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彼女のギャンブル

 子供の手を引いてフルーツパーラーのデコラ天板のテーブルについた時だった。隣のテーブルのにいちゃんが話しかけてきた。「タカコさんじゃない?」

 昔バイト先で世話になった男だった。一瞬にいちゃんに見えたが、よく見たら立派なおじさん年齢だ。自分と同じぐらいのはずだ。
「ひさしぶり!」と挨拶しながら5歳の娘にメニューを見せる。「好きなもの食べていいよ」

 娘は鮮やかなフルーツやパフェの写真を見ながら目を見開いてメニューのカタカナを読もうとする。選ぶのに時間がかかりそうだ。「ママのおともだちなの?」と、知らないおじちゃんの方にも気を取られる。

 タカコの頭の中では高速で過去のことが流れていた。スロットマシンの動きのように記憶がめくられてゆく。
「Kさんがこんな店?デート?いや、おひとり様か」
 繁々と男を見ながら、8年ぶりか、と計算する。
 男がとても良い笑顔を見せた。そうだこんなふうに笑う人だった。

 タカコがバイトをしてたのはほんの半年ぐらいで、20代の終わりだった。小さなパチンコの情報誌だった。Kは優秀なライターで、編集もしていた。強いギャンブラーでもある、と誰かが言っていた。

「甘いもの大好きだもん。そのレディーは娘さん?おいくつ?」
「もう5歳。あれからすぐ結婚したのよ。そちらは?看護師さんの彼女がいたよね?」
「覚えてるんだ。結婚したよ。タカコさんが結婚してくれなかったから」

 何言ってるんだ。お互いずっと相手がいたじゃないか、だいいちプロポーズされた覚えもないぞ、と思いながら娘の方を見る。ものすごく迷ってるみたいだ。「決めた?全部美味しそうだね」

「あのね、イチゴが大好きだけど、見たことないやつがいいかなって思って決められないの。スイカもいいな」
見るとスイカのパフェがある。もうそんな季節か、と思う。
「そうだね。旬のものを選ベば間違い無いかもね」
「しゅん、ってなあに?」
「その季節ってこと。果物には美味しくなる季節があるのよ」
「スイカ、おいしくなる季節なの?」
「そろそろだね。こういう、おすすめ、ってところに出ているのが旬のものだよ」
「メロンもいいなー」
「はいはい。ゆっくり選んでいいよ」

 タカコは店員を呼んでとりあえずコーヒーとアイスティーを注文した。「あとのものは決めてから呼びます」と告げた。

 Kが「結婚相手も旬で決めたの?」と、こちらの目を見ないで質問した。
「旬ねえ。どうかな」応えながらそれは違うなと考える。夫との交際期間はとても長かったのだ。
 Kの横顔はもう笑ってない。
「あの時はデジパチが旬だった。タカコさんと会った頃ね」
「そうらしいね。私はギャンブルしないから知らないけど」
「オレはタカコさん好きだったのになあ」

 娘の前で何を言い出すやら、と思ってタカコはとっさにおどけて見せた。
「私も旬だったからねー。今じゃトウが立ちまくりよ」
「そんなことないだろ?」
 K がムキになっているのがわかる。

「Kさんあの頃、デジパチの時代が終わった時に備えるって言ってラスベガスに行ったりしてたよね。すごいね。どんどん先に行って」
「ラスベガス取材ツアー行く時、通訳として来てくれないかって頼んだのにタカコさん断ったじゃん」
「英語、多少できてもギャンブル用語わかんないもん。ちゃんと適任の人紹介したでしょ」
「あん時、オレにチャンスあった?」

 よくない雲行きだな、と思ってタカコはまた、「どうかな」と言った。

 出会うタイミングによっては好きになったかもしれなかった、と思った事はある。本人に言ったことはないけどそれは認める。だけど今の夫と既に結婚を決めていた時期だ。

 いや、約束はなかったのだ。決めて欲しいとタカコが思ってただけだ。バイト先の仕事で海外に行くとなったら、当時の夫はどう思っただろうか?と考えてみる。
 Kと、カメラマンと、Kの上司のまるで芸能人みたいに派手に見える社長、それと通訳としての自分という組み合わせだ。ちゃらちゃらした時代だ。タカコは当時プロの通訳っていうわけでもなかった。明らかにえこひいきな人選だった。恋愛中の男なら、そんなの面白く思うはずがない。

「決めた!旬のスイカにする!」娘が大きな声を出した。
「スイカのパフェ?いいよ。旬って字読めたの?」
メニューに、旬のスイカパフェと書いてあった。
「さっきママが言ったからだよ。これがしゅん、なの?」
「そ。お前賢いね。すぐ字を覚えるもんね」
 店員を呼んで注文する。自分用にはフルーツの盛り合わせを頼む。

 Kが気をそがれてだまってしまった。Kのテーブルにはもう飲み終わったコーヒーカップとそのソーサー、食べ終わったケーキの皿がある。
 Kの結婚はどんなだったんだろう?と興味も湧くが、そういう質問はブーメランになって返ってくる気がしてやめておく。
 でも黙られるとちょっと気の毒になってしまう。

「ラスベガスには行ってみたかったけどね」と言うと、Kはまたこっちを向いた。
「来ればよかったのに」
「タイミングが悪かったのよ。賭け事の成績はどうでした?」
「計算した分はちゃんと回収したよ。会社の金だから、トータルで負けないようにやった。儲かった分でショーとか見て遊んだよ」
「いいねえ。あなた負けないんだもんね」
「負けるときは負けるよ。タカコさんが来なかったことが負け」
「そんなの勝ち負けじゃないじゃん」

