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小説を書き始めて自分が赤ちゃんだと気づいた話

年明けから毎日1ページ小説を書いている。

初めての長編小説だ。

白状すると、これまで小説を書く書く言いながら長編を避けてきたのは、「上手く書けない自分」という現実と向き合うのが怖かったからである。

しかし、「いつか準備が整ったら書こう」のままでは永遠に準備が整わないのは明白。齢29にして、ようやく重い重い重い腰を上げて見切り発車した訳だ。

そして、予想通り全然書けない。

特に、風景の描写と人物の描写が全然できない。ボキャブラリーと、脳みそに入ってる情報が圧倒的に不足しているのだ。

これまで私は、Web編集者として文字の世界で生きてきたから、人並み以上に語彙があるつもりでいた。

しかし、それはあくまで文章を作ったり、考えを伝える領域のものであり、風景を描写したり人物を描くための言葉はあまり蓄えてこなかったのだ。

小説の中で描きたい風景や人を思い浮かべようとしても、ぼんやりともやがかかったようで要領を得ない。

映像が浮かんでも、それに当てはめる名詞がわからない。建物の外観の一部をとっても、「そういやこれってなんて名前なんだ?」となってばかりである。

これはいけない、と思って、トレーニングも兼ねて街中の人物や風景をもっとじっくり観察して言葉にしてみよう、と思っても、やはり語彙でつまづいてしまう。

「あぁ、俺が見てきた世界って、こんなに狭くて解像度が低かったんだな」

と、新鮮なショックを受けた。早速本屋さんに行って、建物や服飾を図解で説明している本をパラパラとめくってみると、知らない言葉がどんどん出てくる。

新しい言葉とイメージが頭に入ると、街中で同じものに出会った時に、気づくようになる。これまでの暮らしでスルーしてきた情報が浮かび上がってくるのだ。

「あぁ、赤ちゃんと同じなんだ」

と思った。知らないものに出会い、それを表す言葉を獲得することで、少しずつ言葉で自分を取り巻く世界を学んでいく。

私の場合、風景と人物の外見については、赤子スタートなのだ。

それだけじゃない。これからなにか物語を書くにあたり、これまで触れてこなかった領域を記す必要に迫られたら、私は幾度となく赤ちゃんスタートを繰り返す必要があるのだ。

書けない不甲斐なさに耐えながら、少しずつ世界の解像度を上げていく。

途方もない道のりにも見えるが、幸い言葉が大好きなので楽しみな気持ちのが強い。もっと早くやってればよかったぜ。

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