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江戸時代の本屋

江戸の出版文化

江戸の出版物のはじまり

1603年に徳川家康が創設し、1868年に崩壊するまでの260年続いた江戸時代では全国各地に約300近くの藩が存在していました。
それらの各藩のマークがつくられたのが、出版の始まりと言われています。

貸本屋という存在

江戸には本屋がたくさんできたのですが、とりわけ今から考えると驚くのは、貸本屋があったことでしょう。
江戸には600件の貸本屋があったと言われています。
しかも、その貸本屋一軒につき、お得意先が100件以上取引先があった、というのです。
ざっと計算しても…
600×100=60000件!!
60000世帯が利用していたなんて、TSUTAYAもビックリですね!!

レンタルショップTSUTAYA

TSUTAYA書店の名前の元になった人がいます。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)
という人物です。そう、TSUTAYAとは蔦屋のことだったのです。
蔦屋は吉原の出身で、吉原のガイドブックを作ったところからキャリアがはじまっています。吉原の良いところをまとめた本が売れました。
その後も吉原にちなんだ本を出版します。
特に、
版画や錦絵で美しく吉原の遊女たちを描いた本を出版し、ヒットさせていきます。
当時の吉原は、女の人と遊ぶところというだけではなく、知識人、文化人が集まって交流するところだったことも、ヒットの理由かも知れません。
いろんな知識人、文化人のネットワークというものがつくられていった場所であったため、蔦屋自身のネットワークも広がっていったのです。

プロデューサー蔦屋重三郎

「こういう人たちにこういう本を売ろう」という、流通のルートを開拓するということもしていました。
今で言うとプロデューサー業と言っても良いかも知れません。
蔦屋の一番の功績に、『北川歌麿や、東洲斎写楽を世に売り出した』というものがあります。
浮世絵というものがまだそこまで流通していなかったころ、北川歌麿が無名なうちから自宅に住まわせ、世話をしながら歌麿を世に売り出していきます。
或る時、付き合いのあった狂歌師たちが、狂歌を愉しんでいたことに目を付けます。
狂歌を作る人たちの中で出版をして、自分たちの狂歌を載せてもらってみんなで共有する同人的な営みがありました。
その狂歌本の挿絵として、北川歌麿に美しい絵を描かせて、狂歌を添えることを思いつくのです。
当初の狂歌本には挿絵がなかったが、これをきっかけに浮世絵師などによって挿絵が描かれるようになり、このような挿絵の入った狂歌本を絵入狂歌本と読ばれます。
狂歌師たちは、自分たちの狂歌が載っているから買うわけです。
こうして、北川歌麿を世に売り出していきました。

【書籍紹介】
『貸本屋おせん』
高瀬乃一著
物語の舞台は、文化年間の江戸浅草。女手ひとつで貸本屋を営む〈おせん〉の奮闘を描く。盛りに向かう読本文化の豊饒さは本好きなら時代を超えて魅了されることでしょうし、読本をめぐって身にふりかかる事件の数々に立ち向かう〈おせん〉の捕物帖もスリルに富んでいます。


浮世絵師が認知された

江戸時代の浮世絵は、美人画、顔をクローズアップした大首絵というものが流行ります。
大首絵という斬新な構図で浮世絵を売り出していったのもまた、蔦屋重三郎であったと言われています。
やがて、歌麿が売れっ子になってしまって、他の出版社からも絵を出してしまうようになります。
蔦屋が次に目を付けたのは、東洲斎写楽。
写楽の場合もまた、大首絵の役者絵で、黒い背景に歌舞伎役者の顔をクローズアップした斬新な構図の浮世絵でヒットさせます。
蔦屋のネットワークと出版と流通まで踏まえたアイデアで、歌麿や写楽も世に生み出されていったわけですね。
こうした出版文化によって、江戸の大衆文化というのが確立されていったものが、今日にまでつづいているのです。
こうしてみると、出版というものが、日本の歴史を大きく変えたのだと思えるのは私だけではないはずです。

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