 話の運びがよくならない。タカコは不愉快になってきた。娘の服の襟を直した。「子供連れで、今からでも行くかな?ラスベガスって安全なんでしょ?」

「行く!」娘が言った。「らすべがす、ってどこ?」
Kが笑って、「アメリカの砂漠だよ。いいとこ」とこたえた。
「お嬢ちゃんはギャンブラーかな?」
「ぎゃんぶらーってなに?」
「いい人」と、Kが娘の顔を覗き込んで言う。
タカコはため息をついた。
「いい人ねえ。算数はよくできる。それは確か。ママはギャンブラーじゃないよ。ラスベガスはカジノ以外にも遊ぶ場所があるから、ギャンブラーじゃなくても大丈夫」

「ママ、さんすうができないの?私はさんすうもやってうまくなって、さばく行って、らすべがす行く。ぎゃんぶらーやる!連れてってくれるの?パパも一緒に?」
 娘がはしゃぎはじめた。そこにスイカパフェとフルーツの盛り合わせが運ばれてきた。スイカのスライスが赤く、巨大に見える。ますます目が輝く。声がもっと高くなる。

「わあ。すごい。ママのもいいね。そっちもよかったな」
「いいでしょ。いろいろ載ってて。迷ったらこれがいいのよ。ママの好きなパイナップルもある」
「ここまた来る?今度こっちのにしてもいい?」
「いいよいいよ。今度ね。好きなのあったら分けてあげるよ」
「スイカ食べてから?」
「そう。でもパフェ食べたら、おなかいっぱいで無理かもね」
「むりー。パフェ大きいもん。絶対また来ようね」
「はいはい」
「らすべがすは?行く?絶対行く?」
「あははは。お前欲張りだね。パパに相談しようね」

 そうさ、何か食べたら他は食べられない、とタカコは思った。何か選んだらそこで一つのターンは終わるのだ。それにこちらが選ぶ権利があるかどうかだってわからない。ラスベガスに誘ったもKのほうだし、あのツアーに行かないって言った女と結婚を決めたのも相手のほうだ。

 実際行ったって行かなくたって決めてもらえなかったかもしれない。わかりゃしない。もうとっくに倦怠期だったのだ。
 自分は結婚したかった。もう決めておきたかった。30近くになって、まだ通訳学校とか通ってバイト生活だった。ものになるかどうかもわからない勉強してて、子供産むんなら時間的にも早いほうがいいけど、そんなことより本気の勉強だろ?って言う人もいた。
 子供だって産めるかどうか、そんなのわからなかったじゃないか。たいして体が丈夫なほうでもなかったし、相手も子供が欲しいかどうかわからなかった。夫はいい彼氏だったけど、いい父親になるかどうかなんて未知数だった。

 すべてに確信がなかった。だけどあの時結婚を決めたかった。相手の決心が揺らぐようなヤバいことはなるべくしないでいたかったのだ。ラスベガスに、こっちに気があるってことがわかっている男と一緒に行くだなんて、リスクが高すぎる。

 タカコは自分の皿を隣のテーブルのKのほうに寄せて言った。
「お好きなものがあったらどうぞ。ただしパイナップル以外」
「なんでパイナップル以外?」
「それはタカコの好物だからですよ」
「そうだったね」Kは言ってオレンジのスマイルカットをフォークにさした。
「私の好物を覚えてるの?」
「いろいろ覚えてますよ。馬鹿みたいに」
 そういえば何かの立食パーティーの時に、Kがパイナップルをたくさん確保してくれたことがあった。この人はいつもタカコに優しかったし、だから危険だった。

「フルーツの盛り合わせはリスクヘッジ?安全パイってこと?」
「なんのこと?あたしが夫を選んだのは安全パイを取ったのかって意味?」

 タカコの口調が強かったかもしれない。娘が口の周りにアイスクリームをつけたままこちらを向いた。「しゅんのスイカパフェおいしいよ」
 子供は敏いところがあって、ちゃんと母の心理を読んでいる。これが不穏な会話だってことはわかっているのだ。この知らないおじちゃんがママにへんなこと訊いているって知っている。
 Kには子供はいないのに違いない。いたら子供の前でこんな会話はしない、と思った。

「おいしくてよかったね。また来ようね」と娘の口をぬぐってやりながら言った。
「絶対ね。今度もスイカにするかもしれない」
「スイカはいつもあるかどうかわからないよ。今度も旬だったらね」
「ママのパイナップルはしゅん?」
「パイナップルにも旬はあるけど・・・・。必ずいつもお店にあるね」

 Kはコーヒーのおかわりを注文して、今度はマスカットを皿からとりながら言った。「定番を選んだってこと?いつもあるパイナップルを?」

「あのねえ」タカコはパイナップルを口にいれたままちょっとイライラした声を出した。「夫は果物じゃありません」
「失礼。ごめん。俺好きだったんだよ。それだけ」
「Kさん言わなかったじゃん」
「言ったら勝率が下がる気がしたんだよ」
「そんな計算してたのか」タカコは笑った。「だからそんなの勝ち負けじゃないんだってば」
「タカコはギャンブルしないって口癖だったね」
「算数はできるけどね。あ、いや、前言撤回するわ。あたしもギャンブルしたわ」

「え?」Kが今度はマンゴーを取りながら、「いつ?」ときいた。
「結婚はギャンブルじゃん。試行回数も少ないから算数も通用しないじゃん。すごいギャンブルだよ。ギャンブルはもうこれで十分よ」
「なるほど。それで、そのギャンブルには勝った?」
「ノーコメント。まだ途中だから。サイは投げたが、まだ終わってないんだよ。ながーいながーい勝負なのよ。でも子供はあたりだった。この子なんでもわかってるよ」

Kがまたあの笑顔を見せた。

おわり



おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。