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ライターズ倶楽部課題テーマ:今こそ読むべき一冊

風立ちぬ、いざ生きめやも

「今度のゴジラ、すごいね! とっても面白かった!」
2023年11月3日に公開された映画、『ゴジラ−1.0』は興行収入も60億円を超える大ヒットとなったが、私の周囲にも劇場まで足を運んだ人は多かった。中には、「アマプラも合わせると10回観た」という人もいたほどである。
こんな熱狂的なゴジラファンに、今回の映画の魅力を尋ねてみたところ、冒頭のような答えが返ってきたのだ。
「すごい」「面白い」など、よく聞く感想である。幼少期から比較的こうした感想を言ってしまうことが多かったように思う。
「すごかったよ」「面白かったよ」と言うのは、ある意味、便利な言葉である。便利であるから、使われた側も、その内容について突っ込むことはしない傾向にあるようだ。
「どう面白かったの?」と聞いた時、色々と言葉を尽くすものの、結局最後は「観たらわかるよ」と言われてしまうことが多い。今回もそのパターンだった。

私が、子供の頃から慣れ親しんできた「面白い」という言葉に疑問を抱いたのは、この本に出会ってからだった。
『風立ちぬ』という書籍である。
この題名を聞いて、スタジオジブリの作品を思い浮かべる方がおられると思うが、ジブリ作品のそれとは似て非なるものである。
そもそもジブリ作品のそれは、堀越二郎という実在した航空技術者がモデルとなっている。堀越二郎が、零戦と呼ばれる戦闘機の開発に携わっていく中で、菜穂子という女性に出会い、その後彼女は結核を患いながらも、主人公を健気に支えるというお話になっている。
しかし、本当の『風立ちぬ』という作品は、堀辰雄という一人の作家の実話を元にした、生と死がテーマの作品なのだ。ここには、零戦も堀越二郎も登場しないため、ジブリ作品とは全く違う作品となっている。

『風立ちぬ』は堀辰雄による文学作品である。
主人公は『私』であるが、職業は小説家であることからも、これは堀辰雄本人ではないかと言われている。つまり、私小説とも言える。
1933年の夏に、軽井沢で偶然に出会った節子と結婚の約束をする。
婚約した節子は結核を患い、療養先にサナトリウムを選択する。このサナトリウムで起こる出来事を、日記形式で、詩的な表現を用いて、丁寧に描かれている作品なのである。
この作品の魅力というのは、なんと言っても、その表現力である。
実際に、堀辰雄自身も、婚約者が結核によってサナトリウムに入院していることから、実在した婚約者を思っての文章力だと思うが、それにしても、その描写は見事なのである。
作品の背景を考えていただくだけで理解できると思うが、日常といっても、急激な変化などない、ゆっくりとした時間が過ぎていくことを書いている。
それにも関わらず、私を魅了したのは、言葉の使い方に他ならない。

