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#21. 自分にできる貢献の始め方

私は社会の幸福に貢献したいと思っています。
でも全ての人に貢献が出来るわけではない。
私が貢献出来るのは、私が向き合える範疇の人だけ。自分の許容を超えたヒトやモノ、コトに向き合うのは、今は諦めて良い。こう考えています。

ある日、駅の構内に寝ている浮浪者風の方を見て「死にそうなのか、寝ているだけか?」の判断が難しいときがありました。
私は、声を掛けないと判断した自分に対して「いつもの私だ、いつもの私だ、貢献ってなんだ」と問い、暫く解決できませんでした。
未だに声をかける勇気は持てていません。

また、通り過ぎる人が落とし物をしても声を掛けなかった自分がいた事もあります。

更には、随分前のことですが、交差点でスリップして転倒したバイクの運転手に、すかさず駆け寄り安否を気遣う事が出来なかった私もいます。
こんな時、皆さんならどうしますか?

世の中には、すかさず駆け寄ったり、声掛けが出来る立派な方々が沢山いらっしゃいます。
私の、ある友人は「必ず声を掛ける。罵声を浴びせられる事もあるけれど」という人がいます。
この方の域には、私はまだいない。
この方は「小さな貢献」では生きていない。
この方は「死ぬ人を多く見て来たし、死と生に執着していない」と仰ります。
「今ある、私に与えられたイシキが出来ること」のために言葉と感情と身体を使っている。
そんな人がいます。
とても面白い人です。
私はこの人といると、自分にはハードルが高すぎる事を考えさせられ、圧倒されます。

そんな時に考えると良いのではないかと思うのは「私にその準備が出来ているか」という問いです。「いまここに在る私で良い」と仰る人も多いですが、もう少しだけ先のイメージです。
私は「いまここに在る私」が「目指すところに動いていく私」でありたいと思っています。
河に流れる木の葉でしかない私ですが、イシキを持って動けば、小さな波が起きる。
その波が隣の木の葉を揺らし、波紋が拡がることで救える命があるだろうと考えています。

ここでは「声を掛ける」という事例しか示しませんでしたが、私達が出来る行動は、それだけでは無いですよね。
観る、聴く、気持ちを寄せる、支える、話す、伝える、、、。
命朽ち果てるまでにはこの友人のような準備が整っている私になれれば良いなと思っています。
私もまだまだ修業が足りません。

そんな時、「震災に遭われた地域に何か出来ないか」と話す声を聞きました。その方は、「ふるさと納税なら私にも出来そう」と話していました。
私には思いもつかなかったアイデアです。
その声が私に聞こえて来たという事は、「今ある、私に与えられたイシキが出来ること」であり、「私にはその準備が出来ている」という事でしょう。

私にも出来る事がありそうです。

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