「親しき中にも礼儀ありだろ」と考えていた私には、所詮は無理だったのだろう。

私の高校生活は、当然のように彼女もできず、薔薇色の高校生活とは無縁の、薄暗くモノクロのままだった。
ただ、Nというサンプルを見ることができて、私にとっては同じモノクロでも、少しだけ色がついてきた様に感じていた。

高校卒業後、就職して会社勤めをしても、人との距離感はわからないままであった。
物心ついた頃から、ずっと距離感のわからない人間関係が、私にとっての日常となってから何十年と経っていた。私は一生このままだと覚悟していた。
どうしたって、この状況での一発逆転は考えられない上に、想像すること自体が難しいと感じていた。

高校を卒業してからというもの、定期的に会っていた友人は一人だけだった。
Nである。
彼とは定期的に会い、お互いの状況報告などを行なっていた。こうした関係が続いていたのは、お互いが惹かれたところが、「真逆の考え方だった」というところが原因だろう。人生には選択する場面というのが、一定数登場する。そうした時には自分の考え方で進むことも悪くはないが、全くの逆方向から眺めてみると、視点が変わることによって思いもつかないような選択が選べることもある。
そうしたセレンディピティのような関係性が心地よかった。

そんな定期的に会っていたNが、事業を立ち上げるという。
そこで私にも手伝わないかと、声をかけられた。
「真逆の視点」を手に入れたかったからだと、推測している。これには納得できる。多分、私が事業を立ち上げて、自分が経営者となる時には、野球でいうところの“ヘッドコーチ”の様な銘参謀をそばに置きたいと思うはずだからだ。
「それは違うんじゃないですか」と、苦言を呈してもらいたいのだ。
自分の選択は間違えてしまうものだからこそ、ブレーキをかけてくれる人が貴重なのだ。

事業というのは『放課後当デイサービス』だった。
障害をもった子供達を預かる、福祉施設である。保育事業だ。
私には子供がいないことで、子供を苦手としていたが、思い切ってチャレンジすることにした。どんなことでも、新しい挑戦をすることが、私は人生を楽しんでいく秘訣だと思っているからだ。
しかし、一番不安だったのは、私のコミュニケーション力だ。大人に対しても、うまく人との距離感を掴めないのに、子供との距離感を掴むことはできるのだろうか。

初日でその不安は一掃された。
話すことなんてしていない。なんなら、そこに座っていただけである。
それなのに、一人の女の子が、座っている私の膝の上を枕にして、眠ったのだ。
なんということでしょう。
こんなセリフが心の中で叫ばれた。しかし彼女は眠っている。静かにしなくてはいけない。そっと、背中をポンポンとしてみた。
温かい。
温もりを感じる。
聞けば、彼女は普段、誰かに膝枕をされる様なことはないのだという。
さらに驚く。
ではなぜ、私の膝の上に?
「子供というのは不思議なもので、人の心がわかる」
Nがそう言って教えてくれた。
人の気持ちがわかる? どういうことだ? 私の心には何があるというのか。
子供に嫌われる人は、どれだけ資力を尽くしても嫌われるらしい。逆に、子供に好かれる人は、何もしなくても好かれるということだった。
さらに驚いた。
私なんて、大人とも上手くコミュニケーションがとれない人間である。
そんな私が、好かれているというのか。

私は、ずっと、子供に好かれる大人というのは、よく話して、よく笑って子供と遊んであげるような人だと思っていた。そう考えれば、私は真逆の立場にいる。Nの事業を手伝うときも、子供相手の仕事だとは理解していたが、子供に好かれなくても他にできることもあるだろうという気持ちだった。半ば、諦めていたのだ。
「一生、人との距離感がわからないままで終わる」
その様に考えていた。
それを、根底から覆された。
話さずとも、無防備に飛び込んで来た女の子の目には、私はどの様に写っているのだろうか。
コミュニケーションというのは、なんなのだろうか。
言葉や、感情を表現することで表すことが、コミュニケーションではないのか。

そこで煮詰まった私の目に、赤ん坊を抱いたお母さんの姿が映る。
私には子供がいないため、気が付かなかったが、赤ちゃんとママはどの様にコミュニケーションをとっているのかと考えてみたところ、言葉ではない、ママが感情を伝えることでもないではないか。一方的で、ストレートで無防備な“赤ちゃんそのものを受け入れる”ことによって、親子という関係性が保たれている。
「そうか、受け入れることが重要なのだ」
私は、無防備に飛び込んできた女の子を、素直に受け入れた。
それによって、彼女は「ここが安心できる場所だ」ということを理解した。
これこそがコミュニケーションの鍵なのではないだろうか。

かつて、猫を飼っていたことがあったが、猫とのコミュニケーションをつい、会話や撫でることで保っていると思ってしまっていた。しかし、よく思い返せば、そっとそばに居るだけで猫は「グルングルン……」と喉を鳴らしていたではないか。
愛情を持って接するというのは、言葉や何かをしてあげる事ではない。
その場にいて、その全てを受け入れることから始まるのだ。そこに会話や余計なものは必要ないのだ。言葉などはそれを可視化したに過ぎない。真髄というのは、心の中に潜んでいるのである。

私は、物心ついた頃から、人との距離感に苦しんでいた。
しかしそれは、「言葉を交わそう」「何かをしなくては」と思っていたからだ。
近くにいて、そばにいて、その人の全てを受け入れる。
そこから始めるコミュニケーションというものを、私は子供から教わった。

何かをしてあげようなんて考えず、じっとそばにいて、優しく受け入れてあげてください。そこから相手との関係性が始まるのです。

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