私は、この作品を読んでからというもの、「面白い」や「すごい」という言葉を使うことを控えるようになった。
「この本、面白かったよ」と言って、その本を貸した相手に、「全然笑えなかった」と怒りに満ちた言葉と共に本を突っ返されたことがあった。その時は、「いやいや、面白いってそういうことじゃないし」と鼻で笑っていたのだが、よくよく考えてみたら、確かに「面白い」というのは、「バカうけしますよ」と言っていることと同意になる。
そう考えてみると、「面白い」や「すごい」というのは、「エモい」や「キモい」と同じレベルの言葉であるように思えてきた。
日本語というものは、変化しながら、進化してきた歴史がある。
時代とともに、使われるようになる言葉と、使われなくなった言葉が、毎年のように入れ替わる。広辞苑に至っては、最新版は一つ前のものに比べて、一万項目も追加になっている。
「言葉は生きている」なんてCMもあったが、「言葉は生物だ」という作家もいるほどだ。言葉というのは、いつも変わらずそこにあるわけではないのだ。
こうしたことから、「面白い」や「すごい」という言葉を使うことに、抵抗感を感じていた。「エモい」という言葉を生まれて初めて聞いた時と同じ感覚を持ったと言ってもいい。
「この本は、序盤は物悲しい気持ちに苛まれると思うけれども、やがて救われたような感覚を味わえるから、安心して読んでもいいよ」
と言って、本を貸したり、進めたりするようになった。
しかしそれはそれで、問題があったのだった。
「それって、ネタバレじゃない?」と言われるようになったのだ。
確かに、Twitterでも私の投稿によって、ネタバレだと言われることが増えたことは、事実だった。
これはどうしたことだろうか。
言葉を重ねずに話すことによって、「面白い」や「すごい」のような薄っぺらい感想や内容しかはなせない。
しかし、言葉を尽くして話すことで、内容をより詳しく話してしまう。どうしたら、内容を明かさずに、言葉の奥行きを持って話すことができるのだろうかという問題に直面したのだ。
『風立ちぬ』をもう少し読んでみることにした。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」
この台詞は、ポールヴァレリーという詩人の詩の一説、「Le vent se leve,il faut tenter de vivre」を翻訳したものだ。「風が起きた、(お前は)生きることを試みねばならない」という意味である。「生きてやるぞ」という決意を促す文章である。
風が吹いたことによって、その風を全身に浴びた後、「生きてやる」と決意をもって病魔と運命を相手に戦う姿勢を持っている描写である。
これを冒頭に持ってくることによって、力強く立ち向かう姿勢から、だんだんと病気や運命には‘抗うことができないという、諦めにも似た気持ちを、婚約者という関係にある自分には何ができるのか、どのように寄り添っていくべきなのかという、心の変化を、ゆっくりとした時間の中で巧みな言葉によって表現している作品なのだ。

現代において、言葉というものが、大変軽い気持ちで使われていることが多い。その上、言葉の奥行きがなくなってしまったと感じている。
日本古来から使われている言葉というものが少なくなり、日本語英語のような表現が増えたこともその原因の一つだと感じている。それは、この『風立ちぬ』の中には、そうした表面的な言葉というものが存在しない。奥行きがあり、時間というものがまるで目に見えるような表現で描かれている。

1933年というと、まだ太平洋戦争が起こる以前の、昭和初期の頃であり、この頃の言葉というものが、いかに美しかったかがわかる作品でもある。
「何をお考えになられているの?」
これは節子が、主人公に向けて放った言葉であるが、なんと美しい言葉であろうか。
とてもではないが、婚約者に向けての言葉だとは想像し難い。
かしこまり過ぎていると感じられる方は多いと思うが、実際にこのような丁寧な言葉を使うことによって、相手を思いやる心や、相手を尊敬する心、敬愛する心などもごく自然に育まれていくように思う。
よく、明治以降の時代を描いた作品の中には、丁寧で美しい言葉を用いた作品が多く存在する。このような言葉によって、私たちの心というものは、清らかになっていくのではないだろうか。
これは大変なヒントになると考えられた。
『丁寧でありながらも、決して他人行儀ではない』
こうした言葉を、私は現代社会の中では学ぶことはなかった。丁寧であるのは、丁寧語や尊敬語に代表されるような『敬語』と言われるものであり、このような言葉を使って話していると、妻からは「何、その言葉使い。馬鹿にされてるみたい」言われてしまう有様である。
昭和初期頃までの日本語は、なぜ丁寧な言葉で口喧嘩などができたのだろうか。
口喧嘩とはいえ、現代のような下品なものではない。もっと高尚な言葉使いをしたものであり、血圧が上がるような言い争いをしなかったのだろうか。それとも、していたのにも関わらず、普段の丁寧な言葉によって、そのような下品な言葉はかき消されてしまうのだろうか。

「〜だろうかしら」
「〜していらっしゃるの」
「〜お思いになられるわ」
このような言葉を使っている時代に生まれたかった。
映像でも知りたいと思っていた矢先、『神様のカルテ』という映画を見つけた。少し前の映画のようだが、この中でも、主人公夫婦は丁寧な言葉で会話をしている。
お互いを『さん付け』で呼び合い、声を荒げることもない様子が描かれていた。
『風立ちぬ』の作品中でも、こうした描写は数々登場した。
現代においては、現実的ではないのかもしれない。しかし、それでも、こうした言葉を日常的に使っていた時代に生まれたかったと心から思っていた。

