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【夢日記】実態は蛇であるらしかった

人間の体はどうやらかりそめのものらしい

自分はまたしてもなにかの合宿に参加しているのだが、頭のなかから蛇の映像が消えない、という夢を見た。
どうも自分は本当は蛇なのではないか、と思ったら、頭の中の映像はますます鮮やかにはっきりとしてきて、自分の体のありようがわかってきた。

あたしは小山のように大きな蛇で、とぐろを巻き、そのとぐろの中心に自分の持っているものを抱え込んで、本当に小山のようにまとまって、じっとしているのであるらしかった。小山は人間よりもずうっと大きい。

この動き回る人間の体の他に、そういう本当の体があって、持っているものを守っている。持っているものは一体なんだろう?そのように考えを自分の本当の体のほうに巡らせると、頭のなかの映像がすこしずつ答えをみせてくれるようだった。

とぐろが解かれたら

映像のようにそれがみえる。とぐろが解かれると、体の中心に抱え込んでいたものが見えてくる。どうやらそれは全部食べ物であるようだった。

「たいへんだ。食べ物であるなら、時間が経つだけで腐ってしまうではないか」

あたしは食べ物が腐ってボリュームを失い、散り散りに風にとばされるビジョンを見てあわてていた。
人間の体は合宿所の食堂になっているカフェテリアにあったので、カウンターから手当たり次第に食べ物をもらって、右手にも左手にも抱え込んだ。しかしそうやって欲張っていると、なにひとつ食べられないのだった。

合宿のリーダーが、「食事は早く済ませて次の課題に取り組みなさい」と言っている。でもなんにも食べられないし、何も蛇の体のところに持っていくこともできない。
どうしたらいいのか。ここには手も足もあるというのに、何もないのと変わらないような気持ちになった。本当は蛇だから、この手も足も幻なのかもしれないが。

目の中には相変わらず自分のほんとうの体があり、とぐろはゆるんで、小山のようだった形は崩れてどんどんみすぼらしくなってゆく。

自分はだめな蛇であるらしい

自分のとぐろが完全に解かれた時に、周りの蛇たちも見えるようになった。それぞれ小山のようにとぐろを巻くことができるが、抱え込んでいるものはそれぞれ違うのだった。とぐろの解き方も、どうやらだいぶちがうのだった。

優雅な太った蛇がおり、とぐろの中心が見えても、そんなにモノを抱えてはいなかった。その蛇はとぐろそのものが、小山のように豊かなのだった。とぐろを解いてゆうゆうと移動してゆく。
あたしはその蛇を、自分の母のようだと思った。母はとっくに亡くなっているのだが。

すると、合宿所のカフェテリアに、死んだはずのその母がやってきた。人間の体をした見覚えのある母だ。やってきたと言うより、迷い込んで来たかのようにきょろきょろしている。
誰かを探しているのだとしたら、それはあたしのことに違いないと思って声をかけるが、彼女は振り向かない。

あたしのこの人間の体は声をだすことができているのか?
あたしは他の人に見えているのか?
そこにいる小柄な女性はたしかに自分の老母だから、カフェテリアに来たのだったらあたしは彼女の席を確保したり、なにか健康に良さそうな食べ物を見繕ってあげたりしなければならない気がするが、彼女は一向にあたしに気が付かない。第一こちらを見ていない。何を探しているのだか、部屋中を見回しているだけだ。

つまりこのあたしは彼女が思うような娘ではないのだろう、と唐突に思った。抱えたものが全部腐ってしまって、とぐろの中身がなにもない。なにもなければ自分は細い蛇であり、もう小山を作ることはできないのだった。そんな蛇が自分の娘であるはずはない、とあの蛇は思ったのではないか。

母の思うような娘でないことは仕方がないのだ、と常に思ってきたが、あのような蛇であることはやっぱり悲しいなとあたしは考えた。
岩を抱える蛇もある。樹木を抱える蛇もある。母のように何も抱え込まなくても太く大きな蛇もある。腐ってしまうような人間の食べ物なんか抱えた蛇はどこか間違って居るんじゃないのか。

流行の赤いお酒

合宿のリーダーが赤いお酒を持って母のところに来た。母は彼女が見えていて、そのグラスを受け取った。あたしはお酒が飲めないが、母はいくらでも飲めるのだった。
リーダーはにこにこしていた。赤いお酒は今流行しているのだ。だから得意なのだろう。彼女は流行しているものが大好きなのだった。あたしから見たらどこか軽くて味の薄い人間だが、母には好もしいものを持っているようだった。

赤いお酒は発泡していて、クランベリージュースと炭酸と、なにかを混ぜたようなものだろうと思われた。
あたしには気が付かずに、リーダーと談笑をしている母を眺めながら、あたしは「真似をすることだったら簡単だ」と考える。
たとえば赤いお酒の代わりにオレンジ色のお酒を作って、自分の娘に持っていくこととかは簡単にできる。そういうものを次の世代に伝えるってことだ。こういうものがあるんだよ、と。あるいは流行ったことがあるんだよ、と。流行ったのは赤いものだが、オレンジ色を選んだっていいんだよ、ってことを伝えるってことだ。そういうことがあたしにはできる。

あたしの人間の体は、むしろとても器用なのだった。
真似もできるし、真似をしないでいることもできる。
人が持っているものも見えている。
でも実態であるところのあの蛇はどうだろう?
かかえたものが腐ったあとに、いったい何をかかえるつもりだろう?
いつになったらまた小山のようになれるのだろう?
何故今まで腐ってしまうようなものを抱えているってことに気が付かなかったのだろう?











































































































































































































































































































































































































































おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。