人が尽きなく生きるということ

昨日は、「ラーゲリより愛を込めて」を観た。戦後、ソ連の収容所・ラーゲリで無実の罪で捕まった男と、戦時下で離れ離れになった妻や子どもたちとの愛の物語である。
この作品は、ただの「戦争映画」ではない、としばしば耳にしていた。「戦争映画」が何を指すのか、どのようなものを指すのか、私はよく分からないけれど、私がこの作品を表すとしたら、戦争という悲惨な感情が蠢く中で、人々が希望と愛を失わず生きようとした話だと思う。

この作品は「愛」の物語である。

鑑賞後、この言葉がとても腑に落ちた。

愛とか希望とか抽象的過ぎて、正直、時々そんな綺麗事じゃ無理なんだよ!と宛先のない叫び声をあげたくなる。けど、やっぱり、希望を持ち、愛し続けること、信じ続けることこそが、人間らしく生きることに繋がるのだろうと思わずにはいられなかった。

「赦すとか赦さないじゃないんです」
私は赦したいし、赦されてほしいと願わずにはいられないことがたくさんある。でも、そうじゃない世界線でも希望と愛を持つことができるんだと、励まされた。
絶望も裏切りもあるけれど、起こったことはなくならないけれど、きっと前を向くことができる。現にそうして生きてきた先達から学んだことが大きい。


また、最近、「まなざしの地獄ー尽きなく生きることの社会学」を読んだ。
高度経済成長期の日本において起こった連続射殺事件の犯人であるN・Nの生活史を軸に、当該時期の日本の階級構造と、それを支える個人の実存的意味を描き出した論考である。
著者である、三田宗介先生はある記事の中でこう言っている。

「学生時代のぼくは、集団や社会を抽象的に概念規定したり分類したりするだけの社会学をつまらないと感じていました。社会とは、一人一人の人間たちが野望とか絶望とか愛とか怒りとか孤独とかを持って1回限りの生を生きている、その関係の絡まり合い、ひしめき合いであるはずです。切れば血の出る社会学、〈人生の社会学〉を作りたいと願っていた。1人の人生に光を当て、その人が生きている社会の構造の中で徹底的に分析する。その最初のサンプルを提示するつもりで書きました。」
(出典:https://book.asahi.com/article/11576351

自分が忘れないために、社会学に言及しているところまで抜き出して、太字にしたけれど、一人一人の人間がいろんなものを持って人生を生きている。

私はラーゲリに出てくる人々と、N・Nの姿から、人は尽きなく生きようとしていることをありありと感じた。それはどんな人にも当てはまることだと思う。
私は、尽きなく生きようとする人々の人生の豊かさも悲痛も、全ては伝えることができない。その人に内包される思考も身体性もその人のものである。けれど、どうにかこうにか人の生を記述していくことを諦めたくない。人の一側面だけではなく、できうるかぎりその人の蓄積に、その人の蓄積を作り上げてきたものたちを記述したい。

その人として捉えること、そして、私という人間を通して見えてきた人であること、私はその自覚を持って、今日も研究に取り組んでいきたい。


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