サナトリウムというのは、『高原療養所』とも表現されており、軽井沢という気候の良い土地を舞台にした物語の中でありながら、そのほとんどは節子が入る病室の中での出来事である。
高原療養所という、いわば明るい土地を舞台にしながらも、結核という当時は不治の病と言われていた病魔と戦う様子は、明と暗、光と影、陰と陽のようである。
光があるから影がある。太陽があるから夜がある。
生があるから死があるという表現になっているように感じる。
死にゆく婚約者を看取るという、残されるものの辛さを描く。そして、節子は健気に生きる姿を描きながらも、自分の死を少しずつ受け入れていく様子を同時に描く。
正反対のものを描くことによって、そのものを形作っていくという、作品の描き方は、まさに人間の生き様そのものであるように思われるのだ。

私たちが使っている言葉というものも、その対象物の一つである。
言葉というものは、表面的な意味合いと、言葉の裏側というものが存在する。これついては、節子が言う「生きて」の言葉の裏側には「もっとあなたと過ごしたかった」という意味が込められていることで証明される。
『風立ちぬ』という作品を読むべきだと思う理由は、こうした私たちが忘れてしまいがちな、相手を思う気持ちや、相手のことを優先して考える心というものを持ち続けることの大切さを思い出すためである。
自分を優先する生き方は、言葉を荒く、激しいものに変えているのではないだろうか。
私たちが使っている言葉は、今の私たちの心を表していると言っても過言ではないのだ。

「ヤバい」のように、表と裏の意味を同時に表現する言葉を用いることによって、「とても美味しい」という意味と、「とても不味い」という意味を場面によって使い分けている言葉もある。これは、状況によって理解する力が必要になり、表面的な言葉の形はおなじ「ヤバい」で統一されている。これに「面白い」も含まれてしまう。
「この言葉さえ使っていればいい」という、「面白い」、「ヤバい」などの表現が単純な言葉が多くなってしまっている現代社会では、言葉によって表現すること自体が軽んじて考えられていることを表しているのではないだろうか。
私たちは、言葉を使って様々なことを表現するものの、言葉そのものを、そのままの意味としてしか発しないことによって、言葉は平坦なものになる。
ましてや、言葉の表現さえも同じであれば、その言葉は「面白かった」「すごかった」という、幼稚な表現となってしまうのだ。
しかし、言葉の奥行きのある表現として、対比するものを表すことで意味を成す言葉を使うためには、受け取り側に言葉の裏側を読む力がないと、言葉の意味が変わってしまう。
つまり、言葉というものは、発信側と受け手側の両方の協力の元、ようやく意味を持たせることができるものだということがわかった。
そう考えてみると、『神様のカルテ』も『風立ちぬ』も相手に対する思いやりが、何よりも先にあった。つまり、相手を信じている力もあり、相手のことを先に考えることを優先しているという傾向があったことに気づく。

どうしたら、内容を明かさずに、言葉の奥行きを持って話すことができるのだろうかという問題の答えとしては、自分の独りよがりな言葉の羅列ではなく、相手のことを考えた言葉を選ぶことが重要なポイントとなりそうである。相手のことを考え、相手を思いやる心をもって伝えることを大切にしなくてはいけないのだ。
相手に対する思いやりの形が、言葉になっていくのだろうと、教えてもらった。
現代社会において、人間関係が希薄になっていると叫ばれているが、こんな時代に生きている私たちにこそ、この『風立ちぬ』は読むべき作品だと思うのである。

最後に、私はこの『風立ちぬ』という作品を、もっと上手く多くの人に薦めたい、もっと多くの人に読んでほしいと考えたことをきっかけとして、言葉やライティングを勉強しています。
この記事によって、『風立ちぬ』という作品を、一人でも「読んでみたい」と思って下さる方がいらっしゃったら、私にとっては最高の賛辞です。

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