ただ幸運の話でしかなかったとしても
孫ら、ばーちゃんにも子供の時ってのがあってな、お母さんというものに育ててもらったりしたのよ。
信じられないって?まあ信じなくてもいいけどな。
ともかく、ばーちゃんのお母さんっていうヒトが89年生きた後に、亡くなったあたりのことをもう少し蔵出しするんでよろしく。(2018年に書いたものをもとにしてます)
ママはあたしだけのママではない
母のことについてはいかような書き方もできるなあと、この数週間考えていました。
最後のの2か月半だけでも、そりゃいろいろとありましたが、われら母娘のかかわりの長いお話の中では、それも一部分でしかありません。89年も生きたんだもんね。
また、母はあたしだけの母ってんでもありません。
最後まで一緒に暮らした弟にとっては、また全然違う存在感を放っているんだろうなと思うし、母のことを「東京のおかあさん」とも呼んでいる、従兄の娘たちふたりにとっては、晩年、実の娘なんかよりよっぽどたくさんの回数会い、一緒にご飯を食べてた、近しい存在なのです。
従兄の娘たちは同じピアノの先生のレッスンをうけるために毎週母の家に来ていました。先生は生徒3人のために、家に来てくれていたのです。
母はその日だけは、とってもまじめにお料理をして、彼女たちに食べさせていたんだと思われます。
会社が終わってからレッスンにかけつけて、終わったらおばちゃんちでご飯食べる、という、彼女達にとって、毎週水曜日はそういう日でした。
で。母にとってはその日ばかりは料理自慢の腕を発揮する日、ね。
母がピアノを始めたのは父が死んでからのことですから、60の手習いってやつです。始めたのが平成元年ぐらい。昭和の終わりからほぼほ平成の終わりまでそれが続いたってことです。
従兄の娘たちは小さい時からやってますから、ショパンとかリストとか弾いてますが、母はまあ易しいものをぽっつんぽっつんやってました。
ピアノのその腕前がどうあれ、定期的に来客があることが、どんなに「ボケ防止」に役だったか、それは想像以上のものだと思います。
あたしは非常に感謝しています。あたしが「娘業」を引退したあとも、娘でいてくれた人たちがいたってことに、です。
ひいき目で見ても、母は全然家事が好きではありません。食いしん坊で、味にうるさくてお料理が得意だってことになってますけど、得意だからってマメに料理するかどうかは話は別です。
じつのところ出来合いのお惣菜とかてんやもので間に合わせることについて、全然ネガティブな考えもなかったし、そうした食事に不満もなくて、いつだって楽しく食べていました。
郷里の北海道から絶えず美味しいものが届いたりするし、近所の人も野菜のおすそ分けをしてくれたりしてました。そういう中で、嫌にならない程度に好きなものを作って食べるけど、無理とか見栄とかまったくなかったです。
サボるのは天才でした。でも自分のことは料理がうまいと思っていたと思います。
母は自分のことを褒めるのが大変得意、という性格でしたから。(残念ながら子供を褒めるのがうまいわけじゃないです)
お客さんも気を使う必要がない
家の中は整っていたためしもなく、掃除なんか大嫌いですから、最低限の衛生だけ保たれている、という状態でした。
お客さんがあってもそれは特に変わらず、人が来てもそのことを気にしないので、かえってお客さんが訪ねて来やすい、という状態をつくっていました。
弟の同級生たちが、よく泊まりに来ていましたが、母は寝るところとお布団だけ提供して、食事なんか出さなかったし、朝も起こさないで、自分はいつものペースで暮らしていました。
いつもの、というのは、要するにテレビみたり麻雀ゲームしたりして夜更かしをして、朝は昼近くまで寝ている、というペースです。
だから誰も気を使うことなく、いつでも泊まりに来られたのだと思います。彼らは母がまだ寝ている間に勝手に起きて勝手にふとんを畳んで、勝手にお茶をいれて飲んで好きな時間に出てゆくという風でした。
その母のマイペースぶりは、父が生きている時からそうだったように思います。泊まりに来る人があんまり好きな人じゃなくても、態度はたいして変わらなかった気がします。
人の幸運を読んでも面白くないかもしれないけど
そうしたおおらかさというか、ノーテンキさが、彼女の回りの空気を作り、よい人間を呼び、人間のよい側面が見えるような角度を作っていたのでしょう。
彼女は色々なものに恵まれ、最期の日々も、そうして親しくしていたひとたちと関わりながら過ごすことができました。
「幸運」の累積が、最期の日々をくるんでいたようにあたしには見えます。
命を取っていった病の中に、そりゃ恐ろしいものだってあったけれども、それだって彼女らしさを奪う結果にはならなかったと思います。
幸運を書き綴っても、読む人にはなーんも面白くない、ということをあたしはよおく知ってます。だけど、母をひとことでくくるのなら、「幸運な人でした」というしかないです。
ひとりの人についての一つの描き方として、まあこの場合これはアリだな、ということです。
おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。