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マルコによる福音書の新説

マルコとはどんな人物だろうか

福音書の著者たちは自分を明かさない

実際にはマルコという人物が誰なのかは、誰にもわからない。
「マルコによる」という表題が付されれているところから、本書の著者はマルコであると一般に認められてきた。

新約聖書をみると、
・ローマにおけるペドロの弟子として働いていたマルコ
・マルコと呼ばれているヨハネが使徒言行録に言及されている
・マルコはパウロとバルナバと小アジア宣教旅行に同行した人物でヨハネとも呼ばれている
・パウロの手紙或いはパウロのものとされる手紙でもマルコの言及がされている

これらの箇所に基づくと、本書の著者であるマルコは、パウロ或いはペトロと宣教活動を共にした人物である可能性が考えられる。

しかし、マルコとの関係に触れるペトロの手紙はペトロ自身の手によるものかどうかきわめて不確かで、パウロが言及するマルコと使徒言行録に登場する「ヨハネ・マルコ」が同一人物であるかどうかも定かではない。

19世紀以降の聖書本文研究によって明らかになった福音書の種種の文学的特徴によって、この説は信ぴょう性を失い、今ではマルコによる福音書の著者は不明とされている。

誰かわからないことに対するロマン

結局のところ、マルコとは誰なのかわからない。
しかし、何もかもが解明されるということは良いことではない。

マルコに対する記述がこれだけ残っているのに、解明されるに至らない、証拠がないなんて、ちゃんちゃらおかしい気がする。
そもそも、聖書に書かれていることが事実である以上、マルコという人物が誰なのかという記述に信ぴょう性がないなんて言えるのだろうか。

そもそも、マルコという人物が、ヨハネかも知れない、パウロかも知れないなんて考えるだけでワクワクする。
マルコがヨハネだとすると、ヨハネは自身で福音書を書いたことになる。
もし、自分で自分のことを事実として残そうと考えたとき、本当に事実だけを書くのだろうか。
私なら、少し自分をカッコよく書きたいと思うだろう。
やはり、事実だけをそのまま書くとは到底思えない。

それなら、このマルコの福音書に書かれているヨハネは、脚色されていると考えても良いと思う。

荒れ野に叫ぶ者の声がする、
『主の道を整え、その道を歩む道をまっすぐにせよ』
と書き記されているように、洗練者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。
ユダヤの全地方、またエルサレムに住むすべての人がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けていた。
ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食物としていた。
ヨハネは宣べ伝えて言った、
「わたしよりも力のある方が、後からおいでになる。わたしは身をかがめて、その方の履物の紐を解く値打ちさえない。わたしは水であなた方に洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」

マルコによる福音書より

ほらほら、どうですか??
カッコ良く書いてませんか??
らくだの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め…
なんて、何かの主人公のような描き方だと思いませんか?

こうして考えると、私の見解としては、マルコはヨハネであり、ヨハネは自分をカッコよく書くために、マルコという名前を利用した、という説が有力ではないかと思います。

いつの世にも、自分をカッコよく見せたいという人は、必ずいるものです。

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