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どんぐりの背比べ的な(容姿コンプレックスOrigin16)

どんぐりの美人比べ

 美大のキャンパスで、「強烈な美しさを放つ人ですら認められるとは限らない」ことをかみしめていた頃の話の続き。

 ”飛びぬけた美”が大衆に理解されないってことはよくあります。だけどあたしたちがいたのは美大なんて呼ばれる場であり、みんなが日々『美』について考えているはずの場所だったので、あたしは憮然としました。
 あたしが「絶対に美しい」と注目していたわがマドンナも、ここがそういうところだからこそ、あそこまで作りこんだスタイルをしていたに違いないのでしょうに。

 黒い口紅だって、相当な自負と確信がないとつけられないものです。彼女はいわゆる可憐な顔立ちではなかったのですが、よく伸びた完璧とも言える骨格を、歩き方も踊り方も、正統派の立ち居振る舞いで動かしていましたから、もしもそれで顔がきれいに作られていたら、全然面白くなかったかもしれないのです。
 あの人を拒絶するような化粧で、バランスを取っていたのだと思います。その手があったか、っちゅうぐらいのすごい化粧でした。

 なのにそれを「あれはグロいよ」と言った友人。彼女はそういえば「印象派の風景画がすき」と言っていたな。意味のわからない”孤独な絵画”の話などしたくない、とうそぶいていたな。
 ”印象派”って言葉だって、最初は悪口だったんだから、「グロい」も褒め言葉だってことにしようか。

 ともあれ。彼女が美しいのでないなら、あたしは他のかわいこちゃんなどはどうでもいいと思いました。

 番茶も玉露もぐり茶もウーロン茶も、出花でむせ返るようなキャンパスですから、そりゃかわいい子はいくらでもいました。
 かわいいなあ、と思う子が、喫茶店に誘ってくれて、「うふふふ。あなたってチャーミング」などとささやいてくれると、ひがみっぽいあたしでも、相当に心が弾みました。

 しかし、レベルから言って、どんぐりの背比べでしょう。背比べをしたあとどんぐりが褒めあっているようなものじゃありませんか。

プロの美人シロウトの美人

 たとえ、もっともっと”わかりやすい美”を売り物にする世界だとしたって、例えばテレビに映る親しみやすいアイドルタレントが、直接会って見ると、本当に珍しいほど美しい、特別な容姿をしていることを、あたしたちは知らないわけではないと思います。
 彼女たちはどんなに手の届きそうなイメージを演出していたとしても、覚悟があってその身を大衆の前に晒すプロなのです。

 出花だらけのキャンパスには雑誌モデルなどもいなくはなかったです。服を買いに行く原宿のブティックにも若いモデルが来ていました。肌を休ませるために休みの日はすっぴんです。なのにミルクの上に桜の花びらを散らしたようなその子のお肌について、ブティックのの店長は言いました。「あの子はめったに吹き出物も出ないんだってよ」と。
 努力以前のDNAの話なのかも知れず。「綺麗が仕事」ってそういうことでしょう。あの世界ではそれがありふれたDNAなんでしょう。

 わがキャンパスのマドンナにけちをつけた”印象派女子”だって、ああいう美ならわかるにちがいない。何でも似合ってしまうせいか、ちっとも面白くない服を買っているようなセンスのモデルだったけど、グロいと言われるようなことは一生なさそうな美人でした。

 だけどモデルの世界にだってレベルの差があります。きっとその「プロの美人」ならば、グロいといわれるほどの強烈さに恵まれなかったことの限界も知っているはず。
 なんたってプロなんだから。”印象派女子”に認められることの意味を知っていると思うよ。

 モデルのスカウトをしている人が言っているのを聞きました。「道行く人の90パーセントが振り向くような容姿でなかったら、パリコレの舞台に立つようなファッションモデルにはなれません」
 そのへんの雑誌のモデルならいざ知らず、という意味で、その人は言ったのです。

 ほらね。9割の人が振り向くとしたら、それはもやは奇形でしょう。
 奇形は服を着てそこにいるだけで大金をかせぐのです。だってその姿に「天才」があるんだから。
 理解されないことすらある美。きっと恋人や伴侶に選ぶにはためらわれるほどの”孤独な”美であろうと思います。

 奇形の美に比べたら、雑誌モデルなどみんな”どんぐり”だし、そうしたことを覚悟した”プロの美どんぐり”に比べたら、あたしたちなどさらに小さなくずどんぐりじゃん?

くずどんぐりの美を愛おしむ

 化粧も服もダイエットもワークアウトも脱毛も歯列矯正も整形手術すらも小さな話です。
 けれど、小さな話だけど、そのちいさな美の中にひとをいとおしむ、自分のささやかな美をかわいがる愛があるのにちがいありません。
 あたしはそんな小さくてささやかなくずどんぐりの美の世界で、認めてもらえないことを苦しんでいたけど、そんなことがなんだったんだろう、と思いました。
 
 あたしたちがくずどんぐりとして、大差ない美を競っているのだとしたら、すべての人は美しいのじゃないのかしら?
 このくずどんぐりの中で母に似ていてラッキーとか、父に似ていてアンラッキーとか、背が高くないから不美人とか、どうでもいいやんか。
 
 あたしたちが問題にしていた美は、あらかじめありふれている。あまりにありふれていて、すべての人の手の中に忘れ去られて、握られている。
 ありふれた美しか見えないくせに、母が自分の娘の美に満足しないのは間違っている、とあたしは思いました。
  
 あたしには少なくとも、どんぐり仲間を満足させる資格ぐらいあったわよ。せいぜい磨いてマシなどんぐりになったなら、マシなどんぐりがまた「チャーミング」だと褒めてくれるでしょう。 

 こうしてあたしは人の容姿を褒めることが平気になりました。容姿のことを話題にするのが苦しくなくなりました。そのことが自分のひがみっぽさや自信のなさに結びつかなくなったからです。

 いつか友人の男子たちが、いかに自分の恋人たちの美をあがめていたかについて書きたい・・・・とも思うんだが、これがけっこう難しい。難しいけどコンプレックスに苦しむ女子には覚えていて欲しいです。君らのBFはあたし(よその女の人だよね?)にそうっとのろけていたってことを。本人には照れて言えなくてもね。言えばいいのに。いや、言えていた人もいるに違いない。

 恋人を持つ若い男の子たちは、母親たちよりもずっと優しく、くずどんぐりの美を発見することに長けていました。

つづく。

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「モノ書くコドモ」から「モノ書くおばちゃん」に至るまでに否応なしに書いたボーダイな駄文を、モノ書くばーちゃんが読みやすいプラットフォームに…

おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。